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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

終わりの時代の初めの展望(2)

第二の点として、「さばきが神の家から始められる時がきた」(Ⅰペテロ4:17)。今後、クリスチャンのふるいわけは、今まで以上に厳しくなるでしょう。

これまでにも、ふるいわけは起こっていました。キリスト教界に背教が浸透するにつれ、偽りと手を切り、個人的に主を知ったクリスチャンが、エクレシアに加 えられて来ました。御霊によって上から生まれ、主の御名によって集まる二、三人が、キリストのからだに加えられ、天の喜びとなって来ました。

しかし、今後のふるいわけは、キリスト教界と個人との間だけでは終わらないでしょう。当然のことですが、主を知るクリスチャンの間でも、厳しいふるいわけがなされるでしょう。

このふるいわけの基準は、生まれながらの古き命を拒んで、自分の十字架を負い、試練を最後まで耐え忍んで、主イエスに従うかどうかにあると私は考えます。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。<…>人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。」(マタイ16:24-27)

私たちは主に報いられる、永遠に残る働きをしたいと願っています。しかし、人の生まれながらの命に働いているのは、先に述べた通り、罪と死の法則であり、 この法則にのっとって生きている限り、そこには、永遠に残る実りはありません。そこで、私たちに求められているのは、主イエス・キリストと共に十字架で死 に、神の命の中に隠されて生きること、十字架の死と復活にとどまり、御霊によって生きる者となり、「自分の命を失う者」となることことです。

いつどのような十字架を負うことになるのか、その有様は具体的には分かりませんが、その時、主の導きに応じるかどうかが、私たちの天での報いを分けるで しょう。地上的な利益を確保して、目先の安心を得ようと、自分の生まれながらの命を優先してしまうと、主を信じていると言いながら、私たちは永遠に至る報 いを失ってしまいかねません。この点で、私たちの信仰は試されるものと思います。

主イエスは荒野で三つの誘惑を受けられました。私たちは今、このことを思い出したいと思います。主イエスは第一の試みを受けて、言われました、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(マタイ4:4)。神が時にかなって与えられる御言葉には、私たちの霊だけでなく、魂をも、肉体をも、生かす力があることを堅く信じねばなりません。

幾度か紹介したジョージ・ミュラーを含め、霊的先人たちの中には、信仰によって、神が経済的に力強く支えて下さることを立証した人々が数多くいますが、終 わりの時代には、クリスチャンが主に忠実であり続けるために、信仰を通して日々の糧を得ることは、当然の事柄となるでしょう。この先、失業者が街に溢れ、 人々がその日のパンを確保することさえ、困難な時代がやって来るかも知れません。しかし、そのような時でも、慌てて不法な手段をとってはなりません。

「その聖なるすまいにおられる神は みなしごの父、やもめの保護者である。」(詩篇68:5) 私たちの神は、地上で最も寄る辺のない者をも、養って下さる神です。いつ何時でも、私たちは、この天の父に落ち着いて信頼することができます。主に忠実に従っているならば、神はご自分に従う者たちを必ず、罪に陥らせず、合法的に生きる道を開いて下さると信じましょう。

この先、エクレシアは激しく試みられるでしょう、私たちは十字架の道を通らされるでしょう。その試みによって、上なるエルサレムと、地上のエルサレムとがはっきりと分かたれるでしょう。

組織的なネットワーク、マスメディアを用いた大衆伝道のあり方は、20世紀ですでに終わりを告げたと言う人もいます。特に、現在、大規模集会からセル チャーチに至るまで、組織的なネットワークを通じた福音伝道からは、神のまことの命の現れが急速に失われつつあります。この見えるネットワークは、私の考 えでは、今後、背教の拡大のために積極的に用いられる可能性が強いように見受けられます。

