忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

キリストと共なる死について(1)

昨日はとてつもなく暑い日であった。行く道、行く道に紫陽花が色とりどりに咲いている。このところずっと、キリストと共なる死について思いめぐらしている。

かつてのある日、私は自分の内で、全てのもがきがつきて、私はキリストと共に十字架で死に、今や神に対して生きている、という事実をはっきりと知った。その時には、外的な厳しい状況が、主によって自分はすでに死んだという霊的事実に、目を開かれる手助けとなった。

しばらくの間、私はそれまでに味わい知ることのなかった神のよみがえりの命によって、力強く支配されて生きた。私は自分が上から新しく生まれたことを、内 側ではっきりと知っていたし、もはや今までの古き命のエネルギーによって生きていないことを知っていた。心を占めていた皮肉な思いや、暗い疑いは断ち切 れ、生まれたばかりの幼子のように、心は新たになり、喜びにあふれた。

だが、その後、しばらくして、啓示の喜ばしい、天的な味わいは消え去った。そして、再び、予想だにしていなかった困難が、次々と押し寄せて来ては、私の心を打ちのめした。

それは、あたかも、主と共に「死ぬ」、以前の状態に引き戻されたような感じであった。私は自分の心が外的現象によって動揺させられるのを食い止める術を持 たなかった。主の臨在の生き生きした感覚、あの、キリストの命との結合の感覚は、どこへ消えたのであろうか? 日に日に、厭わしい自己の諸特徴が、再び、 芽を出して来るのはなぜなのであろうか?

肉体に対して、キリストと共なるカルバリの霊的な死を、絶えず適用し、肉体を罪に対して「失業させておく」ことは、さほど困難ではなかった。十字架はその 点で、一度限りで、非常に力強い前進を私にもたらしてくれた。だが、私の自己を、十字架上で、「失業」させたままにしておくことは、それに比べて、より困 難なように感じられた。

私の内で、新しい命に生きることと、古き命に生きること、その二つの間で、葛藤が始まった。十字架で、一度限り、永遠にはりつけにされたはずの私の自己 が、そこから抜け目なく這い出して、舞い戻って来ようとするのに感じられるのは、なぜだろうか。一度限り、永遠に死んだはずの自己が、常に虎視眈々と、私 の中で王座の地位を狙っているように思われるのは、なぜなのであろうか。

これまでの経験から、この問題には、ほどほどのところで折り合いをつけてしまい、初めから、適当な言葉でお茶を濁しているクリスチャンが多いように思われ てならなかった。ある人たちは、こう言うかもしれない、「もともと人間には、この地上で完全な聖化というものはないのです。ですから、自己の死なんてもの に、いつまでもこだわり続けると、とんでもないことになりますよ。果てしのない内省と狂気、そして結局、自己を中心とした偽りの信仰にしか、至りつかない のですよ…。あなたが手中でいじりまわしている観念そのものを、主に委ねてしまいなさい…」

確かに、正論かも知れないが、私にとっては、それでは少しも、答えになっていなかった。自己の内を覗き込んでも、そこに解決はないというのは、全く正し い。しかし、クリスチャンが自分の古き命に対する厭わしささえ感じず、そのことについて何一つ葛藤を経験していないとしたら、それも変ではないだろうか。 この自己は、私たちが神に従うための、最も大いなる妨げとなっている。それなのに、主がこの根深い問題に、一人ひとりが十分に納得できない、中途半端な解 答しか与えられないということは考えられない。

これまでの経験からも、主は、私たちのうちに何らかの前進を起こされる前に、まず、何らかの問題意識、もしくは葛藤を起こさせ、そして、熱心に問い尋ねる 者には、必ず、理解できる方法で、答えを与えて下さることが分かっていた。そこで、日々、私たちは波乱の多い人生の中で、どのようにしてキリストとの結合 から引き離されずに、あれやこれやの思い煩いで魂を汚されることなく、「生きることはキリスト!」と常に確信を持って、叫ぶことができるのか。どうすれ ば、私たちの内におられる主が、私たちにとって明確になるだけでなく、他の人々にさえ、はっきりするようになるのか。その問いについても、ただ主に問うべ きであると分かった。もちろん、答えはただ御言葉を信じることにしかない。私たちの経験ほど、当てにならないものはなく、経験によって主に至りついた人は いないのだ。だが、神にあって永遠の事実が、日々、私の実際の事実となるためには、まだ、私のうちに葛藤が残っているようであった…。

主は私を内省の狂気に至らせることなく、確実に、納得できる方法で、この問いに答えて下さるであろうと信じる。
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー