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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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身を慎んで、目を覚ましていなさい

今から10年以上前、私がまだ大学にいた頃、ある会合の席で、外国人教官が院生たちに尋ねた、「21世紀はどんな時代になると思いますか?」 それに対し、私はこう答えたのを覚えている、「21世紀は非常に困難な時代になると思います…。」

主イエスが地上におられた時から、この時代は「曲がった邪悪な時代」(ルカ11:29、ピリピ2:15)で あった。今、時代の邪悪さは、いよいよますます増し加わり、私たちは未だかつてなく困難な時代にさしかかっていると思われる。そんな中で、私たちの唯一の 望み、ただ一つの錨は、もちろん、我が内におられる、生けるキリストである。万物を造られたお方が、私たちと共に住んで下さるのである。しかし、それで も、御言葉は言う、

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」(Ⅰペテロ5:8)

今ほど、この警告を重んじるべき時は他にないと私は思う。なぜ、身を慎み、目を覚ましていなければならないのか。どのようにして、私たちは、敵である悪魔から、身を守ることができるのだろうか。前回に引き続き、再び、警告の記事を書くことをお赦しいただきたい。

まず第一に、私たちは今こそ、口から出てくる一切の言葉を、御霊によって清めていただき、「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使」う(コロサイ4:6)必要があるのではないだろうか。

世では、人権侵害救済法案(参考) などという、どうにも、唇寒しと言う他ない、不穏な発案がなされているようだ。そんな発案が出てきたこと自体が、誰もが自分の発言に対して、極度の慎重さ を要する時代が、近づいて来ていることを思わせる。だが、私たちキリスト者は、御霊に従って生きている間は、人にとがめられるような発言を口にすることは まずないだろう。御霊はおのずから、律法を私たちに全うさせてくれるからである。

気をつけねばならないのは、私たちが肉に従って歩むことであり、その時、私たちは聖霊を悲しませ、自分の身をも脅かすような不用意な発言を繰り返しかねな いということである。自分の舌によって、人々に敵対し、自ら災いを招くことさえ、あるかも知れない。そこで、御霊によって舌を制することを、今から、主に よって学ばせていただく必要が、私たちにはあるのではないだろうか。このことは、いずれ厳しい時代がやって来ても、私たちを悪しき者たちから大いに助けて くれるであろう。

その具体的な実行として、心あるクリスチャンたちにお勧めしたいことがある。それは、今度、私たちがキリスト教界への非難を口にしないことである。これま でに、キリスト教界で起こっている由々しき事態について、私自身が、幾度か、記事に記して来た。宗派の対立、教職制度の誤りについても述べた。

だが、私たちは今、時代の重要な曲がり角に来ているのではないだろうか。これは決して、時代に流されて言うのではない。今から先、私たちは、すでに脱出し てきたソドムとゴモラの街を振り返るようなことを、霊的に差し控えた方が良いと思う。言葉の上でも、思いの上でも、後ろを振り返らず、前にあるものだけを 思った方が良いと思う。すでに後にして来た街を何度も、振り返り、そこに戻ろうとするかのように、その街にいる住人に対して争いをしかけ、我が身に報復と しての災いを招くようなことは、断じて、控えた方が良い。それは、私たち自身が、この身と心を清く保ち、御言葉の内にしっかりとどまるためである。

私たちは、神の復活の命の内に生きている者であって、肉に従って生きる責任を負ってはいない。だが、敵は何とかして、私たちを御霊に従って歩む生活から引 き下ろし、肉に従って歩ませたいのである。そこで、あらゆる方面から、敵は私たちの心に圧力をかけて来る。数え切れない不法な作戦が取られ、私たちは困惑 し、苛立ち、憤りを覚える瞬間があるかも知れない。

だが、そんな時、敵は私たちの感情を混乱させ、怒り、悲しみ、憂鬱、苛立ちを誘発することによって、私たちを神の命にあるまことの平安から引き離し、肉に 従って歩ませようとしていることを考えてみるべきである。それは、神のまことの命の中で、世を超越した、天的なエクレシアの会衆として、私たちが生きるこ とを、彼らが望んでいないためである。天的な高さにいるキリスト者に対して、彼らは手を触れることができない。そこで、悪しき者たちは、何とかして、私た ちを、この世の次元へ引き下ろし、肉に従って歩ませ、彼らが容易に影響を与えることのできる、反ナントカ同盟といったような、むなしい政治運動を生きさせ たいのである。

