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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

朝ごとに…(2)

クリスチャン生活には、喜びの朝が訪れるだけではない。苦しみの朝が訪れることもある。毎朝、苦しみが訪れる時、私たちに何ができようか。必死に主を求め、「霊のもだえによって語り」、「魂の苦しさによって嘆く」(ヨブ7:11)ことしかできないだろう。

たとえ、どんなに人から格好が悪いと言われようとも、その時には、もはや、どうにもならない。自分の命の力が尽きて、絶望にもたらされる時まで、私たちは 必死にもがくだけだ。それが主が与えられた十字架における自己の死であると、気づくのは、後になってからである。神は私たちが自分の力、自分の命に対する 絶望に至りつくのを、じっと待っておられる。主の救いは、私たちの力が尽きた時にやって来る。

主はご自分に従う者を、しばしば試みられる。それは、私たちが、アダムの命、地的な命の厭わしさを理解し、「地上のもの」に望みをおくのではなく、この古き命を自ら拒んで、「上にあるものを求め」るようになるためである(コロサイ3:1,2)。試練は、私たちがただ絶望して終わるために与えられるのではない。アダムの命に死んで、神から与えられる天的な命により頼むようになるために、それは誰しも、避けては通れない道である。

だが、私たちは、あまりにも試練を恐れすぎていないだろうか。あの人は苦しんでいるらしい、あの人は心に平安がないようだ、あの人は喜びを失って、主から 懲らしめを受けている、などと人にみなされることを、あまりにも恐れてはいないだろうか? 私たちは、主にあっての喜びだけを人前で語り、自分の見栄えの 良さが失われるような経験を持つことを、あまりにも恐れてはいないだろうか?

しかし、御言葉は言う、「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(ヘブル12:6)。 もしも神によって打たれ、懲らしめられたことがないなら、私たちは、神の私生児であって、神の子供ではない。

試練は、私たちの心に潜んでいる、アダム的な命、地的な富への執着を最後まであぶり出すだろう。私たちは、主を信じている自分には、地的なものへの執着は もうない、などと浅はかに思いがちである。だが、試練に遭う時、実際には、自分で思っているよりも、はるか以上に、古き命に望みをつなぎ、古き命にしがみ ついていたことを知るであろう。

もし、自宅のベランダのカーテンに、小さな昆虫が留まっているのを見つけたなら、私たちは、昆虫を外に放してやりたいと思い、指でつまみ上げないだろう か。だが、昆虫はカーテンから引き離されることを嫌がり、急に現れた私たちを恐れて、前よりも必死になって、カーテンにしがみつこうとする。それでも、家 の中にいる限り、昆虫には、自由に生きる術はない。私たちは強いて昆虫を引っ張り、ついにカーテンから引きはがして、窓から外に向かって、放り出す。する と昆虫は、自由に羽ばたいて、緑の野に帰って行く。

同じように、私たちがしがみついている地的なカーテンから、神が私たちを引き離そうとする時は、私たちにとって、恐るべき試練の瞬間に思われる。私たちは 自分の人生が、土台からひっくり返されようとしているように感じて、おじ惑う。私たちには、この剥ぎ取りの意味が分からず、元通りの安全、元通りの安定を 求めて、より一層、地的なものにしがみつこうとする。そこには必死のもがきがある。だが、神はあくまで私たちを引っ張る。私たちは抵抗する。ついに、私た ちの力が、神の力に打ち負かされ、私たちは地的なものから引き離される。

何が起こったか分からないまま、私たちは、今までと全く違う世界、天的な世界に向かって放たれたことを知る。そして、気づくと、鷲のように大空を羽ばたい ていることを知る。御霊の流れに従って、いつしか、緑の牧場へ誘われていく。そうなって初めて、私たちは自分がそれまで恵みと思ってしがみついていたもの が、束縛となっていたこと、そこから、解き放たれて自由を得るために、十字架の死を経由して、墓の向こうに移される必要があったこと、そして今や、はかり しれない神の命の中に移されたことを知り、神に心から感謝を捧げ、それまでの苦難の意味がどこにあったのか、ようやく理解するのである。

ヨブは義人であったが、神は、彼に何人も及ばないような苦悩と、魂の絶望を与えられた。地上にいる人々は、彼の苦悩は、彼だけに起こった個人的な災難であ り、彼の自業自得と断定して、ヨブを責めたが、責められる落ち度がないことを知っていたヨブには、彼を試みておられるのは主であることが、はっきりと分 かっていた。それゆえ、ヨブは言った、

「人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
 これにみ心をとめ、
 朝ごとに、これを尋ね、
 絶え間なく、これを試みられるのか。」(ヨブ7:17-18)


