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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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魂の命を否む

誇るべきものならば、どんな人よりも、沢山、持っていたパウロ。そのパウロが、私はキリスト以外に誇りとするものはない、キリストを知っている素晴らしさのゆえに、自分にとって得であった一切のものを損と思っている、もし誇るなら、私は弱さを誇ろうと言い切った(ピリピ3:8,Ⅱコリント11:13,12:9)

私にも、誇れるものは沢山あった。しかし、そのどれ一つを取っても、私の人生を罪から救うことはできず、私の人生の土台が、神の焼き尽くす火によって、根 こそぎ燃やし尽くされるのを、防ぐこともできなかった。私を救って下さったのは、主イエスである。私の能力など、何の役にも立たなかった。だから、今、主 イエス以外のものにより頼もうとは、私は思わない。

どうして多くの人々は、古くからある初めの教えを捨てて、いつも人目を惹き、世でもてはやされる、新種の奇抜な教えの方に気を取られ、世から喝采を浴びる方向に逸れていくのであろうか。御言葉に気をつけよう、「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」(ルカ16:15)、と、主イエスはわざわざ警告されたのだ。

富むことを願い求め、世の中で栄光を受けることを願ったキリスト教界の先人たちが、どのように恐ろしい罪と誘惑に落ちて行ったかを、私たちは実際に見て 知っている。彼らは何よりも、クリスチャンの世間から栄光を求めたがゆえに、そうなったことを見逃してはならない。私たちは彼らと根本的に違う人間なのだ ろうか。私たちも、彼らと同じ弱い器である。だから、人々の誤りを糾弾しながら、自分も、この世での栄光に誘われて、自分を誇るという過ちに陥らないよう に、目を覚まして祈っていなければならない。もし私たちが富と栄光に誘われて偽りの道に落ちて行くならば、他人を非難した分だけ、私たちへの裁きは、より 一層、厳しいものとなるだろう。

世における自己の栄光を求める私たちの魂の願いは、抜きがたく、焼けつくように強い。神ご自身だけが、それを十字架で終わらせることができる。幾多の経験 を通して、私は人の目に尊ばれるものが、どうして神に忌み嫌われるのかを、思い知った。人の目に麗しく見えるものが、必ずしも実質を伴うとは限らないどこ ろか、その実質が見えるところと正反対の場合も多いということを知った。人から賞賛を受けて、高みにいるように見える人たち、世で成功をおさめているよう に見える人たちの生き方の中に、かえって、大きなつまずきと、恐るべき罪が隠されている場合が多いことを、何度も、何度も、思い知らされた。人目を惹くほ どの富と名声は、世との妥協から生まれている場合がほとんどである。だから、今は私より富んでいて、栄えており、尊敬を受けているように見える人を、羨ま しいとは、思えなくなった。

「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。」(箴言14:12)

私たちは純心であっても、見せかけにころりと騙されてしまうほどに、オメデタイ人間にならないようにしたい。死に至らないで済む道とは何であろうか。それ は私たちがしょっちゅうより頼んでいる手練手管や、私たちの優れた才能や、立派な人たちとのつながりや、涙ぐましいまでの努力や功績ではなく、キリストで ある。自分を誇っている人たちの言い分に耳を貸して、自分には何もないと惨めに思う必要は全くない。なぜなら、どんな人も、自分の力で天国には入れず、キ リストだけが、死に至らないで済む道だからである。

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 」(マタイ7:13)

広い門は、常に私たちの目を惹き、魅力的に見えるだろう。広い門には、いつも素敵な人たちが立っていて、優しく、甘い言葉で、私たちを手招いてくれるだろ う。そこをくぐれば、私たちの人生には、新しい展望が開けるように思われる。その向こうには、青空が見えており、豊かな牧草地さえ見えている。その時、私 たちの心に沸き起こる、焼けつくような憧れ。ああ、今のような、何のとりえもない、灰色の暮らしに、さよならを告げて、その青空へ飛び込めば、もっと生き 生きした、新しい人生が始まるのに! 飛躍への一歩を踏み出せるのに! そこには何より魂の燃焼がある、私たちの魂が憧れ、恋い慕う人々が立っている。我 々の望む活動があり、「生きる」という文字がそこにある! しかし、言っておくが、その門をくぐった人が、命からがらでなしに、無事に生還したという話 を、聞いたことがない。その門が通じているのは滅びだからである。