そこで、キリスト教界に対して、または他の兄弟姉妹の交わりに対して、敵対的な発言を繰り返すことによって、肉に従って歩まないよう、私たちは気をつけた い。それが、この先、どれほど私たちを危険にさらすかを予想していただくために、かつて、キリスト教界の不正を糾弾していたクリスチャンの一群が、どう なったかを思い出していただきたい。

彼らは初め、あたかも正義を守るために、キリスト教界を告発していたように見えたであろうし、彼らの主張には、それなりの根拠もあったのであろう。だが、 彼らの告発を支えた原動力は、怒りと憎しみであった。やがて彼らは、キリスト教界に反発しているうちに、いつしか、キリストご自身に敵対するようになり、 御言葉そのものを歪曲もしくは否定して、真理に逆らい、ついには、まことのクリスチャンに対してまで、憎しみを燃やし、迫害に及んだ。もはや当初の目的を 大幅に逸脱して、初めに敵対していた組織のみならず、不特定多数の聖徒たちに敵対するようになり、そして、神ご自身、御霊ご自身に対して戦いを挑んだので ある。

そのような恐ろしい事態が起きた理由は、この人々が反目と敵意によって語ったことにあった。彼らは自らの憎しみと怒りに飲まれてしまったのである。不義に燃える舌によって語っているうちに、それによって「全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれ」た(ヤコブ3:6)のである。

これとほぼ同様のことが、別の兄弟にも起こった。どの礼拝形式が正しいかという善悪の議論に明け暮れていた兄弟は、他の兄弟姉妹の礼拝形式を非難しているうちに、生存の車輪で焼かれてしまい、ついに御言葉から逸れて、正常な信仰を失ってしまった。

気をつけて欲しい。もしも、私たちが肉の思いで、他の兄弟姉妹の交わりを非難し続けるならば、彼らに起こったようなことが、私たちにも、起こるだろう。舌 には、人の全身を地獄の炎で燃え上がらせる力がある。もしも私たちが、キリスト教界の不正について、兄弟姉妹の不正について、神の愛からでなく、憎しみ、 怒り、罪定め、敵意、軽蔑、嘲笑、その他諸々の肉的な感情によって、非難を繰り返すならば、たとえ理屈の上でどれほど正しいことを私たちが述べていたとし ても、私たちの末路は、御霊に逆らい、神に敵対するものとなるだろう。

私たちは、背教や異端を警戒してはいるが、キリスト教界そのものに敵対し、反目することを目的としていない。地上的な観点から、地上的な組織に対して反目 を続けることには、何の意味もない。そのようなことを続ける人たちがいれば、必ずや、キリストの御名を引き下ろし、まことのクリスチャンの敵となるであろ う。なぜなら、不義の舌がその人の全身を燃やし、その人の存在そのものを、地獄の炎と化してしまうことは避けられないからだ。その時には、もはや理性も、 知性も、その人を引き止めることはできないだろう。

そのような恐ろしい事態が起きないために、これから先、私たちは身を慎んで、キリスト教界について敵対したり、むやみに非難する発言を慎み、心の中で、出 てきた街を振り返ることも、差し控えた方が良いと私は思う。私たちは全ての聖徒たちのために熱心にとりなして祈り、倒れた者たちが、不信仰から抜け出し、 再びキリストというまことのぶどうの木につがれるよう祈ることはしても、自分もつがれた枝に過ぎない私たちが、切り払われた「枝に対して誇ってはならない」(ローマ11:18)「神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。」(ローマ11:22)。 どうか神の慈愛にとどまり、全ての聖徒たちのために愛と憐れみの心を持ってとりなして祈り、どんな人たちに対しても、敵対感情を捨てて、愛と憐れみを持っ て接するようにしましょう。それは私たちが無用な枝として切り取られないためである。どうかこの忠告に耳を傾けて欲しい。

私たちは聖なる神にならって、聖なる者となるよう、主によって、召しだされた会衆である。私たちの信仰は、地上の組織に対する反対運動ではない。そのこと を今一度、思い出し、敵対的な運動から一線を画し、遠ざかるべきであると私は思う。そうでないと、私たちは誤った方向へ逸れて行ってしまうだろう。

第二番目に、悪しき霊の影響力から身を遠ざけるために、クリスチャンが、他宗教の集会に出入りしないのは当然である。偶像崇拝が行われている礼拝に出席す ることによって、私たちは、神の怒りをこの身に招かないで済むだろうか。そのようなことが、主が喜ばれる、聖徒たちの模範となる、清い行いであろうか。ま た、そうすることで、私たちは自分のあずかり知らぬ、諸霊の影響力に服することにならないであろうか。

