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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

魔法使いにならないように

筆者はクリスチャンになってから後、クリスチャンの世界にも、「演技性人格障害」と思われるような人々が数多く存在することを知った。

仏教や、他の宗教の世界にもそういう人々は多いと思うが、人の世の常として、クリスチャンになっても、あるがまま以上に自分を立派に見せかけ、人の上に立ち、人の注目を浴びて、教師になりたがり、指導者になりたがる人たちは存在するものである。

筆者から見ると、信者になったにも関わらず、神と人との前に自己を偽って、そのような人生を送り続ける人たちの気が知れないのだが、それでも、クリスチャンを名乗りながら、ことさらに正義の味方をきどったり、弱者の救済者になろうとしたり、困っている人たちの優しい助言者をきどり、自分があたかも格別に素晴らしい指導者であって、多くの人の助けになっているように振る舞いたがる人間は、数多く存在するのである。

だが、そんな風に、自分から教師や助言者や救済者になりたがり、人の注目を浴びる場所に立ちたがる人間に、真にそれにふさわしい資質があった試しは一度もない。十中八九、そういう人間は自己顕示欲に憑りつかれているだけの詐欺師である、と言っても過言ではなかろう。

特に、信仰の世界ではそうなのである。なぜなら、我々の本当の救済者、教師、助言者は、主イエス・キリストただお一人であるからだ。それにも関わらず、キリストを押しのけてまで、栄光を受けようとする人間は、およそ本当の信仰者ではあり得ない。何のために、弱みを抱えた人々に近づき、事情のある人たちばかりを周りに揃えて、彼らの師となり、助言者となろうとするのか。そういう人間は、まず詐欺師である、と考えて警戒して間違いはなかろう。

それでも、クリスチャンとして神への熱心な信仰に生きている時ほど、信者は熱心さのあまり、そういう人たちの甘言に、つい身を委ねそうになることがある。

「純粋な兄弟姉妹に出会いたい」という渇望や、「もっと真理を知りたい」などの願いがあだとなって、普段ならば、すぐに見抜けるはずの詐欺師の甘言を、疑わずに受け入れてしまいそうになることがある。

だから、そんなことにならないために、信者は人間に期待しようとする心の弱さに、よほどしっかりとくつわをかけておかなければならない。繰り返すが、我らの救い主は、主イエス・キリストだけである。神以外の目に見える人間に栄光を帰することを、神はご自分の僕にお許しにならない。そして、そのようなことをすれば、悲惨な結果が待ち受けているだけである。

人間に過ぎない者から余計な助言や忠告をされないためにも、信者は人間の指導者に助けを求めず、御霊だけに従うことが必要である。どんなに最初は心細くとも、それが最も安全な道なのだということは、信仰によって歩むうちに、必ず分かって来る。
 
世の多くの人々は、実際にそうである以上に、自分を優れた何者かであるように見せかける策略に長けている。実質よりも、アピールに生きることが、この世における成功の秘訣である。人間社会は不断の演技によって成り立っているようなところがあり、巧みな演出によってどれほど他人の心をつ かむことができるかが、その人の社会での立場や待遇を決定する。

そして、人の心理は巧みな戦術があれば動かすことができる。素晴らしい作曲家の楽曲を使えば、どんな人の心でも開いてしまうことができるかも知れないし、感動的な作文で、人の心をとらえることができる。そのような装置を巧みに用いる人間が、自分自身を実体以上に素晴らしく見せかけては影響力を行使し、社会の動向を決めているのである。

しかし、キリスト者は、そのような見せかけに生きてはならないし、キリスト者が生きているのは、そのような欺瞞の世界ではない。

キリスト者が生きているのは、心理学を超えた、霊的真理の領域である。
 
だが、関東に来てから、筆者が出会ったクリスチャンの多くは、世人と同じように、そつなく自分の弱さを人の目から隠しながら、うわべを美しく飾ることに実に長けていた。むろん、そんな人たちばかりが全てだったわけではないのだが、とにかく世間体を繕うことに対して、驚くほどやり手な人々が、数多く存在したのである。

彼らの多くは、神と人との前で課題などないかのように装い、良いことづくめの信仰生活を送っているように語っていた。

彼らは悩み、もがき、苦しむことなく、世人が常に見舞われている試練にも遭うことなく、むしろそういう悩みの渦中にいる人たちを、常に一段高いところから見おろして、半ば、笑うように、哀れみながら、こう言っていた、「なぜそんなに悩まなければいけないのか分からない」と…。

だが、何年間も、こうした人たちを観察しているうちに、筆者には、彼らの平穏が、非常に作り事めいていて、うわべだけの自己欺瞞である可能性が高い、と疑うようになった。その美しい、そつのない、破綻のない生き方は、一種の虚飾であって、真実な姿でなく、彼らが本来、見るべき課題から目をそらし、現実逃避している結果としての自己欺瞞の産物なのではないか…。

