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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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耕された土壌(2)

オースチンスパークス著、キリストの中心性と至高性、第二章から。

ベタニヤに関する黙想の冒頭で、私たちはベタニヤが対照的であったことを示しました。

万物を創造した方がご自分のものの所に来られた時、ご自分のものである人たちは彼を受け入れませんでした。そこで彼は、この地上におけるご自分の居場所について言われました、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もない」。これが彼の居場所でした。

しかし、彼はベタニヤに行かれました。何度も行かれました――最大の試練を目前にして、状況が終局に向かってますます彼の上に重圧を加えていた時、彼はい つもベタニヤに退かれました。この地上で彼が唯一持っておられるように見えるホームは、ベタニヤでした。それは、彼がベタニヤに心の満足を見い出しておら れたからです。

そこには「耳を傾け続ける」人がいました。前に指摘したように、マリヤが耳を傾けたことの文字通りの訳は、「彼女は彼の言葉に耳を傾け続けた」で す。彼はご自分の中にあるものを注ぎ込める人、それを理解して応答してくれる人を求めておられました。そして、彼はその人をベタニヤに見いだされました。 ベタニヤで彼の心は満足しました。なぜなら、彼の話に耳を傾け、それに応答し、「彼を迎えることはあらゆる特権の中でも最大の特権である」ということを彼 に感じさせる人が、そこにいたからです。

あまりにも多くの時、私たちは正常になる前のマルタのようです。(神に感謝します、彼女は正常になりました。ベタニヤの最後の光景では、マルタは依然として仕えていますが、今や状況は正常です。外側の活動は内側の霊的活動を圧迫していません。状況は正されました)。

主は耳を傾けてもらう機会を望んでいるだけなのに、正される前のマルタのように、私たちは主のために多くのことを行っています。主はしばしば私たちに言わ れるでしょう、「あなたが私のために忙しくあろうとしていること、あなたがそれをすべて私のためにしようとしていること、あなたの動機が正しいことを、私 は知っています。私はそれをみなとても感謝しています。しかし、ああ、あなたにいくつかのことを話す機会を私に与えてほしいのです。ああ、あなたの心に語 る機会、あなたの知らないことをあなたに示す機会を、私に与えてほしいのです。そうすれば、大きな変化があるでしょう」。

これが、私たちが時々脇に呼ばれる理由です。彼は「たくさんの料理」という熱狂的活動から私たちを連れ出して、彼に耳を傾ける所に私たちを連れて行きま す。しかし、もし私たちが彼に機会を与えるなら、それは彼がそうせざるを得ない場合よりも、どれほどいいことでしょう。マリヤが誤解されたように、私たち は一見何もしていないかのように誤解される危険を犯さなければなりません。しばしば私たちは、「怠けているのは主から少々遠ざかっているせいだ」と人々か ら思われることを恐れます。まあいいでしょう、主はご存じです。

しかし気をつけて下さい、彼は来て、めぼしいところに彼のホームを造られます。これはキリストを宿泊者として持つ以上のことです。(このような言い方を許 して下さい)。それは、心の中でくつろいで、そこにホームを造られるキリストです。これには適用が必要です。ですから、これを自分に適用してくれるよう主 に求めなさい。

あなたたち、忙しい働き人たちよ、主の御心によると、あなたたちの一切の働きは、主があなたたちの心の中にさらに豊かな事柄を語り込むために求めておられ る機会に、取って代わることはできません。もしあなたが彼に語る時間を与えておらず、また、彼が新たな啓示に対する応答を得ておられないなら、あなたの活 動には生命力が伴わないでしょう。


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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