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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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私たちの内での十字架の前進

「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。」(ヘブル6:1)

この短い御言葉から伺い知ることができるのは、信仰の歩みには、初歩があり、さらに、完成を目指して進んでいくこともできるということです。また、いつまでも、初歩にとどまっていてはいけない、ということも、知ることができます。

信仰の歩みとは何でしょうか。一言で言うならば、それは、キリストが十字架で成し遂げてくださった解放の御業が、より深く、私たちのうちで実際の経験とし て成就することです。そうして、私たちが古いアダムの性質から解かれ、キリストの似姿に近づき、さらに、御霊に従って歩む、神の御心にかなった、従順で柔 和な人間へと変えられて行く、生涯に渡る行程のことです。一生をかけて、十字架は、私たちのうちで、さらに、さらに深い御業を成し遂げてくれるのです。

キリストの十字架が私たちの内で実際となる時、十字架には二つの側面があります。一つは、私たちのアダム来の古き命を砕き、終わらせるという、一見、破壊 的な側面、そしてもう一つは、御霊にあって、私たちの内に神の命を芽吹かせ、御心にかなった新しい性質を生み出すという、解放的な側面です。これは切り離 せない二つの面であり、どちらか一方しかないということはあり得ません(そのようなものはまことの十字架ではありません)。

私たちがキリストの十字架へともたされるまでの瞬間は、最初は、喜ばしいものとは思われないでしょう、むしろ、恐ろしく、不安に思われるでしょう。それ は、十字架が私たちの古き命を終わらせる働きをするからです。私たちの古き命にとっては、十字架は脅威です。しかし、十字架の御業が一旦、私たちのうちで 成就してしまった後には、自由と安定があります。私たちは、かつてなかった解放を味わい、以前に陥っていた状態の方が、はるかに不自然で、悪しきものだっ たこと、今や、主の憐れみにより、そこから自由にされたことを知るでしょう。

私たちが信仰の歩みにおいて、何かの前進を遂げようとする前には、未だかつて知らなかった困難が用意されることが多い、と私は思います。その時、突然、現 れた問題に、私たちの心は混乱し、平安を失うかもしれません。それまであったはずの喜びが失われ、自分の罪の大きさを新たに照らされ、私たちは思い悩むか もしれません。そして、その不安な状態を「正常でない」と罪定めし、「私は神に見捨てられたのだ、恵みから落ちてしまったのだ、私はもはや信仰者ではな い」とさえ、思いたくなるかもしれません。

しかし、ここであきらめてはなりません。このような罪との取り組みと、それに対する失敗、落胆、葛藤は、私たちが十字架へもたらされるために、決して、邪 魔にはならないどころか、このような悩みと、葛藤、そして御言葉への飢え渇きの時期は、前進のために、とても必要なのです。もしも、このようにして罪を知 らされる時期が全くないか、あるいは、ここであきらめてしまうならば、私たちの信仰は、何の前進もないまま、取り残されるでしょう。しかし、この時期には、「…罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)ことを思い出すべきです。

私たちは自分のどうにもならなさが嫌になるかもしれません。しかしもしその中でも、主の憐れみを信じ続けるならば、十字架は私たちを突き抜けるでしょう。 この時期は、苦い失敗と挫折に特徴づけられるかもしれませんが、それがあることによって、私たちは、キリストの十字架が、時期にかなって、より深い御業を 成し遂げるために、必要な心の準備を整えられていくのです。

たとえば、再生されたばかりのクリスチャンのことを考えて見ましょう。一般的に言って、救われた当初、人は天的な喜びに満ちるでしょう。それは、生まれて 初めて、その人が、キリストを心の内に啓示されたことの喜びです。その喜びは、天よりの祝福です。その特別な喜びのために、しばらくの間、彼は、以前には 考えられなかったような、清い生活を送るかもしれません。彼は確かに、自分が新しく生まれ変わったと感じます。まるで天が彼に窓を開いて、主が直接、微笑 みかけて下さったかのように、主の臨在を間近に感じます。これが神の永遠の命を賜った喜びなのだと彼は思います。クリスチャンになった以上、その喜びが一 生続くのだと思います。

