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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

今夜の夜食は

以前には、夜8時に閉まる近所のスーパーによく買い物に行っていたが、車を使う生活になってから、夜10時に閉まる大型スーパーでの日々のセールに足を延ばすようになった。

すると、家庭の主婦よりは少し遅れたタイミングにはなるが、不思議なほどに安く豊富な買い物ができるのだ。新鮮な魚、野菜、惣菜といった品々を、手頃な値で買うことができる。我が家の食卓は、実に恵まれた取り揃えになった。

惣菜はカロリーが高いので、できるだけ自分で調理できる天然の素材を手に入れる。
さらに、それに加えて、郷里から送られて来る野菜と果物が、我が家の食卓を彩るようになった。

今、無農薬のなすび、キュウリ、緑と赤ピーマン、それから、つるむらさき、オクラ、葡萄・・・、などなどが蓄えられている。

魚も豊富だ。塩焼きにぴったりの朝採りのカマス、ニジマス、タラ、お吸い物に最適なブリのあら…。

なすびは焼きなすにしても美味しいはずである。

これらをさっと調理すると、自分の分と、ペットの分を取り分ける。実は、ペットたちも、筆者と同じく日々の恵みにあずかっているのである。

さて、夕方の買い物をする前に、何となく気が重いことがある。生活の心配、将来の不安といったものが押し寄せて来て、外に出るのがためらわれることもある。

こうしたことは、夜だけでなく、朝にも起きることがある。朝、目覚めてから、しっかりと起き上がるまでの間、できれば、一日を全部早送りしてしまいたいほど、悲観的な思いがやって来ることがある。

一体、この人生は何と味気なく悲惨なのだろうという思いが、何の根拠もなく沸き起こり、まといついて来ることがある。

だが、立ち上がって、歩き出すと、まとわりついて来るそういう思いのすべてがさっと吹っ切れて、何事もなかったかのように去って行くだけでなく、まるで新たな力が与えられるように感じられるのだ。

立ち上がると、一体、どこに何を悲観する理由があったのかすらも分からないほど、嘘のように消極的な思いが消え去る。その時、あるべきものがあるべき場所に戻った、という感じがある。

つまり、信者の体や心のノイズが信者の霊に影響を与える状態から、信者の霊がはっきりと魂と体を従える状態に戻るのである。

人の思いだけでなく、姿勢もまた、暗闇の勢力の前に非常に重要であるのだと思わずにいられない。以前、筆者は、こうしてブログを書いているように、主に信者の言葉による宣言が効力を発するのだと思っていた。確かに、言葉は強力な武器である。

しかし、同時に今は、信者の存在そのものが武器なのだと思っている。言葉だけでなく、信者がどういう姿勢を取り、どういう表情をし、どのような目的に向かって、どのように行動しているのか、何よりも、信者が一体何を信じているのか、そのすべてが告白と同じくらい重要なのである。思いや、態度もまた、信仰の表明なのである。

信者は、自分の霊・魂・体の全てをバランスの取れた状態に保つ必要がある。信者の心と体の状態そのものが、言葉を発する前から、暗闇の勢力に対してものを言うのである。

そのようにして、信者が絶えず暗闇の世界に衝撃力をもたらしうる存在(世の光)であるためには、信者が何事についても、決して敗北的な観念を受け入れないことが肝要である。体の疲労や思いの乱れのために、霊の統率力が弱くなっている時、まとわりついてくるすべての消極的観念を拒否するだけでなく、自制心を失わせるような出来事に決して深入りしないことである。

信者は、決して環境や出来事に受け身に翻弄される立場ではなく、自分自身の心と体を治め、環境を治める統率者として、キリストと共に、この地を生きて支配するべきである。その支配は、まず自分自身を治めることから始まる。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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