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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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主は私の羊飼い

「主は私の羊飼い。
 私は、乏しいことがありません。

 主は私を緑の牧場に伏させ、
 いこいの水のほとりに伴われます。

 主は私のたましいを生き返らせ、
 御名のために、私を義の道に導かれます。

 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
 私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。

 あなたのむちとあなたの杖、
 それが私の慰めです。

 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
 私の頭に油を注いでくださいます。
 私の杯は、あふれています。

 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
 恵みとが、私を追ってくるでしょう。
 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇二三編)


私たちが、この世において、たった一人見捨てられた、孤立者となって、寂しさと悲しみに暮れながら、生きていかなくて済むのは、なぜでしょうか。それは断 じて、私たちの人徳のゆえでなく、私たちが愛すべき友人に恵まれており、私たちを慕い、敬ってくれる兄弟姉妹が、いつもそば近くに寄り添ってくれるからで はありません。

今、真にへりくだって、ただ主の御名だけに栄光を帰したいと思います。誰も自分を誇ることのないためです。私たちがこの地上で、一人ぼっちで置き去りにさ れなくて済む幸いを、私たちの人付き合いの良さや、私たちのへりくだって、快活で、隠し立てのない、あけっぴろげな性格や、私たちの友人の気立ての良さな どの功績にしないように気をつけたいと思います(果たして、そんなに素晴らしい性格が私たちにあるのでしょうか)。

主よ、感謝します、私たちが今、孤独でないのは、ただ、私たちの最愛の友であられ、最高のカウンセラーであられる、主イエス・キリストが、私たちの罪深い魂を十字架で贖って下さり、どんな苦しみのさなかでも、私たちと共にいて下さるからです!

心弱い私たちの目は、あまりにも、見えるものに簡単に奪われます。私たちは何としばしば、人に栄光を帰そうとする誘惑に駆られるのでしょうか。私自身を筆 頭として、人は、幸福であれ、不幸であれ、しばしば、自分の経験を誇りたい誘惑に駆られるのです。慧眼な読者は見抜いておられるでしょう。主のために受け た言い尽くせない苦しみを語っている時でさえ、その実、自分の努力を誇っているだけの瞬間が、私たちにはどれほどあるでしょう。

さらに、私たちは麗しい兄弟姉妹との交わりを誇るという過ちにしょっちゅう陥ります。私たちは自分の周りにどんなに素晴らしい人たちが寄り添ってくれてい るか、自分がどれほど世の中で役に立ち、必要とされているか、自慢したくて仕方がないのです。自分が誰からも必要とされていない人間だと感じることほど、 人の自尊心をいたく傷つけることはないでしょう。この不幸を避けるために、何としばしば、私たちは、信仰を口実にして、主ではなく、兄弟姉妹を誉めそや し、麗しい知人から受けた恵みを誇ろうとするでしょうか。

しかし、栄光を受けるにふさわしいお方はただお一人です。主こそ全ての恵みの供給者であられ、主イエス以上に、より頼むことができるお方、また、より頼む にふさわしいお方は、一人もいません。主は、私たちが悩んでいる時、兄弟姉妹のもとに駆けつけるよりも前に、まず、最愛の友であられる彼のもとに、問題を 持っていくことを、お喜び下さいます。

人の人生には、時折、他人と分かち合うことのできない、深すぎる悲しみや、苦しみが訪れます。言い知れぬ苦しみや、悲しみを抱えて、私たちが、ただ沈黙の中へ追いやられるしかない時があります。しかし、御言葉は言います、 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」と。死の陰の谷を歩む時、誰が、私たちの支えとなるのでしょうか。誰が私たちに寄り添ってくれるのでしょうか。恐らく、それまで私たちを理解してくれ、励ましてくれた兄弟姉妹も、その瞬間には、そばにいないでしょう。