私たちは「有名な油注ぎの器」と銘打った講師の集会へは赴かないであろう。それなのに、なぜ、ある人々は、誰が見ても、キリストの霊に導かれているのでな いことが明白な、他宗教の集会へ赴くのだろうか。そのような行為は、忌むべき二心であり、報いなしでは済まされないだろう。

第三番目に、異端に対して警戒を怠らないで、全ての教えを御言葉によって検証することの大切さを忘れないで欲しい。御言葉ははっきりと私たちに警告している、「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」(Ⅰヨハネ4:1)

サタンはあらゆる隙間から顔をのぞかせて、私たちを偽りの教えに誘い込もうと、侵入してくるであろう。兄弟姉妹の交わりにさえ、侵入しようとして来るだろ う。このことは決して、言い過ぎではないし、疑心暗鬼を誘うために言っているのでもない。私たちは、自分たちと関わりのない群れについては警戒を怠らない が、身近な兄弟姉妹からやって来る影響には、無防備になりがちである。しかし、今は厳しい時代であるから、私たちはこの点でも、警戒を怠ってはならない。

つい最近、私はインドの聖者と呼ばれる人の書物を読むように勧められた。しかし、私はこの種の霊験あらたかな書物をいつも全く受けつけられなかったので、長い間、関心を持つことなく、放置していた。だが、つい先日、ようやく、紹介文に目を通してみた。

愛する兄弟姉妹、どうか、お怒りにならないで下さい。私が皆さんの夢を打ち砕き、失望を誘うかも知れないことを、どうかお赦し下さい。私もこのようなこと を書きたくて書いているわけではありません。しかし、事態はここまで抜き差しならないところまで来ているのです、そのことを、皆さんに理解していただきた いのです。

私が目を通した文章の趣旨は、大体、次の通りであった。

「神が地獄を創造したのではない。地獄とは、罪人が自分で作り出す状態である。神は誰も罰さないし、誰も地 獄に落とさない。なぜなら、そのような残酷さは、キリストが十字架の贖いによって表して下さった神の愛とは、矛盾するからである。神が罪人を裁くのでな く、地獄では、罪人が自分で自分を裁くのである。だが、そんな地獄にさえも、神は救いの道を切り開かれ、時間はかかろうとも、地獄にいる者のほとんどが、 やがてキリストの御元へ引き上げられることが、予め、聖者を通じて予告されている…」

これは、事実上、神の裁きを否定する教えである。ここでは、神による裁きと、地獄の刑罰の永遠性が否定されている。神の義なる裁きを否定す ることは、聖書全体を骨抜きにすることに等しい。この短い文章を読んだだけで、他の文章を読む必要もなく、この教えが異端であることは、クリスチャンの誰 の目にも、明白でないかと思う。

にも関わらず、そのことを指摘する者がなかったのは、私にとって衝撃であった。どうか、愛する兄弟姉妹、もしこの教えを奉じている人があるなら、以下の御 言葉を、もう一度、読み直してみて下さい。神は誰をも罰さない、とか、愛なる神は、誰をも地獄に落とさない、などと、聖書のどこに書いてあるのでしょう か? 十字架にかかられた主イエスご自身が、偽善者たちに、こう語りかけたのではなかったでしょうか? 「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイ23:33)

このように、御子ご自身が、地獄の刑罰に言及されたのです。刑罰というからには、当然、その前に、裁きが伴うはずであり、裁く方がおられるはずです。神こ そが、義なる裁き主なのです。神の裁きは真実であり、正しいのです。サタン及び、救いを受け入れなかった罪人が、神によって、地獄で永遠の刑罰に定められ ることは、聖書の至るところに書いてあり、それは予め決まっていることで、疑問や、否定の余地はないのです。あえて記す必要もないとは思いますが、念のた め、御言葉から、そのおびただしい証拠をあげておきたいと思います。

★裁き主なる神について
正しいさばきをし、人の心と思いを探られる万軍の主よ、…」(エレミヤ11:20)、「主はわれわれのさばき主、主はわれわれのつかさ、…」(イザヤ33:22)

神は義なるさばきびと日ごとに憤りを起される神である。」(詩篇7:11)、「天は神の義をあらわす、神はみずから、さばきぬしだからである。」(詩篇50:6)、「主は正義をもって世界をさばき公平をもってもろもろの民をさばかれます。」(詩篇9:8)

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。 」(ローマ11:33)

神は聖徒たちの訴えに応じて、正しい裁きを行ってくださる方である。全ての被造物は神の義なる裁きを待ち望んでいる。「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。 」(ルカ18:7)
「『主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります』。 」(黙示録15:14)、「わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、『全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります』。 」(黙示録16:7)


