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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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ただ神だけが栄光をお受けになるために…

今、 知人の貸して下さったジョージ・ミュラーの伝記から、大いに励ましを受けています。以前に働いていた頃には、注意もせずに素通りした箇所が、今は特に、心 に響くのです。経済的な面で、ミュラーがどれほど細かく主により頼んだか。孤児院に迫り来る様々な危機の中で、どれほど彼が、全ての問題に対して神からの 答えを引き出す武器として祈りを用いたか、一つ一つ、心に留めています。

このような人生を、今、私も歩まされています。困難がなければ、どうして信仰を活用して、主により頼む心を持ちえたでしょう。ですから、その幸いを主に感謝したいと思います。

また、ガイオン夫人著、短くて簡単な祈りの方法も、 お勧めです。私の経験からも言えますが、私たちは時々、痛んだ、悲しむ心を持って、主の御前に出ることがあります。あるいは罪を犯して、良心の咎めを覚え ることもあります。私たちの心にある問題は、自分で思っている以上にいつも深いものです。さらに、キリスト者の兄弟姉妹の間でも、悪や、利己主義、高飛車 さ、互いの罪定めがあることを知って、大いに嘆き悲しむこともあります。このような悲しみを経験したことのない人が、どこにいるでしょう。

しかし、そんな時、自分の心の状態は誤っているのではないかと恐れ、自己分析にふける必要は全くありません。ただ主の御前に出て、静まりましょう。ただ主 の御光によって、自分の心のありのままの状態や、罪、問題を示してもらいましょう。そうして、その問題を主に委ね、主に取り扱っていただけるよう、待ち望 みましょう。人は私たちの心に何か問題があるのではないかと察知するや、否や、早速、それを私たちの信仰の欠点や、弱点のように、責めて来るかも知れませ ん。

しかし、私たちは、地上で誰よりも多くの、全ての苦難を引き受けられた主イエスを信じています。私たちの大祭司は、人間の弱さを誰よりもよく知っておら れ、それをいたわりと憐れみの心を持って扱うことができます。ですから、もしも信仰を活用するならば、全ての問題は、主に通じる道になり得ます。罪深い心 を持ったままで、こんなに大きな問題を抱えているままで、主の御前に出る資格はないのではないか、もっと自分で自分を厳しく吟味せねばならないのではない か、もっともっと利己的でなくなってからでなくてはいけないのではないか、などと思う必要はありません。正確な自己診断を下し、自分で自分を治療しようと 思う前に、むしろ、へりくだって、その問題をまことの医者である主に見せましょう。主は、私たちの抱えるどんな大問題でも、驚くほどの愛を持って、取り扱 うことがおできになります。

私は今でも、思い出すことができます。かつて私が絶望と悲嘆にくれていた時、私に関心を払う人は世間にほとんど一人もおらず、その問題を愛を持って扱うこ とのできる人も、地上には一人もいないかのようでした。このような時、人は皆、何と残酷な存在に変わったことでしょう。しかし、そんな時、主の臨在は、私 の心に甘かったのです。まさに絶望の極みにあった時に、主は私の心に触れられ、私はこれまでに生涯で一度も経験したことのなかった愛と憐れみを心で直接、 知りました。そのため、状況はあまりに困難であったにも関わらず、しばらくの間、私は喜びに溢れずにはいられませんでした。

多くの人は、生い立ちを通して、また、その後の人生を通して、経験的に、愛とは何か、いたわりとは何かをいくらか知ります。しかし、もしも経験という方法 を通してしか、人が愛とは何かを理解することができないならば、愛を経験したことのない人には、愛とは何かを、全く理解する手がかりがないということにな ります。だとすれば、そのような人には、神は愛であるということの意味を知る道は、閉ざされているのでしょうか?

そうではありません、幸いなことに、主は経験を通してではなく、直接、私たちの霊に、魂に触れられます。主が私たちの心を訪れられるならば、私たちは全く 新しくされます。主を知らずして、正常とは何か、愛と憐れみとは何かを知ることは、人にはできません。ですから、幼子のように、へりくだって、主を求めた 人が、主を得るのです。たとえ人間として望みうる最高の恵まれた環境に生きている人であっても、主に触れずして、つまり、キリストとの結合を持たずして、 愛とは何か、憐れみとは何か、聖とは何か、義とは何かを、知ることはできません。それらの言葉は、全て人間の頭脳によって作り出された空論になって終わっ てしまうでしょう。

感覚的には、私たちはいつもいつも、主の甘く麗しい臨在を、享受することはできないかも知れません。感覚的には、主の臨在の甘さが分からなくなり、魂が乾 いて、主が遠くにおられるかのように、あるいは私たちをお見捨てになったようにさえ、感じられることがあるでしょう。しかし、そんな時には、信仰を活用し て、主を信じます。私たちの心や理性や知識や全ての力を総動員して、ただ主の御約束を信じます。

これまでに、私は記事の中で、色々と直面していた問題を、ありのまま書いて来ました。困難の中で、主の勝利を、自分の言葉によって、公に宣言することを通 して、私が実際に主から受け取った恵みは、はかりしれないものでした。また、兄弟姉妹からも、祈りの助けを得ることができました。

しかし、子供が自転車の乗り方を覚えるのに、いつまでも補助輪は必要ありません。これからは、私が直面している問題を事細かに書き記すことはないと思いま すし、私を助けてくれる兄弟姉妹の名を、高く掲げることもしません。それは、全てのことについて、人ではなく、神が栄光をお受けになるためです。

主よ、あなたは天地の基が据えられる前から、このように低く、卑しく、弱い人間に過ぎない私を、愛を持って、選び出して下さいました。あなたがこれまで に、私の主であられることを、私の人生を通して、大胆に示して下さったことを感謝します。どうか、これから先も、あなたこそが私の神であられることを、表 わして下さいますように。あなたは私が老いても、白髪になっても、私を見捨てず、持ち運ぶと約束して下さいました。私はあなたにより頼みます。全ての困難 を、ただあなたの御許だけに持って行きます。主よ、ただあなたの御名だけに栄光が帰されますように。

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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