私たちはしょっちゅう、自分が「用いられる器」となって、世の中で才能を発揮し、クリスチャンの世間からも脚光を浴びることを願う。そのためにこそ、私た ちを引き立ててくれそうな教師やリーダーに、私たちの心は安易に惹かれゆくのである。だが、そのような願いが、神の御心にかなっていないことは明白であ る。御言葉は言う、この地上において、人から賞賛を受け、世にもてはやされ、拍手喝采を受けている人は、すでに「その報いを受けてしまっている」(マタイ6章)と。私たちは誰から認められることを願うのであろうか。人の目か。それとも神の目か。

この地上にあって、神が私たちに望んでおられるのは、まず、私たちが心の全てを注ぎ出して、主だけを愛し、主の御前に、砕かれた魂として進み出て、徹底的 に、焼き尽くされるべき全焼のいけにえとして、自分自身を静かに祭壇に横たえることである。私の内には、神をお喜ばせできるどんな力もないし、正しく生き る力もなく、己を誇ろうとする願いは、神を悲しませるだけであると知ること、そして、主にあって真に自分に死んで、キリストを生きられるように、自分を神 にお委ねすること、それだけである。

読者たちよ、どうか欺かれないで欲しい。人の間で尊ばれ、人のうちで栄光を受け、世で富む人になりたいと願ったために、どれほど多くの人たちが、道を誤って、滅びへと誘い込まれて行ったか。その数ははかり知れない。「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。 」(Ⅰテモテ6:9)

さらに、どんなに高い啓示を受けたとしても、たとえ第三の天にまで引き上げられたとしても、かしらなるキリストにしっかり根ざさなければ、私たちの霊的経 験も、私たちを救うことはできず、行き着く先は滅びなのである。私たちはキリストを誇りとするのであって、自分自身の霊的経験や、啓示を誇ることは愚かで ある。しかし何と多くの人々が、「私は見た」と言って、幻や、啓示の多さを誇る人々の言葉に騙されることであろうか。

ハレルヤ。今、誇るべきものが、何もないならば、そのことをむしろ神に感謝しよう。神の御手にあっては、私たちの弱さこそが、神の強さである。己の弱さ、 無力さを常に覚え、神に絶えず、助けを求めてすがる器に、神がどれほど大いなる憐れみをかけて下さるか、どれほどの慈しみをもって、神がその器を取り扱っ て下さるか、その秘訣を知った人は、幸いである。自分の弱さを真に知らなければ、私たちは他の人々の弱さをも、ふさわしい思いやりと慰めを持って、取り扱 うことができない。私たちの強さは、主が99匹の羊を置いてでも、捜し求めたいと願っておられる1匹の羊を、死に追いやってしまうだろう。

最後にもう一度、言いたい、私たちは、キリスト抜きには、自分が地獄の刑罰にしか値しない存在であり、生きる権利さえ奪われて当然の、墓の下で、永久に朽ち果てて、死んでいるべき、何の役にも立たない腐乱死体であることを、本当に認めているだろうか。

私のうちには、神に喜ばれ、引き立ててもらうに値するようなものは、何一つないことを、忘れてしまってはいまいか。私だけでなく、あの人も、この人も、みな同じなのである。どんなに魅力的に見える人も含めて、全ての人は、神の御前に腐れ果てているのである(詩篇14:1-3、53:1、ローマ3:10-18)。 これは私が言うのでなく、御言葉が言っているのだから、どうか私に腹を立てないで欲しい。しかし、この事実を、私たちは日々、本当に認めているだろうか。 神がお認めになるのは、キリストだけであって、生まれながらの私ではないことを、認めているだろうか。私はキリストと共に十字架につけられ、あの木の上 で、永遠にさらしものとされるにふさわしい存在であり、私は滅びにしか値せず、生きる資格もない人間であったことを認めているだろうか。カルバリこそが、 私が永久にとどまるべき、霊的な拠点なのだと認めているだろうか。

もしもそれを信じているならば、なぜ腐乱死体が、もうとうにこと切れているはずの命を再び持ち出して、「もっと社会で頭角を現そうと」するのか。なぜ腐乱 死体が、墓から起き上がって、「自己の生きる権利」を大胆に主張し、「もっと活躍したい」と願うのか。なぜ死体が、その腐れ果てた肉体の上に、高価なドレ スを身にまとって、颯爽と、きどって人前を歩き、映画女優のごとく、注目を集めようとするのか。どうして死体が、私は世間から忘れ去られ、活躍の場を奪わ れていると言って、泣いたりするのか。あまつさえ、死体同士で特権的な社交クラブを作り、あの死体はこの死体よりも美しいと誉めそやし合っている私たち は、何者なのであろうか。これら全ては忌まわしいことである。しかし、それが生まれながらの私の姿である。