このような中で、まことの神の命を持つクリスチャンは、どのようにして主からの召しに応じるのでしょうか。個々人の人生について言及することはできません が、恐らく、一般的に、十字架の閉じ込めの時代がやって来るのではないかと思います。全世界に福音を宣べ伝えるという仕事が収束に向かう一方で、ベタニヤ で主に耳を傾け続けたマリヤのように、ただ主のために魂と人生を注ぎ出し、主がそのうちに安心してホームを築くことのできる人々、子羊のために死に至るま でも、魂の命を拒んで主に仕える人々が、生ける神の宮として、主のためにとりわけられ、ひっそりと完成に向けて建造されていくのではないかと思います。こ れは大規模活動の道ではなく、むしろ、隠された、主にある制限の道であるように見受けられます。

オースチンスパークスは「主の囚人」の 中で、パウロの晩年の投獄を例に出しながら、神に啓示を受けた人は、その啓示をその人の存在と生涯に造り込まれるために、極端なまでの制限の下に置かれな ければならない場合があることを示しています。それはうわべだけを見るならば、神のために「生きる」こととは正反対であり、神に「用いられる」人生ではな いように見えるでしょう。

しかし、この閉じ込め、この制限、神の命の中に人の天然の命がすっかり失われることは、神が、人に永遠に至る実を結ばせるために用いる、逆説的な方法で す。ウォッチマン・ニーのことを考えてみましょう。彼のように有用な働き人を、なぜ神は、20年間も、外界と接触する手段さえない、極端な閉じ込めの下に 置かれたのでしょうか? それは彼が受けた啓示が、彼自身の中に造り込まれるためだったと考えられます。ニー兄弟はキリストを信じていましたが、彼がキリ ストについて受けた啓示が、光が、まさに彼自身の人格の中に織り込まれ、キリストが彼の存在の中に実際に造り込まれ、彼自身がキリストの生きた証となるた めに、20年間も、社会的に葬られる期間が必要だったと考えるしかありません。

今日、キリストにあって、まことの命に生きるクリスチャンの多くが、この先、このような十字架の制限の道を歩むことになるのではないかと私は予想します。 この世的なネットワークという観点から見るならば、私たちの多くは、この世で名を上げるどころか、ますます行き場を失っていくのではないでしょうか。あた かも生きることさえ奪われ、存在の痕跡さえ見受けられないような、社会的な抹殺状態に置かれる人もあるかも知れません。

ヘブル書には、信仰の父アブラハムについてこう書いてあります、「このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。」(ヘブル11:12)

イサクを宿した時、アブラハムも、サラも、子供を産む能力においては、死んだも同然でした。彼らはただ信仰によってイサクを得たのです。同様にして、神が 私たちを真に実を結ぶ器とならせるために、私たちはまず死を経由せねばなりません。実を結ぶために、私たちに求められているのは、逆説的に、私たちが用い られることの不可能な器、死んだも同然の人になることなのです。それは私たちの結ぶ実が、私たちの能力によらず、神の力だけによるものであることが、証明 されるためです。この条件を作るために、信仰の先人たちは長い長い葬りの時を送りましたし(肉的な望みが尽きて、ただ信仰の望みだけが残るための期間を 送った)、神は私たちをも、しばしば十字架に閉じ込められ、死んだような状態に置かれ、私たち自身を、やがて多くの実を結ぶための苗床とされるでしょう。

終わりの時代にあって、この十字架の閉じ込めは、まず、少数のクリスチャンから始まって、最後には、まことの命によって生きる、ほぼ全てのクリスチャンに 及ぶのではないかと私は考えています。遠からず、まことのクリスチャンには、厳しい試練と迫害が待っており、主のために、ついには肉体的な死が待ち受けて いることでしょう。まだそのような時代は来ていませんが、私たちも、神の勝利の命の豊かさを味わうだけでなく、神の焼き尽くす火によって、信仰を洗練され るために、さまざまな苦しみの中を通ることをも、余儀なくされるでしょう。

今日、できるだけ格好良く、スマートに、苦しみを伴わず、ただ喜びと平安のうちにのみ、クリスチャン生活を全うできると信じている人々が存在しますが、ヘ ブル書に登場する信仰の先人たちが、次のような試練に遭ったことを見るならば、とりわけ困難なこの時代に生きている私たちが、楽をして信仰を全うできると いう考えは、持てなくなるのが当然ではないでしょうか?

