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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

耕された土壌(1)

かつて私は人生のどん底で主に出会いました。人は皆、私の絶望を持て余し、誰一人として、慰める術を持たなかった頃のことです。人々は、私が一体、いつまでも悲嘆にくれているつもりなのかと、ただうんざりし、疎ましく思っていただけだったことでしょう。

しかし、そんな中でも、主を叫び求め続けると、ある日、主の臨在の温かさ、主の慰めの深さが、圧倒的に心に注ぎ込まれました。それは、乾き切った私の心 に、清水のようにすみずみまで行き渡り、私の心を、言い知れぬ思いやりで満たし、潤しました。そして、私の魂は、荒廃の闇の中から立ち上がったのです。そ れは私がこれまでの人生で、人との接触を通しては、一度も経験したことのない、真に優しい、へりくだった愛でした。

当時、乞食のラザロのように、誰もが目を背けながら、素通りしていくような存在であった私に、主は、給仕する姿で、全ての恵みを携えてやって来て下さった のです。彼は、私の目の前でテーブルを広げ、必要な食べ物を調理して並べ、ご自分で、私に食べさせて下さいました。それは仕える者の優しさ、最も傷ついた 人にとって、何の脅威にもならない、最高にへりくだった愛でした。

こうしたことの結果、私には分かったのです。主の臨在は、道端の乞食のような、地上で最も苦しんでいる人、地上で最も蔑まれている人、地上で最も希望を 失った人、地上で最も見捨てられている人に対して、真に優しいのだと。主はそういう人たちに、わざわざ給仕する者の姿をして来られ、へりくだって仕える愛 を示されるのです。打ち砕かれた者たちの魂を、愛によって慰めたい、それが主のお心です。

「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル2:1)。

神にしか慰め得ない絶望というものが人にはあります。地上の全ての人が、あなたの深すぎる嘆きを見て、さじを投げ、あなたの癒しがたい悲しみを持て余し、 あなたの自己中心性にうんざりして、あなたを罪定めして、去って行くような時、主はあなたの心に優しいのです。そんな時だからこそ、主はあなたに愛を注ぐ ことができるのです。それは、地上の誰にもまして、主がへりくだって、心優しく、親切であられる方だから、おできになることです。主は地上の最も弱い存在 に対しても、脅威を与えないように、さらに弱くなって、お仕えになることができるのです。全能者が、地上で最も惨めな者よりも、さらに弱くなることができ るのです。これは、主イエスが十字架を経られたからこそ、身につけておられる、人には真似することのできない、驚異的なわざです。

さらに、主は決して、地上の誰かと栄光を分かち合うことはなさいません。主は、あなたを救うことのできる方は、天にも地にも、ただ主の他にはないというこ とを、公然と世に示されたいと願っておられるのです。そのために、わざわざあなたを他の助け人から引き離し、主の他に何の希望もないような状況で、一人に されるのです。

私たちは、人生が思うようにいかない時、あれやこれやのもっともらしい物差しを取り出しては、自分や他人の人生に、何が欠けているかを推しはかろうとしま す。あなたが悩んでいる時、頼んでもいないのに、誰かがやって来て、あなたに今、何が足りないのか、アドバイスしようとするでしょう。あの集会へ行きなさ い、もっと自分の荷を下ろしたらどうですか、もっと別の気晴らしを見つけたらどうです…。しかし、それは全て役に立たない人間的助言です。

主があなたを閉じ込められるなら、その時、あなたに本当に必要なのは、まさに苦しみなのです。そんな時に、私たちの目先を変えて、心の負担を軽くしよう と、何かを補おうとしても、それはほとんど効果がないでしょう。残念なことですが、私たちは苦しみや絶望の意義を、少しも理解していません。私たちになぜ 苦しみがもたらされるのでしょうか。それは、私たちの心の中に、ただ、主を受け入れるに足る、砕かれて、耕された土壌ができる、そのことのためです。

主を受け入れるにふさわしい、耕された土壌が心にできるために、私たちはしばしば、苦しみの中を通らなければならないのです。その苦しみは、主がまさにあ なたに与えられた恵みです。私たちはお腹いっぱいの時に、どうしてご飯を食べて、美味しいと感じられるでしょう。ご飯(霊的な糧)の価値を真に味わうため には、まず霊的空腹が先立たなければなりません。

ですから、あなたが人に捨てられ、誰も経験しないような、恐ろしい苦しみを味わい、他の楽しい交わりの全てから引き離されて、世間からは変人と笑われなが ら、孤立させられ、ただ主だけに助けを求めてよりすがる、その必死ささえ、嘲笑されるような時、実はそんな時こそ、主があなたの心の土壌を耕しておられ、 主があなたの最もそば近くにおられる時なのです。

人にはその意味は分かりません。人は本能的に苦しみを拒絶しようとしますし、自分が欠乏状態にあることを認めたがりません。人は他人の苦しみを見せられることさえ嫌がります。しかし、私たちの真の姿はこうです。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、裸な者であることに気がついていない。」(黙示3:17)

私たちは自分の惨めさを自覚して、主に助けを求めてすがって行く必要があります。私たちの心を、試練がガツガツと耕していく時、乱暴な鋤や馬鍬が、私たち の心の土をさんざんひっかきまわし、その刃を突き立てて、私たちの心を深く掘り下げ、思う存分、ひっくり返して行く時、そのことによって、自分の心が、主 を受け入れるにふさわしく耕されていることに、気づく人はあまりいないでしょう。しかし、それこそが、実は、主に出会うために、何よりも、必要な準備なの です。

なぜならば、主は、ご自分に喜んで耳を傾ける人々を地上で必要としておられるからです。しかし、私たちの心が、あれやこれやの楽しみに奪われているうち は、私たちは100%の忠実さを持って、主の御言葉に心を傾けることができません。私たちはあまりにも注意散漫なのです。聞いているつもりでも、少しも、 聞いておらず、御言葉を軽んじているのです。しかし、私たちが、最も主を必要とする時、私たちの心が最も打ち砕かれる時、主以外により頼むべき支えが、全 て取り払われる時、私たちは命がけで、御言葉を求めるようになるでしょう。私たちが自分の真の惨めさを自覚し、そのようなへりくだった心の態度になるな ら、主は速やかに来られます。そして、私たちはその時、初めて心の荷を全て降ろして、主の愛の中で、彼と共に食事し、安息するでしょう。

「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めな さい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわた しと食を共にするであろう。」(黙示3:20)
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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