私たちはキリストと共に死んで葬られた。だが、主は憐れみ深い方であり、御子の十字架を信じることを通して、私たちは罪赦され、神の朽ちない命を与えられ た。主イエスの十字架は、ただ罪の贖いであるだけでなく、それは私たちの内で、アダム来の古き人を終わらせ、新しい命に従って、私たちを生きさせるための ものである。アダムをより一層、誇らせるためではなく、むしろ、御子と共に、私たちがアダムの命に死んで、キリストにある新しい種族として、神の与えられ た新しいの命によって、神に対して生きるためである。

復活の命によって生かされるために、しなければならないことは、私たちが何よりも大事に胸に抱きしめているアダムの命を十字架で死に渡すこと、私たちが抱 きしめて片時も離そうとしない自分のイサクを、喜んで、神に捧げることである。言い換えるならば、私たちがより頼んできた自分の義、自分の努力、自分の 夢、自分の評判、自分の功績、自分の命、自分自身を、神にお捧げし、喜んで神の最善に委ねることである。そうして、古き命を日々、十字架で死に渡すことで ある。それまで誇りとして生きて来た、自分自身の計画を、焼き尽くされて当然のものとして、神の祭壇に置き、それが塵灰となり、霧消することに同意するこ とである。たとえ全てを取り上げられたとしても、それでも、神の最善の采配を信じるかどうかである。

それはあまりにもむごすぎる要求ではないかと、ある人々は言うであろう。その先に待っているのは、無為の人生以外の何物でもないではないかと言う人があろ う。信じない人は信じないで構わない。「用いられる」ことだけを望む人にとって、それは高すぎる要求に感じられるかも知れない。しかし、その人たちは、主 イエスが確かに言われた言葉をどう受け取るのであろうか。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」、「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ16:24,10:38-39)、
 
御言葉が再三に渡って、私たちに告げているのは、私たちを高みに引き上げてくれ、私たちを地上で人々から愛される者としてくれ、幸いな人生を約束してくれ る、耳に心地よい言葉ではない。むしろ、主イエスに心から従いたいと願う者は、この地上では、一人の例外もなく、世から憎まれ、人に裏切られ、苦難と試練 を通らされるだろうと、はっきりと予告されている。なのに、私たちは次の御言葉に対しては、都合よく耳を塞ぐのであろうか。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 」(マタイ10:37)、あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22) 

私たちが望もうと、望むまいと、もしも私たちが本心から主に従うならば、私たちは地上で最も低められた者とされることを避けられないだろう。しかし、そこにこそ、私たちの栄光がある。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイ23:12)

神は善であり、愛であられるからこそ、試練をお与えになる時でさえ、主は絶対に、私たちの益にならない試練を与えられない。御子と共に十字架で死ぬことを 求められる時には、死んでしまった私たちのアダムの命の代わりに、御子の復活の命によって生かされるという、限りない望みがある。私たちは皆、塵に過ぎな い存在であり、去れば帰り来ぬ風である。主はそのことを十分に分かっておられる。私たちにはこの世で生きるために何が必要かも、主はご存知である。そし て、主は私たちを憐れみ、惜しんで下さる。もしも私たちが自分を真に十字架に渡すならば、私たちは神の憐れみによって、再び、生きるであろう。

一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ。本当に豊かになるための秘訣は、まず、死ぬことである。そして、日々、継続して、死ぬことである。私たちが主にあって、 どれだけ失われたかが、私たちが主にあってどれだけ獲得するかを決めるのである。それが霊的法則である。私たちは、信仰の代償なしに、主から大きな祝福を いただけるとは考えない方が良い。主は一人ひとりの行いに応じて、報いて下さると、聖書に書いてあるからである(Ⅱコリント5:10、エペソ6:8、黙示22:12)

たとえ苦しみが長引いたとしても、主は決して、ご自分に忠実な僕が辱められ、卑しめられ、打ち捨てられたままに、放って置かれることはない。主は私たち一 人ひとりを、御子をさえお与えになったほどに、愛しておられる。そのことを、どんな絶望的な状況にあっても、信じられるかどうかが、私たちの力の鍵であ る。ハレルヤ。私たちを引き上げて下さるのは主である。たとえ見捨てられたように思われる時であっても、たとえ隅に置かれ、踏みつけられ、忘れ去られるよ うな時であっても、私たちは焦らず、落ち着いて、主の時を信じて待ちたい。主は誉むべきかな。主の御名を誉めたたえます。
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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