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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

心の腰に帯を締め…

「あ なたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今か ら後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅう とめに、対立するであろう。」(ルカ12:51-53)

私の生まれつきの性格には、人を愛しやすい傾向があります。恩を施してくれた人のことは忘れませんし、気に 入った人は愛しすぎるほどに愛します。けれども、主に従って行く上で、私のこの天然の気ままな愛情は、私自身にとっていかに心地よくとも、主の御前には、 汚れていることを、幾多の経験を通して、思い知らされるのです。人のアダムの魂から出て来る感情、十字架を経ていない魂から呼び覚まされる全ての感情は、 どんなに人の目に麗しく見えようとも、神の御前には、汚れているのです。そこで、クリスチャンが、主から最も取り扱われなければならないものの一つが、天 然の魂から出て来る愛です。

神の愛は、ねたむ愛であり、神の愛は、私たちとの間に、何者も挟まることを許さない、排他的な愛です。ヤコブの手紙にはこうあります、「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。それとも、『神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる』と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。」(3:4-5)

主のねたむ愛の激しさ、厳しさを、どのくらいの信者が知っているでしょうか。主は、私たちの目が、主以外のものへ向く時、しばしば、私たちの愛の対象を焼 き尽くしたり、剥ぎ取られたりされます。私たちは、主に自分をお捧げしたと言いながらも、それでもまだ、自分の愛したいものを気ままに愛する権利が自分に はあると思って、色々なものを手中に握りしめています。そこで、主は私たちの心を取り扱わねばなりません。信者にとって、主に従う上で、しばしば、最も大 きな妨げになるのは、身内や、兄弟姉妹への、十字架を経ていない天然の愛です。

兄弟姉妹との交わりに連なった当初、私はこの交わりが、そのままいつまでも絶えることなく成長していくのだろうと考えていました。私は兄弟姉妹をとても気 に入っていましたし、人との交わりの只中にいることの心地よさ、人から大切にされることの心地よさを感じていました。ある意味では、みんなで「お手手つな いで」、信仰の道を歩んでいくことが可能だと考えるほどに、私は気楽で浅はかだったのです。

しかし、その後、私が通らされたのは、厳しい、孤独な、試練の道でした。私の天然の魂の愛情は、激しく試みられました。あたかも、主はこう尋ねておられる かのようです、あなたは兄弟姉妹との楽しい交わりがあったから、私に従って来ただけなのですか。自分が恵まれ、楽しい生活を送ることが目的で、私に従って 来たのですか。それとも、たとえ全てを剥ぎ取られても、目に見える益がほとんど全てなくなったとしても、私を信じて従いますか…。

ヨハネの第一の手紙2章16節にはこうあります、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。」

私たちは、主の名を口実にして、世の欲に誘われることもあり得るのだということを忘れてはなりません。たとえば、美しく、立派な会堂を建築し、信徒数を 誇っているような教会を見れば、それが世との妥協の産物であることは、簡単に察しがつくでしょう。しかし、場合によっては、私たちも、同じようにして、自 分の身の周りの兄弟姉妹との交わりを、自分の持ち物であるかのように誇り、堅く握りしめて、手放そうとせず、それを主よりも大切にし、それによって、己の 目の欲、肉の欲を満たすこともありうるのです。

私たちは兄弟姉妹を愛すべきです。しかし、それは十字架を経ていない、自己中心な愛情で、心の赴くままに、勝手気ままに、天然の魂の愛によって、愛するの ではありません。そのような天然の愛で、兄弟姉妹に執着するのではありません。ただ主の愛の中で、兄弟姉妹を愛することが求められているのです。ですか ら、もしも主への愛の妨げとなるならば、兄弟姉妹への愛でさえ、心の偶像となり得ることを忘れてはなりません、主はしばしば、そういう意味で、私たちの魂 の愛する対象を剥ぎ取らねばならなくなるでしょう。

「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。 」(Ⅰペテロ2:11)

さて、終わりの時代には、厳しい試練の時がやって来ることは、聖書に書いてある通りです。クリスチャンは、地上で起きる物事のほとんど全てに、霊的な背景 があることを知っています。しかし、時事ニュースには耳を傾けても、霊的に目を覚ましていることの必要性を忘れてしまっている人は多いのではないでしょう か。

私が危惧するのは、クリスチャンは今一般的に、霊的に、何かしら、一種の平和ボケのようなフワフワした思考停止、じっくりと御言葉に基づいて物事を識別す ることを嫌い、ただその場の心地よい雰囲気に押し流されていくだけの、来る者拒まずの、怠惰な状態になりかけているのではないかということです。キリスト 教界を出たからもう安心、私たちは正しい福音にたどり着いたのでもう安心、などと思って、目を覚ましていることの必要性を忘れているのではないでしょう か。