「…ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わな かった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引か れ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物となり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と 岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。…」(ヘブル11:35-38)

私たちは地上では旅人であり、寄留者であり、まだ見ぬ天にあるふるさとを目指して、信仰によって、今、歩いているところです。しばしば、私たちが地上では 旅人に過ぎないことが、はっきりと誰の目にも分かるように、主は特別な方法で私たちを世から(霊的にのみならず、肉体的にも)隔離されることがあります。 今すでに、ある者は病を通して、その他さまざまの社会的制限を通して、主の囚人として隔離されています。もうしばらくすれば、この制限は、投獄や、拷問 や、地下生活、逃亡生活に取って代わるかも知れません。

今すでに、弱さのゆえに十字架に閉じ込められ、この世に居場所を失っている人たちを見て、その消極性を怠惰として非難する人々がいるかも知れませんが、も しも本当に主があなたをそこに置かれたのであれば、恥じる必要はありません。悪魔は、私たちが十字架に赴く時には、こう語りかけるのが常なのです、「もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい。」(マタイ27:40)

私たちはこのような誘惑を、主イエスが荒野で第二の誘惑を受けた時と同じく、きっぱりと退けるべきです。もしも十字架の制限が、啓示と深い関わりがあるこ とを知るならば、今現在、主によって閉じ込められている人々は、慰めを得るでしょう。上記の論説で、オースチンスパークスは言います、完全な啓示にどれくらい迫れるかは、つねに相応の代価によりました証しのための僕はみな、疑いや非難の下に置かれてきました。<…>多くの人が後退し、堕落し、遠ざかり、疑い、恐れ、問いを発しました。

しかし、あなたたちのための私の艱難、それはあなたたちの栄光なのです』(エペソ人への手紙3章13節) 『あなたたち異邦人のためのキリスト・イエスの囚人』(エペソ人への手紙3章1節)とパウロが言うことができたように、主にあって受ける制約の度合いが彼の民を富ませる度合いなのです

啓示が豊かであればあるほど、理解する人は少なくなり、遠ざかる人の数は増えます啓示が来るのは、ただ艱難と制限によります経験的に啓示を得ることは、何らかの方法で代価にあずかることを意味しますしかしこれこそ、神がご自身のために霊的な苗床を確保する方法なのです。」


私はクリスチャンは皆、啓示を受けるために、社会から遠ざかって、隠遁生活を送るべきだと言っているのではありません。十字架は、人が自ら作り出すもので なく、主の力によって、拒みようのない形で、やって来ます。もしも主があなたを十字架にもたらされるならば、そこに閉じ込められることを嫌って、主なる神 を試みて逃げたり、自分で自分を救おうとしても無益です。主があなたを閉じ込められたのなら、あなたはそこにとどまるべきなのです。たとえそこで全ての人 から忘れ去られたとしても、主はあなたの死から、多くの命を生み出すことができると信じるべきです。

しかし、終わりの時代、信仰によって試練を耐えることを嫌うクリスチャンは、十字架を拒み、自分で自分の命を救おうとして、地上の利益を惜しむがゆえに、 信仰を捨て去るか、あるいは偽りの信仰に騙されて、負債によって作り出される見せかけの繁栄の王国へと逃亡して行くでしょう。そこで、荒野の第三の誘惑に 屈することになるでしょう。そのような人々の流れは、偽りの一大宗教(経済体系を含む霊的な複合体)、大いなるバビロンをやがて形成することになるでしょ う。現在のキリスト教界も、いずれここに吸収されていくのではないでしょうか。しかし、この地的エルサレムは、かつてのエルサレムと同様、やがて震われる 時が来ると、石一つ残らずに崩壊するに違いありません。私たちがすでに霊のうちに受けている「震われない国」(ヘブル12:28)は、この地上の王国ではなく、やがて来たらんとする都なのです。

今や、私たちは厳しい時代にさしかかっていると思います。しかし、「キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれている」のです(Ⅱコリント1:5)

「主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた。
 だから、わたしたちは、はばからずに言おう、
 『主はわたしの助け主である。
 わたしには恐れはない。
 人は、わたしに何ができようか』。」(ヘブル13:5-6)



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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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