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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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キリストと共なる死について(2)

「上 手なうそつきは、ただ言葉だけでなく、身振りや行いによっても嘘をつきます。そのような人は、真実でないことをまことしやかに語るだけでなく、にせのお金 でも簡単に信用させてしまいます。サタンは巧妙なうそつきであるために、単に言葉だけでうそをつくとは限らないと思わねばなりません。

彼はにせの現象、感情、経験などによって、神の言葉に対する私たちの信仰をゆり動かそうとするのです。もちろん私は『肉』の現実性を否定しているのではありません。この問題は、この研究がもっと進んでから十分に取り扱いたいと思います。

ここで私は、私たちが啓示されたキリストにある立場から、離れることを述べているのです。私たちがキリストと共なる死を事実として受けいれるや否や、サタンは私たちの日々の経験を証拠に、私たちが実際は死んでおらず、それどころか大いに生きていることを誇示しようと全力を尽くします

ここでの選択は、私たちが当らねばなりません。サタンの偽りを信じるか、それとも神の真理を信じるかのどちらかです。私たちは外観によって支配されるでしょうか。それとも、神の言葉によって支配されるでしょうか。

私はニイです。私はニイであることを知っています。これは私が確信をもって信じ得る事実です。もちろん私は、記憶喪失症にかかって自分がニイであることを 忘れる可能性があるでしょう。または他人であることを夢みるかもしれません。しかし、そのように感じようが感じまいが、あるいは眠っていようがいまいが、 私はニイであるのです。記憶していようがいまいが、私はニイであるのです。

私が他人を装ったならば、事は一層困難になるでしょう。もし私がK女史を装おうと努力すれば、絶えず自分自身に『私はKだ』とくりかえして言わねばなりま せん。しかし、いくらそのように認めようと努力しても、うっかりしている時に、だれかが『ニイさん』と呼べば、つい『はい』と答えてしまいます。事実がつ くりごとに勝つのです。私のみせかけの認識は、肝心な時に暴露してしまうのです。ところが私はニイでありますから、ニイであるということを認識するには、 なんの困難もありません。これは私が体験すると否とにかかわらず、変更のできない事実なのです。

同様に、私は感じても感じなくても、キリストと共に死んでいます。その確信はどこから生じるのでしょうか。それはキリストが死なれ、そして『ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだ』(第二コリント五・一四)からです。私の経験がそのことを証明しようが、証明しまいが、事実には変りがありません私がその事実に立つ以上、サタンは私に打ち勝つことができません

サタンは絶えず、私たちの信仰をゆるがせようとねらっていることを忘れてはなりません。もし、サタンが御言葉を疑わせることに成功すれば、その目的は達せられ、私たちは彼の支配下に入れられてしまうのですしかし、神の述べられた事実に確信をもって動かなければ、すなわち、神のみわざと御言葉に対して、神は不正なことをなさらならいという確信を持つことができれば、サタンがどんな戦術を用いようと問題ではなく、私たちは彼に向かって笑うことができるのです。だれかが私に、私はニイではないということをいくら説得しようとしても、私はこれと同じようにすることができるのです。

わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである』(第二コリント五・七)。『事実』と『信仰』と『経験』の三者が、城壁の上を歩いていたというたとえ話を、ご存じの方もあるでしょう。

『事実』は城壁の上を、右も左も見ず、また後を振り返らず、まっすぐに歩いて行きました。『信仰』はその後に従いましたが、彼が『事実』から目を離さない うちは、万事ことなく運びました。が一たん『経験』が気になるや否や、それがどのようになっているか確かめようと振り向きました。すると『信仰』は、均斉 を失って城壁から落ちてしまいました。そして『経験』もその後を追って落ちた、というのです。

すべての誘惑は、原則的に見て、自己の内を見ることにあります。すなわち主から目を離して、外観を気にすることです。信仰は絶えず山に直面しているのですその山とは、神の御言葉と矛盾する証拠の山であり、知覚世界の事実の領域において明らかに矛盾と思える山――感情あるいは想像の世界同様、行為の世界における失敗という山です。そこでこの山か、あるいは信仰かのいずれかが去らねばなりません。両者は並び立つことができないのです。

しかし、問題は多くの場合信仰が去り、山がとどまることから生じます。そうであってはならないのです。私たちが真理を発見するために感覚に根拠を求めるとすれば、私たちの経験は、サタンの偽りにあやつられていることをしばしば発見するでしょうしかし、もし御言葉に矛盾するものを絶対に受け入れず、神のみを仰ぐ信仰を維持しようとの態度を維持すれば、サタンの偽りは消え始め、一方私たちの経験は次第に御言葉と一致するようになることを発見するでしょう

キリストと一つになろうとの絶えざる努力が、このような結果をもたらします。というのは、主が具体的な問題に関して、漸次現実性をもたれるからです。私たちは神の恵みによって到達するある一定の状態において、主が私たちにとって現実の義、現実の聖化、現実のよみがえりの命であることを知るのです。今まで私たちが主の内に客観的に見たものが、今度は私たちの内に主観的に、つまり現実に働いて、私たちのうちに主を現すのです。これが成人に達した信仰のしるしであり、パウロがガラテヤ書に、『あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする』(四・一九)と記している意味です。

信仰は神の事実を『実証する』ことです。信仰は常に、永遠の事実―永遠に真理であるもの―を『実証する』のです。」

ウォッチマン・ニー著、『キリスト者の標準』、斉藤一訳、いのちのことば社、pp.76-80
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