しかし、たった2,3週間ほどで、彼の心の喜びは消え去ります。しかも、彼は、自分が以前の生活に逆戻りしているのを見出します。悪習慣や、利己的な性質 が次々、彼に現れます。再び、救われる以前に慣れ親しんでいた色々な罪が、彼に絡みついてきます。しかし、彼はすでに救われているので、この罪なる生活 を、非常に厭わしく感じます。彼は罪を憎みます。彼は救われた以上、このような生活を望んでいません。しかし、彼には罪に打ち勝つ力がないのです。一体、 なぜなのでしょうか。彼は思い悩みます。救われているにも関わらず、泥沼のような悪しき生活を拒否できないとは、自分は本当に救われているのだろうかと、 思い悩みます。彼は必死に罪から逃れようとするのですが、できません。そこで、彼は自分の回心と救いは、嘘だったのではないか、とさえ、疑い始めます。

彼は罪を憎み、罪を拒否しようとして苦闘し、そして、涙を流して主に祈ったり、悔い改めたり、懇願したり、御言葉にすがったりを繰り返します。しかし、ど うにもなりません。このような時期がしばらく続きますが、もし、彼が主にすがり続けるならば、もはや望みも絶えようとしている頃かもしれませんが、突然、 主の憐れみによって、彼は上よりの啓示を受けるでしょう。彼は突然、自分の内で、御言葉がすでに成就していることを見出すのです。すなわち、彼はキリスト と共に十字架につけられて、もはや肉に対して死んでいること、そこで、彼は肉体からの罪深い誘いに、応じなければならない責任はなく、その誘いは彼に対し て何の効果も持たないことを、はっきりと知るのです。

こうして、今まで、外側から眺めることしかできなかったキリストの真理が、ある瞬間を境に、はっきりと、彼の内側に植え込まれます。それは、十字架の力強い前進の働きであり、この働きには、安定があります。

初めに、彼は救われて喜びに溢れた時、清い生活とは何かを知りました。それは啓示でした。しかし、その後で、彼は再び、罪に落ち込みました。その時には、 罪から逃れようと思っても、苦闘する他ありませんでした。しかも、苦闘すればするほど、ますます罪の泥沼に中に沈んでいくだけのようでした。彼には罪を拒 絶する力がありませんでした。

ところが、十字架を経由した後には、全てが逆転します。以前は、水に落とした錘が沈んでいくように、罪に溺れることは自然だったのに、今度は、浮き袋を水 に沈めても、また浮かび上がって来るように、彼はもう罪の生活に溺れることができません。彼は確かに罪を犯そうと思えば、まだ犯せる可能性はあるのです が、しかし、彼はそれに全くなじまず、自然に清い生活を求めます。受けた啓示はこうして彼の内側に造り込まれました。十字架は彼の内側で力強く前進しまし た。今やそこから以前の状態に後退する方が難しく思われます。罪は遠ざかり、それについて思い出すことの方が難しくなります。

十字架の働きはこのようなものです。他にも例を挙げるなら、私たちが赦せない思いを誰かに対して抱くとしましょう。しかし、御言葉に照らし合わせると、人 を赦さないことは罪であると知ります。そこで、「赦さねばならない」と考えて、相手を赦そうと、苦闘するかもしれません。しかし、私たちの心は、自分で赦 そうとどんなに努力しても、ただ赦せないことだけが判明します。そこで、私たちは赦せない自分は罪人であると考えて、失望するかもしれません。

ところが、そこであきらめることなく、主に向かい続けるならば、ある日、私たちは、キリストの十字架が自分の内で実際となり、人を憎んでいた自分自身が主 にあって死んでしまったことをはっきりと知ります。不思議に、相手と自分との間に、十字架がもたらされたことが分かります。すると、以前には、あれほど赦 すことが難しく、憎むことが容易であったのに、今や、葛藤は終わり、もはや赦すことには何の努力も要らなくなっているのを見出すのです。

さらに、信仰の歩みが進めば、私たちはキリストと共に罪の肉体に対して死んだだけでなく、魂の命に対しても死んだことを見出すでしょう。

「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。 」(ヘブル12:4)と パウロは言います。私たちは、ここで言われている罪が、飲酒や、喫煙や、短気や、不親切や、喧嘩のことだとは、思わないでしょう。むしろ、ここで言われて いる罪は、主に従うにあたって、妨げとなる何か、すなわち、私たちの心の奥深いところにある、御霊の導きに逆らう、内住の罪のことをさしていると思われま す。そのような罪は、試練を通して、私たちにはっきりと示されるでしょう、試練に遭う時に、私たちは主に従うことを妨げようとする自分の罪深い性質、もし くは魂の命に対して、「血を流すほどの抵抗」をしなければならないことを理解するでしょう。