苦難は、神がヨブを軽んじていたゆえでなく、むしろ、人を「大きなもの」と して御心に留めておられればこそ、代表して、彼に与えられたのだった。神は、苦しみを与えることで、朝ごとにヨブを尋ね求めておられた。この試練を通し て、ヨブは、人の天然の命の中には、何一つ、良いものはないことを知り、ついに、古き命に生きることを、自ら厭うようになる。

同様の告白を、ソロモンも行っている。地上の人々は、職業的成功や、家庭的幸せや、所有物の多さを誇るだろう。ソロモンはその全てを誰にもまして所有していた。だが、それでも彼は言う、

「そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。 」(伝道の書2:22-23)

苦しみの極致にいたヨブと、栄華を極めたソロモンが、全く同じ結論に達したことは注目に値する。「わたしは生きることをいとった」(伝道の書2:17)「わたしは自分の命をいとう」(ヨブ10:1)。これは、古き命そのものに対する、人の絶望の叫びと見るべきである。

私たちクリスチャンは、理屈の上では、この古き命の絶望性を知っている。だが、主イエスを信じて、神の命によって生かされたと言いながら、依然として、こ の古き命の中にとらわれて生きているのが私たちである。私たちが、地にあるものに影響されているうちは、そこには霊的死の法則が働き、神の復活の命は、私 たちの天然の命の中に拘束されて、実を結ぶことができない。

そこで、神は私たちの外なる人、すなわち、天然の生まれながらの人を打ち砕き、私たちを、握りしめているものから引き離し、私たちの心にある地的な命への 執着を、最後まであぶり出し、終わらせないわけには行かない。私たちに、痛みに満ちた試練が与えられる時は、全能者の御手が、私たちの上に働いている時で ある。

ダビデは、詩篇第73篇の中で、告白している。彼は人の地的な成功を妬んだがゆえに、信仰の歩みにおいて、足が滑りそうになったと。それゆえ、神は彼を打たれ、苦しみを受けたのだと。

私たちはしばしば、心の中で、神の人に対するお取り扱いは、不公平であるという不満を持たないだろうか。主の道を行っている私が、懲らしめられ、隅に追い やられ、辱められ、濡れ衣を着せられている時に、一度も悩んだことのなさそうな人たちが幸せに暮らし、むしろ、悪しき者たちがより一層、栄えているように 見えるのは、なぜなのかと不満を感じることがないだろうか。

利己的で、妥協の多い人生を送っている人たちが、栄えており、人から尊敬され、罪のない人のように見られている。「彼 らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。それゆえ高慢は彼らの 首飾りとなり、暴力は衣のように彼らをおおっている。彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。」(詩篇 73:4-7)

私たちは苦しみのない人、悩みのない人を見た時、心の中で、羨ましく思わないだろうか。私たちの目は、乞食のラザロを蔑み、他の人たちのように神に打たれることなく、いつも健やかで、艶がある(!)金持ちを羨まないだろうか。「見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる」(詩篇73:12)。私たちの目は、主に苦しめられて打ちひしがれている人の嘆きを蔑み、むしろ、悪しき者たちの心の安楽と、彼らの不正な富を賞賛するようなことがないだろうか。

私たちは悪人の栄えるのを見る時、主の裁きの公平さを疑い、彼らの妥協的精神を内心で妬むことがないだろうか。あるいは、主に不平をもらした弟子たちのように、心の中で、こうつぶやくことがないだろうか、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」(ルカ9:54)。 しかし、主は私たちのそんな愚かさに対しては、こう答えられるだけである、「あなたがたは、自分がどのような霊であるか、分かっていない」(ルカ9:54-55異本)

ソロモンは書いている、「あなたは心のうちでも王をのろってはならない、また寝室でも富める者をのろってはならない。空の鳥はあなたの声を伝え、翼あるものは事を告げるからだ」(伝道の書10:20)

ダビデは悪人が理不尽に栄えているのを見て、魂が刺し通されるような痛みを味わった。だが、彼は地的な現象の理不尽さだけに心を留め、背後に控えている主の裁きの公平さを、信じて待ち望まなかったがゆえに、かえって苦しみを受けたと告白する。

「わたしはひねもす打たれ、
 朝ごとにこらしめをうけた。<…>

 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
 わたしは愚かで悟りがなく、
 あなたに対しては獣のようであった。

 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、
 あなたはわたしの右の手を保たれる。
 あなたはさとしをもってわたしを導き、
 その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。

 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。
 地にはあなたのほかに慕うものはない。
 わが身とわが心とは衰える。
 しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。」(詩篇73:14,21-26)


私たちは、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを知っている。だが、天を見上げる時に、「あなたのほかに、だれを天にもち得よう」と言うのは簡単だが、地を見渡す時にも、同じように言うのは、困難ではないだろうか。私たちが地を見る時には、常に、あれやこれやの地的な富に目を奪われて、主は脇に追いやられているのが現状ではないだろうか。そこで、神は私たちが、心から、「地にはあなたのほかに慕うものはない」と告白する時まで、この地的な命、地的な富、この世の全てに対して、私たちに徹底的な絶望を味わわせないわけにはいかないのである。