そうした人たちは、自分をあるがまま以上に飾り、できもしないことをたくさん語って、自分は特別に神に恵まれ、愛されている存在であり、他の人の知らない真理を知っている偉大な存在であるかのように装っていたが、本当は、そんなものはすべて作り事に過ぎないのではないか…。

そして、彼らは自分ほど幸福に見えない他者を、いつも「可哀想」という目線で見おろしているのだった。
 
筆者から見ると、彼らの姿は、あまりにも出来すぎていて、嘘っぽく、彼らは自分が演じている優れた人間が、現実ではないということがもはや分からなくなるまで、現実と仮想現実を混同しているのだと思われてならなかった。

長年の観察の後、そういう人たちは、ついに「私たちは神だ」と主張するようになった。ただ教師や指導者となって注目を浴び、「私たちは他の信者とは違って、特別に恵まれた存在である」と主張するだけでは飽き足らず、ついには自己の無謬性を主張するほどにまで、偉くなってしまったのである。

それを横目で見つつ、筆者は呆れ果てながら、やはり現実を偽って、自分のうわべを美しく飾り、自分をあるがまま以上に過大に見せかけて、人の気を引こうとする虚栄と自己欺瞞の罪の重さというものを、考えずにいられない。
 
そんなことになるよりは、たとえ人間の誰かから、不器用だ、とか、不格好だ、とか、可哀想だ、などと見下されたり、嘲笑されたりするようなことがあっても、神の御前に自分を偽らずに正直に生きることが、極めて重要だと思わずにいられない。

筆者の今までの経験から言えることは、神の恵みを受けるために第一義的に必要な課題は、まずは自分自身に対して正直であること、自分の欠乏を神に隠さないことである。主が造られた自分自身の本当の姿を、限界は限界のまま、欠点は欠点のまま、欠乏は欠乏のまま、偽りなく認め、今、自分がどんな課題を抱えているのか、何を必要としているのか、虚勢を張らずに率直に神に相談する姿勢を崩さないことである。

神の御前で完全無欠を気取って、問題などないかのように装い、他者に助けの手を差し伸べるばかりで、自分の必要をかえりみようともせず、人前ではわざとらしい感謝の祈りばかりを捧げて、問題を隠し、自分を偽り、飾らないことである。

人に馬鹿にされたくない、あるいは、自分で自分の弱さを認めたくない、という強がりから、神に対してまで本心を隠さないことである。

人に対して弱さを見せる必要はないが、神の御前でまで、自分の現実を否定して虚勢を張って、うわべばかりを美しく飾っていると、いつの間にか、その厚化粧のせいで、信者は自分の本当の必要が分からなくなる。もし正直に祈ってさえいれば、とうに満たされ、癒され、解決されたはずの色々な問題を、神に打ち明けるチャンスを失い、ずっと人生で抱え続けることになってしまう。

だが、信者は自分ではそういう一連の問題には蓋をしてしまっているので、心の底では苦しんでいても、その苦しみを認めることもできず、自分の苦しみと問題自体をないこととして闇に葬りながら、より一層、ひどい自己欺瞞に落ち込み、自他を欺いて生きることになる。そういうことをやり続けていると、当然ながら、人としての健全さが失われ、高慢になるだけでなく、いずれ思考そのものが異常となり、何が現実なのか、全く分からなくなってしまう。

そうなることに比べれば、他の信者の目線などどうあっても良いから、少なくとも、神にだけは、大いに悩みを率直に打ち明け、力となっていただき、解決をいただく方が、幸福な人生を送れると筆者は思わずにいられない。

むろん、繰り返すが、人に悩みを打ち明ける必要はない。助言者や教師になりたがる詐欺師につけ込む隙を与えるだけだからである。だが、少なくとも、神に対してだけは、正直でなければ、人は恵みを受けるチャンスを失ってしまう。

神は、信者がつまずいたり、悩んだり、苦しんだりしているところを見ても、笑ったりはなさらない。それは、幼児の足取りがおぼつかなく、頼りないからと言って、その親が子供をあざ笑ったりしないのと同じである。むしろ、子供がしっかりと自分の足で立って歩けるようになるまで、親は一生懸命、そばで見守り、必要があれば、助けようとする。

父なる神も、信者の一歩一歩のおぼつかない足取りを、決して笑ったりせず、共に喜び、悲しみながら、細心の注意を払って助けて下さる。だから、信者には自分を偽って神の御前で虚勢を張ったり、ありもしない聖人君子を演じたりする必要は全くないのである。

神に対して正直であれ。そうしていれば、必要な助けを受けられる。そしていつしか、御言葉が信者の内で成長して、足取りも前より力強くなり、キリストと同じ身丈まで達するだろう。だが、それも、信者がキリストを離れて自分だけ強くなることを意味せず、信者が強くなるのではなく、キリストの強さが信者の力となるのである。

信者の成長は、ただキリストとの結びつきがより一層強くなることだけによる。その交わりの強化のためにも、相談事を神に隠さないことである。

阿蘇の渓谷の絶壁
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