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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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神の怒りの酒ぶね

主イエスは言われました、「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)

この箇所を読む時、私たちは不思議に思わないでしょうか。御言葉は全世界に宣べ伝えられています。キリスト教徒を名乗る人々は、世界中に数え切れないほど 存在し、今日も増えつつあるかもしれません。しかし、主イエスは確かに言われたのです、再び、彼が地上に来られる時に、果たして、地上に信仰を見られるか どうか、と。

従って、私たちは、ここで言われている信仰が、単に「私はイエス・キリストを救い主として信じています」と告白する以上のことであると、伺い知ることができます。それは、神の御心を満足させる信仰です。天の父なる神の御心を満足させるような信仰を、果たして、御子がもう一度、地上に来られる時に、持っている人がいるかどうか、という問いかけです。

今日、主イエスを信じていても、多くのクリスチャンは、神の御心を尋ね求めようとしていません。神を信じていると言いながら、多くの人の心の中には、神の 居場所がありません。人々の目はあまりにも、見えるもの――集会や、賛美、人との楽しい時間、集会における自己顕示など――に奪われています。あるいは、 自分の正しさを主張するために、信仰を持っている人々もいます。信者の思いは、自分の願望だけでいっぱいで、心を尽くして神を愛すること、また、何が神に 満足をもたらすのかを問うことからは、かけ離れています。

私たちは悔い改めるべきではないでしょうか。今日のほとんどのキリスト教徒の姿は、「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 」(ヨハネ1:11)、と言われるにふさわしいのではないでしょうか。

神は私たちをご覧になって、これは彼の教会であるから、当然、彼の占めるべき場所であり、そこにいるのは、彼の民であると言われます。ところが、私たち は、本当に、キリストを第一位としているでしょうか。日々、自分の思いでいっぱいになって、自分の心の中から、神を追い出していないでしょうか。そうする ことによって、教会からも、神を追い出しているのではないでしょうか。主イエスは、私たちの心にやって来られた時、そこに、私たちが恋い慕う、あれやこれ やの人、もの、偶像が溢れているのをご覧にならないでしょうか。すると、ここは神の家ではなく、強盗の巣であると言って、憤りのうちに、それを取り壊され ないでしょうか。

神は私たちをご覧になって、これは彼のぶどう園であると言われます。これまで、実を結ぶように丁寧に手入れして来たのだから、そろそろ収穫があるはずだと 言われます。そして、使者を遣わされます。ところが、私たちは、彼の僕が取り立てにやって来るのを見る時、それを喜びに満ちて迎えることができるでしょう か。私たちは、主人が、私たちにどのように働いて欲しいと願っていたのか、手に取るように分かっているでしょうか? そして、私たちは、確かに御旨の通 り、労苦して働いて参りましたと、報告することができるでしょうか。

主イエスの語られたぶどう園のたとえの中で、なぜ、農夫たちは、主人に遣わされた僕たちを憎んだのでしょうか。そのぶどう園には、神に満足していただける ような収穫が、そもそも、なかったからではないでしょうか。その農園には、主人である神と農夫とが、共に喜びを分かち合うために必要な実りがなかったので す。

もっと言うならば、収穫とは、農夫たち自身のことをも、さしています。ぶどう園を手入れする農夫たちの存在そのものが、神に忠実な僕、神の喜ばれるぶどう の枝として、神に栄光を帰する豊かな実を結ぶことが望まれていたのです。ところが、農夫たちが結んだのは、悪い実でした。農夫たちは、ぶどう園で人生を存 分に楽しんだかも知れませんが、それは彼らが神の栄光を盗んだことを意味しています。にも関わらず、彼らは神によって自分たちの状態が調べられることを嫌 いました。自分たちが悪く、神から遠ざかり、怠けていたために、収穫がなかったこと、彼らの真の貧しい状態と、彼らの結んだ悪い実が明るみに出されること を恐れて、取り立てに来た僕を憎んだのです。

「わが愛する者は土肥えた小山の上に、
 一つのぶどう畑をもっていた。
 彼はそれを掘りおこし、石を除き、
 それに良いぶどうを植え、
 その中に物見やぐらを建て、
 またその中に酒ぶねを掘り、
 良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。
 ところが結んだものは野ぶどうであった。

 それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、
 どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。
 わがしが、ぶどう畑になした事のほかに、
 何かすべきことがあるか。
 わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、
 どうして野ぶどうを結んだのか。」(イザヤ5:1-4)


