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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

朽ちない土台に建てるために…

こ のところ、ずっとキリストと共なる十字架の死というテーマについて思いめぐらして来たのには、理由がある。それは私自身が、このような中途半端な信仰生活 を送っているのでは、人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れないということを、ある時、はっきり自覚したからであった。

すでに書いたように、私は人生において重大な危機を迎えた時、全てのことを差し置いて、ただ主を求めた。そして、主は私の叫びに応えて下さり、非常に困難 な問題に解決を下さっただけでなく、生まれて初めて、キリストが私の霊の内にお住まいになって下さり、死と復活を経られたキリストとの生き生きした結合と は何であるかを私は知った。

だが、その後、私はただ神だけへと向かう心の一途さを忘れてしまった。大きな圧迫から解放されて、ようやく自由を経験した私は、無意識の過ちではあった が、その自由を、神に栄光を帰する機会としてでなく、自分の人生を楽しみ、自分を守るために利用しようとしたのだった。右も左も分からない土地で、兄弟姉 妹だけが頼りだったという言葉は、言い訳に過ぎない。

以前は、孤独を強いられる環境にいたため、否応なしに、神へ向かう以外に道はなかった。しかし、その孤独が取り払われたように見えた時、私はどんな状況に 置かれようとも、ただ神との交わりを第一優先するために、密室で時間を費やすことよりも、人との交わりを楽しむために、外へ出かけて行き、活動のうちにエ ネルギーを費やすことを好んだ。そうして次第に、内におられる御霊に教えられるよりも、人に教えられることを、優先するようになったのだ。私は、人生の巨 大な危機が去った後で、引き続き、神に対して同じように命がけでより頼まなかった。大事だけでなく、小事についても主により頼むことを私は学んでいなかっ たのだ。

その結果、何が起こったかは、すでに書いた通りである。それは欺きであった。その頃、私が何よりもより頼んでおり、私の心の喜びであった兄弟姉妹の交わりは、御霊の働きに逆らって、肉の誇りによっていたずらに誇り、ついには立ち行かなくなり、私は交わりを失った。

幸いなことに、この手痛い経験によって、私は再び、主ご自身の懐へ帰らされた。こうして、その頃、私の心のうちにあった肉の弱さとしての、人への依存心が 明らかにされた。私は主を求めていると言いながら、主ご自身ではないもの、見えるもの、私の感覚を楽しませてくれるもの、私の心を安心させてくれる人やも のに頼って歩もうとしてしまったのである。

この経験から、どんなに敬虔そうに見える信徒の言葉であろうとも、どんなに心を楽しませてくれる集会であろうと、キリスト以外の、見えるもの一切が、全く 頼りにならないものであることを思い知らされた。主は私の人生に対して、決して、訓練を容赦なさらない。多くの弱さを抱える、心貧しく、愚かな人間に過ぎ ない私を、主は憐れみと忍耐を持って、ずっと教えて下さっている。

恐らく、私の言っていることは極端だと思われる方もいらっしゃるだろう。私たちが、人との愉快な交わりの場を避けて、この世の楽しみを退けて、孤独で、静 かな、人知れぬ場所へ、たった一人で向かおうとする時、多くのクリスチャンを含め、世間はどれだけ私たちを変人扱いしようとするだろう! このような人付 き合いの悪さ、偏屈さは、きっと私たちの人間不信や、心の度量の狭さから来たものに違いないと、世間はどれほど私たちを嘲笑しようとするだろう!

だが、忘れてはならない、私たちの神は妬む神であり、神は私たちが心の全てを尽くして、ただ神だけを愛することを、第一にするよう、お求めになっておられ る。私たちがもしも、信仰の孤独を耐え忍ぶことができないならば、真に神だけにより頼むことはできず、世と妥協した生活を送ることしかできないだろう。キ リスト者は、この世の事物に媚びたり、クリスチャンの世間のご機嫌を取ろうとするより、まず神に対してこそ、自分の心を供え物として捧げ切り、神に満足し ていただくことを第一に考えた方が良い。全てはそれからである。その順序は、御言葉が証していることである。

外からやって来る欺きに対して、私たちが目を覚まして祈っていることの重要性は、どんなに強調しても、強調しすぎることはない。キリストご自身から私たち の注意を逸らそうとするものを、何であれ(たとえ兄弟姉妹との交わりであれ)、目を覚まして見張っていなければならない。

暗闇の勢力が、あらゆる手段を用いて、力を尽くして成し遂げようとしているのは、私たちを死と復活を経られたキリストとの真の結合から引き離し、内なる御 霊から全てを教えられようとする従順を妨げ、外からやって来る偽りの影響力に、再び服させようとすることである。偽りの勢力は、何とかして、私たちを主と の内なる静かな霊的結合から引き離し、外から来る刺激や影響(思いと感覚)の世界へと誘い出し、それにひっきりなしに溺れさせたいのである。それは、もし もキリストとの真の結合から引き離され、感覚の世界へおびき出されるならば、私たちは完全に無力であることを彼らが知っているからである。

エバが蛇に騙されたのは、彼女の思いと感覚が欺かれたことを通してであったことを忘れるわけにはいかない。私たちは地的なもの、アダム的なもの、私たちの 十字架で対処されていない自己から出る思いや、感覚を信用しないで、キリストにより頼むことを経験的に学ばなければならない。私たちが、人の言葉や、自分 の評判や、人との交わりの有無や、自分の心の状態や、生活状況や、外的現象の如何に頼らずに、ただ主ご自身にのみ錨を下ろし、御霊から、直接、教えられる ことの必要性を、今日ほど自覚せねばならない時が、他にあるだろうか。自分を楽しませ、満たしてくれるあれやこれやの事物や、立派に見える信者の言葉に頼 るのでなく、私たちは、ただゴルゴタを拠点にして、キリストご自身だけによって信仰を守ることを学ばなければならない。

その意味で、どんな人間も、どんな被造物も、私たちが主に向かう妨げとなってはいけないのだ。私たちは世からも兄弟姉妹からも助けを受けることがあるだろ うが、キリストの十字架を通して、この世に対しては死んだという信仰に堅く立ち、主との愛の一致の中には、決して、何者も入ることはできないし、入れては ならないのだ。もしも主との結合を知り、主の深い愛を個人的に知った後で、私たちが主以外のものに心を向け、主以上に何かを大切にしようとするならば、そ の結果は、非常に厳しいものとなるだろう。私たちは自分の愛の対象が、妬む神の焼き尽くす火によって、根こそぎ焼き尽くされ、私たちの人生そのものが、灰 燼に化すという、悲しい結末を、見なければならなくなるだろう。

朽ちない土台に建てられたもの以外は、何一つ残らない。だが、私たちには何がキリストに属するもので、何が自己や、アダム的、地的なものであるかさえ、見 分けがつかない。どうか愚かな私たちがこれ以上、人生を失わなくて済むように、主よ、あなたが私たちの目を開いて下さい。私たちが朽ちない岩であるキリス トに根ざし、キリストによってこそ、人生を建てることができるように、大祭司なる主イエスよ、あなたが私たちの霊と魂とを御言葉によって切り分けて下さ り、私たちが経験を通して、それらを見分けることができるようになりますように。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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