その時、私たちを理解できる人は、地上に誰一人いなくなることでしょう。肉なる助けの全てが尽きて、私たちはこう叫ぶでしょう、「もうおしまいだ! 私は 完全に見捨てられた! 全ての望みが尽きてしまった! 生きている望みさえ、もうどこにもない!」 しかしその時、キリストが、私たちと共におられ、私た ちの真の助け主となって下さることを知るのです。「私はわざわいを恐れません」、なぜなら、あなたが私とともにおられますから

キリストこそ、我が助け主、我が避け所、我が救いの岩です。兄弟姉妹が避け所なのではありません。信仰の孤独とは何でしょうか。それは全ての肉なるものを より頼まず、ただ主だけに信頼するために、主ご自身にまっすぐ目を注ぎ、主と差し向かいで生きていくことです。私たちが言い尽くせない苦しみを心に抱えて 一人で悩む時にも、涙の谷に引きこもっている時にも、地上の全ての人から蔑まれ、見捨てられたような時にも、私たちに寄り添って下さり、私たちを引き上げ て下さるのは、ただキリストなのです。言葉にできない私たちのうめきや涙を、愛と憐れみを持って、慰めて下さるのは、御霊であり、キリストなのです。

ですから、主に感謝します、このお方を得ているがゆえに、私たちは困難に遭遇しても、うろたえる必要はないのです。いつもいつもひっきりなしに何かの問題 に押しつぶされそうになっている、貧しく、頼りない、哀れな人間として、人の助けを求めて走り回ることから解放されているのです。自分の心の苦しみのため に、常に人の憐れみや同情を乞う物乞いと化す必要性から、解放されているのです。(もちろん、時には、私たちが弱さを抱え、兄弟姉妹によりかかる瞬間も あっていいと思いますが…。)

私たちは、主の御前では、貧しい者であることを忘れてはなりません。私たちは、主に対しては、必要な助けや、守り、憐れみや、愛、赦しを乞うことしかでき ない存在です。主の御前に、富める者として立つことは、むしろ、災いです。しかし、私たちは主に対しては、極めて貧しい者ですが、主が十字架の御業を通し て、私たちを世と肉に対する債務から解放して下さったので、この世に対しては、もはや負債のある者として立たなくて済むことを感謝します。

私たちはこの世に対して、負債を負っていません。むしろ、私たちはこの世にあって、主の栄光の豊かさを証する証人として生きているのです。このことを信じ ましょう。主は、私たちが地上でどんなに貧しく、低められている瞬間にも、私たちが天の助け主に信頼して、落ち着いて、健やかに自立して生きる道を、必 ず、保障して下さいます。なぜなら、主は、私たちが人の助けに依存するのではなく、神の助けにのみ、依存するよう招いておられるからです。困難にある時、 私たちが地上の人々の情けを求めて走り回るのでなく、天の銀行に信頼して、御父の許可のもと、そこから全ての必要を引き出すように、招いておられるからで す。

私たちに知恵があったから、もしくは、優れた兄弟姉妹との知遇があったから、さらには、私がへりくだって十字架の苦しみを負ったから、私たちがあれやこれ やの苦難から、救い出されたのではありません。私が苦難から救い出されたのは、私の努力や、私の忍耐によらず、ただ主の一方的な憐れみによります。まこと の供給者は神です。讃えられるべきは神お一人です。どのような苦難の中にあろうとも、私たちが、「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません!」と、証できるように整えて下さるのは、栄光の主です。ですから、主をこそ誉め讃えます!

尽きない富に富んでおられる天のお父様、どうか私たちに健やかな自立の道を開いて下さい。私たちが人の助けから本当に自立して、あなたにのみより頼むこと の幸いを、心から享受できるように、どうか導いて下さい。私たちが自分の幸いであれ、苦難であれ、自分の過去の経験や、功績により頼み、自分や他人の肉を 手柄として誇ろうとすることが、もうありませんように。肉なる者ではなく、天にお住まいの父だけが、栄光をお受けになりますように。どうか世が私たちを通 して、あなたこそが神であられることを知りますように、私たちの上に、ご自身の御業を成して下さい。御心が地になりますように。

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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