神はいつでも、ぶどう園が良い実を結ぶために、全ての心血を注ぎ込んだ、と言われます。それなのに、ぶどう園に彼を喜ばせる収穫がなかったのは、他なら ぬ、農夫たち(働き人たち)のせいでした。ところが、農夫たちは、ついに自分の怠惰さや不正が暴かれるという段階になって、こう考えたのに違いありませ ん、神は「まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人」(マタイ25:24)であると。彼らは主人がやって来て、自分たちの不正を厳しくとがめられることを恐れました。そこで、僕たちを憎み、ついには、主人の息子までも、憎み、殺してしまったのです。

農夫たちは、地上で好き勝手に暮らし、己を神として人生を楽しみ、誰にも裁かれないことだけを願いました。彼らは使用人であったのに、放縦になり、主人に 対してまで、君臨しようと試みました。彼らはすでに自分が神となってしまっており、万物の真の主権者が誰であるかを、認められなくなっていました。「『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』 そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。」(マタイ21:38-39)

「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、
 主が喜んでそこに植えられた物は、
 ユダの人々である。
 主はこれに公平を望まれたのに、
 見よ、流血。
 正義を望まれたのに、
 見よ、叫び。」(イザヤ5:7)


正義はなく、神を喜ばせる実がなく、争いと流血、高慢、悪が満ち溢れるぶどう園。それはただ旧約の民を指しているだけでなく、神の御心から遠く外れてし まった教会の姿にも重なります(これを自分以外の者を非難するために用いるべきではありません、ぶどう園とは、まさに私たち自身のことであると考えるべき です)。主がこのような不正な農夫に対してお怒りになられないはずがありません。農夫らは当然のこと、不義の報いを受けて、皆殺しとなります。本来なら ば、酒ぶねの中に入れられるのは、収穫されたぶどうです。女たちが、喜びの歌を歌いながら、酒ぶねの中で、ぶどうを足で踏みつぶし、流れ出すのは、ぶどう の果汁であるはずでした。

ところが、ぶどう園に収穫がないので、主は憤って、ぶどうの代わりに、野ぶどう、すなわち、不正な農夫たちを酒ぶねに放り込み、踏み潰されます。流れ出す のは、ぶどうの汁ではなく、彼らの血です。それは、働き人に主の怒りとしての、大いなる災いがふりかかったことを示しています。飛び散った血が、主の御衣 に降りかかり、衣を真っ赤に染めます。この時、主と聖なる怒りを共にする者は地上に一人もいません。主はたった一人で、憤りのうちに、この報復を行われま す。

「『わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。
 もろもろの民のなかに、わたしと事を共にする者はなかった。
 わたしは怒りによって彼らを踏み、
 憤りによって彼らを踏みにじったので、
 彼らの血がわが衣にふりかかり、わが装いをことごとく汚した。
 報復の日がわが心のうちにあり、
 わがあがないの年が来たからである。

 わたしは見たけれども、助ける者はなく、
 怪しんだけれども、ささえる者はなかった。
 それゆえ、わがかいながわたしを勝たせ、
 わが憤りがわたしをささえた。
 わたしは怒りによって、もろもろの民を踏みにじり、
 憤りによって彼らを酔わせ、
 彼らの血を、地に流れさせた。』 」(イザヤ63:3-6)


主イエスが語られたぶどう園で滅ぼされる不正な神の民とは、直接的には、イスラエルの民を指していましたが、しかし、神の怒りの酒ぶねの描写は、旧約にと どまらず、イスラエルの民にとどまりません。新約になり、教会の時代になっても、やはり、神の民は、同じように神を失望させることが予想されるのです。黙 示録では、世の終わりに、地のぶどうが御使いによって刈られ、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込まれ、都の外で踏まれる様子が表されます(黙示録14:17-20)。主は「血染めの衣」をまとっておられ、「全能者なる神の激しい怒りの酒ぶね」を踏まれます(黙示録19:13-14)

私たちは、不正な働き人に対する神の裁きは、終末や、死後にしか起こらないと思ってはなりません。私たちがまだ生きているうちに、神に立ち帰らせるため に、神が私たちを打たれ、懲らしめられ、踏みつけられることもあるのです。もしも私たちが神の御旨にかなった働きをしないならば、御国は私たちから取り上 げられて、誰か他の働き人に与えられるでしょう。そして私たちは実を結ばない枝として、切り払われ、焼かれるでしょう。生ける神の御手に陥ることは恐ろし いことです。私たちは神の裁きを厳かに思わなければなりません。高ぶる者は打たれ、不正な富は、一生の半ばにして、消え去ります。

終わりの時代、世はますます、嘲りと高ぶりに陥り、光から遠ざかるでしょう。しかし、何よりも、まさに主の民を自称している人々の内なる光が暗くなり、光なるお方が来られた時に、再び、彼を憎み、拒むようなことがないか、懸念されます。「地上に信仰が見られるであろうか」という言葉は、何よりも、私たちに向けられた言葉だからです。

主イエスがかつて地上での生涯を送られた時に、神の民であるはずの人々は、彼を受け入れませんでした。それは、人々が神の光によって、自分の不正を照らされることを嫌い、光を憎んだからです。「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 」(ヨハネ3:20)。私たちは自分の心がこのように頑なにならないよう、神の憐れみを乞わなければなりません。

主が願っておられるのは、主と一つ心となり、地上で神の御心にかなった働きをして実を結び、主が来られた時に、豊かな実りを差し出して、主と共に喜びを分 かち合うことのできる僕たちです。しかし、このような人々を今でさえ、主はどのくらい地上に見出すことができるでしょうか?