御言葉はしばしば、私たちが霊的に物事を検証し、「すべてのものを識別して、良いものを守」る(Ⅰテサロニケ5:21)ことの必要性を強調します。もちろん、人の教えも、御言葉に基づいて、吟味せねばならないことは、言うまでもありませんが、何かの霊的経験や、啓示、幻が語られている場合にも、それがどの霊によって語られているのか、御言葉に基づいて検証せずに受け入れることは危険です。

「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」(Ⅰヨハネ4:1)

もしも、私たちが何事も御言葉によって検証しようとせず、人から聞いた素晴らしい教えや、書物を通してやって来る、心を興奮させる啓示や、幻を、来る者拒 まずの状態で受け入れるとすれば、それは、私たちを簡単に、初めの教えから逸らし、異なる福音へと誘い込むでしょう。御言葉は言います、「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。 」(ヘブル2:1)  このことは、私たちを初めに聞いた教えから押し流そうとする何かの暗闇の力が、常に、私たちの近くで働いていることを示しています。ですから、私たちは絶 えず御言葉に立ち戻り、御言葉によって全てを識別しつつ、御言葉の内にとどまることを意識的に心がける必要があります。

来る者拒まずの状態は、だらしのない状態です、それは目を覚ましていることとは正反対です。私たちは、主に従って行く上で、「心の腰に帯を締め、身を慎」(Ⅰペテロ1:13)むことを思い出さなければなりません。

にも関わらず、これから恐らく、多くの人たちが、霊的に目を覚ましていないために、つまずくことでしょう。「かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊」(Ⅰペテロ3:4)と異なる、放縦で高慢な霊が忍び込んで来ても、気づく人は少ないのです。明らかに御言葉に反する教えが語られていても、それを指摘する人がいないのです。

なぜ、主イエスは前述の御言葉の中で、私は地上に平和ではなく、分裂をもたらすために来たのだと言われたのでしょうか。それは、光なるお方がそこにやって 来るだけで、人の心の内に何があるのかが、おのずと、暴露されるからです。主イエスが、悪霊につかれた二人の人に出会った時、この二人は、主がまだ何も言 われないうちに、その姿を見ただけで、叫びました、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」(マタイ8:29)。彼らは、光なるお方がやって来た以上、自分たちは以前に占めていた場所をもう占めることができないことを知っていたのです。

光と闇とは共存することができません。闇は、光が来れば、それに打ち勝つことができません。御子のカルバリの勝利を通して、暗闇の軍勢には、すでに敗北が 定まっています。ですから、主イエスが来られるところでは、おのずと、闇は光に敵対して、分裂が起きるのです。両者が共にいられないからです。しかし、最 終的には、闇は光に打ち勝つことができません。これは霊的な敵対現象ですが、見える形では、人と人との間の分裂となって起こることが多いのです。キリスト の霊を内にいただく私たちキリスト者の周りでも、しばしば、このような現象が起きます。愛する兄弟姉妹との間にさえ、楔が打ち込まれることがあります。し かし、私たちが御言葉に堅く立って、「この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗」するならば(Ⅰペテロ5:9)、「彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ4:7)

主の僕として、私たちは主人の通られた苦しみを避けて通ることはできません。「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(Ⅱテモテ3:12) 私 たちの歩む道は、決して、楽なものではないということは、幾多の御言葉によって明らかにされています。キリスト者は、望むと望まざるとに関わらず、神とサ タンとの激しい霊的戦場に身を置いているのです。暗闇の勢力は、自分たちの終わりが近いことを知っているので、いよいよ激しい憎しみを、神の子たちに向け て来るでしょう。

しかし、彼らは、その激しい憎しみを、最初からあらわにして近づいて来るわけではありません。むしろ、親切で、滑らかで、優しい、心を刺激し、興奮させる ような、愛らしい話口調で、キリスト者を欺こうと、美しい物語を手土産に近づいて来るのです。しかも、暗闇の勢力は、私たちの天然の愛情を利用しようと、 最も身近な兄弟姉妹を欺きの手段としてしばしば利用するだろうことも忘れてはなりません。こうして、私たちの愛は常に試みられるでしょう。私たちは、天然 の愛を主によって対処していただく必要があります。「サタンも光の天使に擬装する」(Ⅱコリント11:14)ことを決して、忘れてはなりません。

このようなわけで、終わりの時代に直面している私たちは、今こそ、何によっても押し流されることのないよう、霊的視力を増し加えていただけるように、主に 目薬を買い求めましょう。目を覚まして、心の腰に帯を締め、御言葉に堅く立って、あらゆる偽りに抵抗しようではありませんか。内なる油塗りである御霊に よって、直接、教えられ、彼に教えられた通りに、彼の内にとどまろうではありませんか。


「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。従順な子供として、 無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさ い。」(Ⅰペテロ1:13-15)
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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