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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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パン裂き

以前、筆者は、パン裂きなる儀式に憧れていたことがあった。
なぜならば、主にあっての家族というものを、
目で見て確認できる場所がほしかったからだ。

しかしながら、年々、そうした憧れは、無意味なものとして過ぎ去って行った。

今、筆者は多くの家庭集会を巡り、パン裂きだけでなく、多くの集いを経験した。
恵まれた家庭の美しい台所や、兄弟姉妹の群れ集う喜びの場所、手ずから用意された豪華絢爛な食卓などなどを、何度、目にして来たか分からない。

だが、そうしたところに、結局、本当の神の家族も、御身体もなく、
キリストの御身体とは、やはり目に見えない霊的な体系なのだ、と今は信じている。

だから、以前には憧れていた家々の教会というものにも、私はほとんど関心がなくなってしまった。

今でも、筆者の家には、人をお招きするような豪華なリビングルームもなければ、聖餐のための正式な道具もない。せいぜい、筆者一人が讃美歌を歌うことのできるピアノと、筆者一人分の椅子と、一人分の聖餐式を行うことのできる用意があるだけである。

そこには、家に入りきらないような大量の信者が押し寄せて来たことなどは一度もないし、恭しい儀式が行われたこともない。
 
「未だにそんな環境にいるのですか」と、笑う人もあるかも知れない。
筆者も、かつては大勢の信者たちを受け入れることのできる家を探していた。

だが、大勢の信者たちを招いて楽しい集会を開くことのできる素敵な家々を見て来た結果、結局、そんなものは要らない、という結論に達したのである。

キリストの御身体は、目に見える形で存在するものではない。
むしろ、目に見えるものは、ことごとく偽りと化す。
もしも筆者が自分の家に多くの信者たちを集めるようになれば、きっとその集会が、他の信者たちの陥った罠と同じように、筆者にとって罠となり、それが誇りとなり、よすがとなって行くのではあるまいか。

ついに最後は、それが自分の家や手料理や交友関係のの自慢のために開かれる集会であるのか、神のために開かれる集いなのか、それさえ分からなくなって終わるのではないだろうか。

つまり、私はこんなに大勢の人たちに覚えられ、こんなにも祝福された集会を開いており、何と神に祝福された人間なのだろうかと、集まった人数を指して言うようになるのではないか。

そんな誘惑は、むしろない方がいい。
 
「しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。」
(ルカ21:16)


この言葉を、私は人生で幾度、経験してきたことだろう。
特に、信者の裏切り、というものについて、幾度、思い知らされて来たことであろうか。

始めはそういう出来事が起きる度に、混乱し、不安に思い、我を哀れんでいた。
だが、今はそんな風には感じない。

それは、相手が人間だから起きることなのである。
 
たとえ主にあっての兄弟姉妹という関わりの中であろうと
生きた人間の誰かが、私の心の中で偶像になることを、
神は決して、私にお許しにならない。

昔も今もこれからもそれは決して変わりはしない。
 
だから、人間に対する期待というものは、年々、なくなって行くのが正しい。
 それはいたずらな幻滅でもなければ、意地悪な失望でもなく、ただあるがままの人間の姿を、あるがままで理解したに過ぎない。
 
天的な愛を私に知らせるため、主は天然の愛の対象をしばしば私から取り去られただけである。

だが、同時に、未熟だった筆者が、まだどうしてもパン裂きにあずかりたいと願っていた頃には、不思議な形で、主はその機会を与えて下さった。

 「主よ、一体、誰ならば、私が共に聖餐にあずかることを
あなたは許して下さるのでしょうか?
あなたの御身体を共に建てあげる家族として誰を送って下さるのでしょうか?
 
まさかあなたは、この見知らぬ街に、私を一人置き去りにして、
後は勝手に生きて行けと、おっしゃったりしないでしょうね?」

そんな風に、わらにもすがるような思いで、祈っていた頃には、
その祈りにも主は応えて下さり、びっくりするほど早く、集いの機会をお与え下さったものだ。
 
今はもうそのように、誰かの家に招かれて、目に見える儀式にあずかることで、御身体の実体を確認しようとは思わない。自分を受け入れてくれる場所がどれくらいあり、どれだけの人数がそこに集っているか、などといったことをも全く心に留めない。

目に見えるところに、どれだけの人たちが集まっていても、集まっておらずとも、この地上に、主にあって一つとされている全世界の兄弟姉妹は確かに存在しており、筆者がその人たちを直接知っていようと、知っていまいと、自分が確かにキリストの御身体の一部であることを信じているからだ。

むしろ、目で見て確認できないからこそ、余計に、信じる意味がある。
 
枝は、幹につながっていることが何より肝心である。
他の枝である兄弟姉妹がどのような状況にあるかに目を留めるよりも、
自分自身が、枝として、しっかりと幹につながり、幹から必要な養分をいただき、御身体の一部として、神に対して生かされることこそ、肝要である。

だから、年々、筆者は他の枝がどうなっているかには関心がなくなり、ただ幹だけに目を注ぐようになった。
これは日本ではありません
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