ルカによる福音書を見るならば、私たちの内なる光が、暗くなってしまわないかどうかは、私たちの霊的視力に大いなる関係があることが分かります。「あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。」(ルカ11:34-35)。

霊的な視力は、御霊によってのみ得られます。それは私たちに、己の観点からでなく、神の観点から、全てを見させます。御霊によってしか、神が何を願ってお られるのか、時にかなって知ることはできません。このような視力を得るために、神はご自分から目薬を買いなさいと勧めておられます(黙示録3:18)。神の恵みのほとんど全ては、無代価ですが、なぜここでは、「買う」という言葉が使われているのでしょうか。私たちは、何かを買うのには、代価が必要なことを知っていますが、ここで必要な代価とは何でしょうか。「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」(黙示3:19)

今日、私がとても危惧していることがあります。私たちは、神の恵みと憐れみによって、富む者とされたは良いが、自らの豊かさと美しさのために高ぶりすぎ て、主を口実にして、平気で自分を誇示するようになってはいないでしょうか。私たちが誇っているのは、神の目には、貧しさと見られるような豊かさ、裸の恥 と見られるような美しさではないでしょうか。私たちは、肉によっては、神を喜ばせることはできないのを知っています。しかし、それを理由に、苦しみを伴う 労働なしには、収穫の実は結ばれないことを忘れていないでしょうか。私たちは平安、平安と言いますが、神によって打たれ、訓練され、低められることを、あ まりにも、軽んじていないではないでしょうか。私たちは偽りの教えを糾弾し、自分たちは見えると誇っていますが、実は自分こそ、頑なで、盲目に陥っている ということがないでしょうか。

何よりも、罪を憎むこと、心から悔い改めること、神の裁きの正しさ、そして、地上にいる間、神の御前で、訓練を受けて従順を学び、低められ、へりくだるこ との必要性が、多くのメッセージや、証しの言葉の中から、消え去っているように思われることが心配です。私たちは、神がどれほど自分を恵んで下さり、どれ ほど憂いのない、祝福に満ちた生活を送っているかを喜んで語ります。しかし、それはただ己の心を喜ばせ、己を肥え太らせるためだけの、偽りの平安になって いないでしょうか。また、私たちは道に外れた教会を非難し、正しい教えへ人々を立ち帰らせる一方で、自分自身も、主の厳しい裁きに服すべき僕に過ぎないこ とを忘れて、へりくだりを捨てて、尊大になっていないでしょうか。今は私たちが栄光を受けるべき時ではなく、むしろ、来るべき日に備えて、おごそかに身を 慎み、主の訓練を受ける僕として、懲らしめられ、悔い改め、忍耐を養われながら、どのようにして労苦して働くべきかを学ぶべき時ではないでしょうか。

「兄弟たちよ、主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。」(ヤコブ5:7)

「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。従順な子供として、 無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさ い。」(Ⅰペテロ1:13-15)

「…『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とある。<…>
 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。
 罪人どもよ、手をきよめよ。
 二心の者どもよ、心を清くせよ。
 苦しめ、悲しめ、泣け。
 あなたがたの笑いを悲しみに、
 喜びを憂いに変えよ。
 主のみまえにへりくだれ。
 そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」(ヤコブ4:6-10)


どうか私たちが、主がご自分の民と呼ばれるにふさわしい、心打ち砕かれて、へりくだった民となりますように。主の居場所にふさわしく、耕された土壌を心に 持つ民となりますように。どうか主よ、私たちをお見捨てにならないで下さい。私たちの愚かさゆえに、訓練の手を止めないで下さい。主が私たちをご覧になっ た時、そこに怒りと失望しかないということが、ありませんように。私たちの外なる人を砕き、神の光によって、私たちの高慢と自己中心を照らし、取り除いて 下さい。

「わが子よ、あなたの心をわたしに与え、あなたの目をわたしの道に注げ。 」(箴言23:26)
「わが子よ、よく聞いて、知恵を得よ、かつ、あなたの心を道に向けよ。」(箴言23:19)
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)



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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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