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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の御心の満足とは

オースチンスパークス著、ベタニヤより、つづき。

さて、さらに続けましょう。「……彼を家に受け入れた。彼女にはマリヤという妹がいたが、マリヤはイエスの足もとに座って、彼の御言葉を聞いていた」。文字通りには、「マリヤはイエスの足もとに座って、彼の御言葉を聞き続けていた」です。<…>

マリヤが聞き続けていたので、マルタは苛立ちました。<…>彼女は主の所に来た時、「主よ、私の妹が私一人にもてなしをさせ続けているのを、何とも思われないのでしょうか?」と言いました。<…>
   これは何でしょう? これは主が最も望んでおられるものを主に与えることです。これが意味するのは主の御心の満足です。マリヤが行ったことの中に、主は御心の満足を見いだされました。ここで私たちはベタニヤの意味を理解します。

マタイによる福音書21章を見ると、イチジクの木の物語があります。イエスはエルサレムとベ タニヤの間を行き来しておられます。彼はエルサレムに入り、宮の状況を見ました。そして、彼の心は痛めつけられ、失望の苦しみで射抜かれました。彼はすべ てのものを見てまわり、何も言わずにベタニヤに戻りました。朝、途上で、彼は空腹になり、一本のイチジクの木を見ます。彼はそこに行きますが、何もみつか りません。彼は言います、「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」。彼らが戻って来ると、弟子たちはそのイチジクの木が萎れて枯れていることに気がつきます。彼らは事実を指摘します。

さてご存じのように、このイチジクの木はエルサレムと関係しており、当時のユダヤ教の型でした。主が神殿の中で味わった失望は、腹をすかせてイチジクの木 の所に来たものの、何の実も見つからなかった時の失望と一つでした。この二つのことは一つです。そこで、その体系は彼の関心外になります。ユダヤ教は、こ の時代の残りの期間、没落します――「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」(ギリシャ語、「この時代の終わりまで」)。それは彼を満足させることができず、没落します。それは主に何も与えない萎れたイチジクの木です。

しかし、失望を痛感する時、彼はベタニヤへ行かれます。ベタニヤは「イチジクの家」を 意味します。神殿やエルサレムにではなく、ベタニヤに主は満足を見いだされます。これが、主がいつもそこに行かれた理由です。彼の心の満足は今や、当時の 冷たくて命がない形式的宗教体系の中にではなく、ベタニヤのホームの生き生きとした躍動的な暖かい雰囲気の中にありました。彼の御言葉はエルサレムでは拒 絶されるけれども、ベタニヤでは受け入れられて熱心に耳を傾けてもらえること、そこには常に「聞き続ける」人がいることを、主はいつもご存じでした。

使徒の働き第2章は印象的です。それは、ペンテコステの後、信じた者たちは使徒たちの教えの中にしっかりとどまり続けた」(42節)と言っています。ご覧のように、そこに教会が到来しました。そしてその特徴は、「彼らは使徒たちの教えの中にしっかりとどまり続けた」ということです。私たちはこの御言葉に慣れているため、それはあまり多くのことを私たちに伝えていないようです。あなたはこれを単純な実際的方法で適用する用意があるでしょうか?<…>

この言葉は実際には、「いつまでもとどまり続ける(persisting)」です。<…>「いつまでもとどまり続けること」は、真理に対して実際的、積極的に心を注ぐことを意味します。そして、これが彼の教会を構成します。教会は、彼から来るものが受け入れられ、すべての心、全生涯がそれに捧げられる所ですそこには、それに対する明け渡しがあります

おそらく、これがマルタの好まなかったことです。マリヤはそれに専念し、それに没頭しました。これが主が求めておられることです。 もし私たちが自分に訪れる一つ一つの神の真理の言葉に対してこのような態度を取っていたなら、その結果はどうなっていたでしょう。<…>真理の効力が現さ れたのは、人々が自分の聞いたことに対してこのような実際的態度を最初に取り、その中にいつまでもとどまり続けたからです。<…>

これが主が欲しておられることです。これが彼の御心を満足させるものです。マリヤは彼の足もとにすわり、彼の御言葉を聞き続けました。そしてこれが、他のすべてのものが彼を失望させていた時に、彼の御心を満足させました。御心の満足が、主の民の生活の一つの特徴でなければなりません彼の御心を満足させるものは、私たちが彼の御言葉にしがみつくこと、それを正しく認識すること、それを最高のものとみなすことです。会衆は主に対して「イチジクの家」でなければなりません。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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