★裁きの権限は御子に委ねられている
「…子にさばきを行う権威をお与えになった。 」(ヨハネ5:27)、「…もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。 」(ヨハネ8:16)
一つの玉座がいつくしみによって堅く立てられ、ダビデの幕屋にあって、さばきをなし、公平を求め、正義を行うに、すみやかなる者が 真実をもってその上に座する」。 」(イザヤ16:5)
さばきの座にすわる王は その目をもって、すべての悪をふるいわける。」(箴言20:8)
「…見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。」(ヤコブ5:9)

「またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。 」(黙示録19:11)

★神は復讐する神である。神ご自身が罪人を裁き、罰せられる
地獄は、断じて、罪人自身が作り出す状態ではない。キリスト者は誰でも確信を持って、こう言えるはずである、「『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。」(ヘブル10:3)

従って、罪人を裁き、地獄の刑罰に投げ込む権威を持っておられるのは神である。
「恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。」(ルカ12:5)、「…からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ10:28)

神はご自分に従わなかった不義な者たちには、容赦のない裁きを行われる。
「主は、信心深い者を試練の中から救い出し、また、不義な者ども<…>を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくよくご存じなのである。」(Ⅱペテロ2:9-10)、「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。 」(ローマ2:5)
「わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。 ああ、<…>あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 」(ローマ2:2-3)

次の御言葉から、罪人に対する神の峻厳な裁きがよく理解できるだろう。
「彼は<…>正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの 柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ちそのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。 」(イザヤ11:3-4)
主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる主に殺される者は多い」。 」(イザヤ66:16)
「叫びは地の果にまで響きわたる。主が国々と争い、すべての肉なる者をさばき、悪人をつるぎに渡すからであると、主は言われる』。 」(エレミヤ25:31)
わたしが怒りと、憤りと、重い懲罰とをもって、あなたに対してさばきを行う時、あなたはそのまわりにある国々のあざけりとなり、そしりとなり、戒めとなり、驚きとなる。これは主であるわたしが語るのである。 」(エゼキエル5:15)
「それゆえ、わたしは預言者たちによって 彼らを切り倒し、わが口の言葉をもって彼らを殺したわがさばきは現れ出る光のようだ。 」(ホセア6:5)

そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を 彼女になさったからである」。 」(黙示録19:2)
「諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる 預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。 」(黙示録11:18)


★神の裁きに服するのは、全世界の被造物と全ての人間、そして、この世の君である
「さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。 」(ヨハネ16:11)
「…それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 」(ローマ3:19)
「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 …」(ヘブル9:27)
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。 」(Ⅱコリント5:10)


★地獄は神による刑罰の場所であり、地獄の刑罰は永遠である
地獄の刑罰は永遠である。地獄にいるほとんどの者にも、いずれは救いの道が開かれているなどという記述は、聖書にはない。救済の可能性がもしもあるなら、どうして、地獄の刑罰が永遠であり得ようか。救済がないからこそ、刑罰は永遠なのである。
「それは、聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日であるからだ」(ルカ21:22)
「神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。」(ヘブル10:29)
「そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。」(Ⅱテサロニケ1:9)
「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。」(マタイ25:46)
地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」(マルコ9:48)
「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。」(ユダ6)
「ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。」(ユダ7)


どうか兄弟姉妹、目を覚まして欲しいのです。偽りの教えを非難して来たはずの私たちが、なぜ、神の裁きの真 実性を骨抜きにするような文書の、初歩的な誤りをさえ、見抜けなかったのでしょうか。まして、なぜ、それを「油塗られた」ものとして賞賛したりできるので しょうか。どうか目を覚まして下さい。そして、もう一度、全ての教えを御言葉によって吟味し、全てを識別して、良いものだけを守り、御言葉に堅くとどまろ うではありませんか。

けれども、この類の偽りは、今後も、ひっきりなしに、やって来るものと思われます。その度ごとに分析している暇はきっとないでしょう。もしも、私たちが しっかり目を覚ましていなければ、外からやって来る影響力に、容易に押し流されてしまいます。私たちには、神の霊感を受けて書かれた聖書の御言葉、そし て、内なる油塗りとしての御霊が与えられています。「この油が、すべてのことをあなたがたに教える」(Ⅰヨハネ2:27)のです。どうか、この油が教える通りに、彼のうちにとどまりましょう。さらに、どうか主が、私たちの霊的な目を開いて下さり、はっきりと見える者として下さいますように。主よ、私たちを悪い者たちからお救い下さい。主の憐れみと、御助けを乞います。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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