いずれにせよ、十字架の力強い前進は、まず、私たちの心に、罪に対する徹底した問題意識がもたらされるところから始まります。主は私たちの信仰の歩みを前 進させるために、何か特別な問題を、私たちのために用意されることが多いようです。そして、主は、まず、私たちが思い悩み、自分でその罪と取り組んで、万 策尽きるまで、自力でもがくのにまかせられます。私たちはその時、誰かに自力で取り組むなと言われても、できないでしょう。なぜ平安のうちに全てを主に任 せないのかと言われても、意味が分からないでしょう。しかし、私たちは、自分でどんなに取り組んでも、解決できないことだけを知ります。

なぜ、このような葛藤の時期がもたらされなければならないのでしょうか。理由の一つは、まず、私たちが心から罪を憎むようになる必要があるということで す。私たちが、以前には、疑問にも感じなかったような事柄を、改めて、罪であるとはっきり認識し、心からその状態を厭わしく思い、拒絶したいと願うように なる必要があるのです。主は、私たちの自由意志を尊重しておられるので、私たちが心から憎んでおらず、拒絶したいとも願っていない罪を、私たちから、勝手 に取り除くことはなさいません。そこで、まず、私たちの心に、何が罪であるかが示され、その罪から逃れたいという、切実な心の願いが起こされなければなら ないのです。

二つ目には、しかし、私たちが自力でどんなに罪を拒否しようとしても、その悪しき状態を自力で解決することはできず、解決はただ主の憐れみにしかないとい うことが、徹底的に示される必要があります。そこで、私たちはまず最初はやはり、その問題に自分で取り組むことをせざるを得ないのです。なぜなら、私たち は自分に希望がないことを徹底的に思い知らなければ、全力で主に憐れみを乞うことをしないからです。

こうして、私たちのもがきが尽きたところで、主はやって来て、私たちを罪との板ばさみの状態から、救い出して下さいます。それは、キリストの十字架の御業 が、私たちの内で力強く前進することを意味します。そして、それ以降は、その問題に勝利することは以前ほど難しくなくなります。おおよそ、このような繰り 返しを経由して、私たちの内で、十字架の御業は、さらに、さらに、深く前進していくものと考えられます。当初、私たちは、すぐに目につく、あれやこれやの 罪からの解放を求めていただけだったかもしれませんが、次第に、もっと心の奥深くに隠れ潜んでいる、他の人の気づかないような、自らの内住の罪に対して も、鋭敏な感覚を持つようになり、主に十字架の御業を求めて叫ぶようになるでしょう。

そこで、逆説的に、私はこう言いたいと思います、私たちの信仰の歩みには、失敗と、弱さと、失望の時期が、やはり、なくてはならないのだと。それは、私た ちが平気で罪を犯し続けるためではありません。また、失意の状態がずっと続くようであれば、それも何かがおかしいと言わざるを得ません。けれども、その時 期があってこそ、私たちは、自分の外面的な行動がどれほど御言葉に反し、どれほど自分に希望がないかを思い知りつつも、それでも、あくまで主を信頼して、 主を見つめ続けて、御言葉の宣言する霊的事実の中に立ち続けることを学ぶのです。こうして、私たちの信仰は試され、忍耐が生まれます。現実の状況がどのよ うであれ、主を待ち望むなら、主は定められた時に、速やかにやって来て、私たちの内で、十字架の前進をもたらして下さり、私たちを罪の縄目から解き放して 下さるでしょう。

現代のクリスチャンが、心から叫び求めているものは何でしょうか。ある人は、平安だと言うかもしれません。そうかもしれませんが、私はそれに加えて、自由 だと答えます。では、何からの自由でしょうか。罪からの自由です(そこには自分自身からの自由も含まれます)。この自由を可能とするのは、ただキリストの 十字架なのです。十字架が力強く前進するごとに、私たちは神の命の自由さを、キリストが私たちのためになして下さった御業の奥深さを、さらにさらに味わい 知るでしょう。


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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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