「正しき者を試み、
 人の心と思いを見られる万軍の主よ」(エレミヤ20:12)


と、エレミヤは歌った。正しい者が、試みを受けるのは、避けられない。たとえ外側は正しく見えて、あれやこれやの罪からは解放されていても、私たちは、心 を試されなければならないからである。主に召された者は、これから先も、一人の例外もなく、言わなければならないであろう、「わたしは彼の怒りのむちによって、悩みにあった人である」(哀歌3:1)と。試練を通して、神は人の心を探り極められる。だが、主に探り極められる瞬間は、人にとって重く、苦しい時である。エレミヤは、「わたしの生れた日はのろわれよ」(エレミヤ20:14)とまで言ったが、彼もこうして主のお取り扱いの中で、自分の生まれながらの命を拒まずにいられなかった。

悪人が栄えているのを見て、私たちが首をかしげるような時に、神は私たちからますます剥ぎ取られ、私たちを打ちのめし、卑しくし、隅に追いやられる。悪人 が富をいよいよ増し加え、世間の尊敬を集め、美しく、艶やかになる時、我が身、我が心はやせ衰えていく一方である。私たちは神によって、的のように矢を心 臓に打ち込まれ、魂を剣で刺し通され、みるかげもない惨めな者となり、憔悴し、やつれ果てる。世の人々は、あれは自業自得だと言って、嘲笑する。「わたしはすべての民の物笑いとなり、ひねもす彼らの歌となった。<…>わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた。」(哀歌3:14,17)
 
主イエスが幼子であった頃、シメオンは、母マリヤにこう告げた、「…あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」(ルカ2:35)。主に最後まで忠実に従おうとする者は、今日でも、同じように、主にならう試練を与えられる。それは、私たちの心にある思いが何であるかが、はっきりと世に示されるためである。

主は、剣で、釘で、茨の冠で、肉体を刺し通され、最大の恥辱の中で、魂を最後まで注ぎ出された。同じように、主の僕である私たちの魂も、公衆の面前で、剣 で刺し通されなければならないだろう。私たちの地上の栄光はことごとく奪い去られ、私たちは塵灰に伏す。しかし、私たちの古き命が尽きる時、神が私たちを 引き上げて下さる。神こそ、とこしえに我が力、我が嗣業である。私は衰え、彼は栄える! 神は「その後わたしを受けて栄光にあずからせられる」。私たちの栄光は、地上における自分自身の成功から来るのではなく、キリストと共に苦しみを担い、主と共にくびきを担い、魂を最後まで神に対して注ぎ出すことから来る。

だから、私たちは朝ごとに、魂をいけにえに捧げて、主を待ち望む。私たちの救いは神から来る。

「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、
 わたしの嘆きに、み心をとめてください。
 わが王、わが神よ、
 わたしの叫びの声をお聞きください。
 わたしはあなたに祈っています。
 主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。
 わたしは朝ごとにあなたのために
 いけにえを供えて待ち望みます。」(詩篇5:1-3)

「主よ、われわれをお恵みください。
 われわれはあなたを待ち望む。
 朝ごとに、われわれの腕となり、
 悩みの時に、救となってください。<…>

 主は高くいらせられ、高い所に住まわれる。
 主はシオンに公平と正義を満たされる。
 また主は救と知恵と知識を豊かにして、
 あなたの代を堅く立てられる。
 主を恐れることはその宝である。」(イザヤ3:2-6)


試練の中を通らされ、燃える炉の中で、私たちが魂の不純物を焼き尽くされ、心を練られ、神の復活の力によって生かされる喜びを知る時、初めて、それまでの 苦しみの意味が何であったのか、私たちは悟るだろう。その時、初めて、私たちはこの世の理不尽に心を痛めたり、自分を憐れむことから解放されて、心から言 えるだろう、「人が若い時にくびきを負うことは、良いことである」と。主の愛が心に満ちる時、私たちは来るべき試練をさえ恐れず、喜んで主の采配の下に自分を委ねるようになるだろう。そして、「死に至るまでもそのいのちを惜しまな」い(黙示12:11)ようになるだろう。どうか、神が私たちを試練によって練り清め、ついにそのように整えられた花嫁として下さいますように。

「主のいつくしみは絶えることがなく、
 そのあわれみは尽きることがない。
 これは朝ごとに新しく、
 あなたの真実は大きい。
 わが魂は言う、『主はあなたの受くべき分である、
 それゆえ、わたしは彼を待ち望む』と。

 主はおのれを待ち望む者と、
 おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。」(哀歌3:22-27)
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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