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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

みどり子、乳飲み子に賛美される主

いよいよ近所でも蝉が鳴き始め、夕暮れになると、美しい虫の声が聞こえるようになった。主が私を力づけて下さったので、日々、なすべき仕事を果たすために、歩いている。(ただし、写真は横浜ではなく、数年前の神戸。)

時折、自分の生活を振り返って、主の御前に、偶像に当たるようなものがないか、点検することは重要である。人、もの、人の教え、先人の言葉、金銭、飲食、 兄弟姉妹の交わり…。もしも私たちが、主ではなく、何か別のものにしがみつき、それに栄光を帰し始めるならば、何でも、偶像になりうる。

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(Ⅰテモテ2:5)。神と私たちとをつなぐお方はただ一人。私たちは、何者をも介さず、ただキリストに直接、結ばれて、ただ主から、そのまことの命によって、生活に必要な全てを満たしていただき、私たちの死んだ古き命に代わって、キリストに生きる力となっていただきたい。

しかし、目に見えるものは、あまりにも、人の五感を誘うので、目に見える現実が、時折、私たちの心をしっかりつかみ、あるいは心を落胆させる。見える現実 が、知らず知らずのうちに、神と私たちとの間に立ちはだかって、それこそがまことの供給源であるかのように、私たちを偽り、主から直接の命の供給を受け、 信仰によって歩む妨げとなってしまうことがある。

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」(Ⅱコリント5:7)。私たちにとっての現実はキリストである。そしてキリストとは次のようなお方である。「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」(コロサイ2:3)、

「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのであ る。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨 てたのである。」(コロサイ2:9-11)。


私たちの真の供給者は、目に見える現実や感覚ではなく、キリストご自身である。たとえどんなに現実が困難で、悪しきものに見えても、キリストは全ての支配 と権威のかしらであり、神の良きものの全てに満たされたお方である。このキリストを内にいただいている私たちは、主にあって、主の御名を通して、キリスト に満ちている全てを必要に応じていただけるのである。そこで、このまことの供給者であられるキリストと、私たちとの間に、何者も、何物も、挟ませないよう にしたい。どんなに素晴らしい地上の事物であっても、キリスト以外の何かに頼らないようにしたい。たとえ油紙一枚のような薄い隔たりであったとしても、ま ことの命なるキリストと私たちを隔てる障害物があるならば、それは私たちの信仰を弱める材料になりかねず、また、そこを足がかりにして、敵は私たちを攻撃 できるのである。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)

特に、暗闇の勢力との戦いに一歩でも足を踏み入れた後には、私たちは、ただカルバリで主が取られた勝利に依拠して、すなわち、死と復活を経られたキリスト との直接的な結合に堅くとどまり続けることによってしか、悪しき者のあらゆる攻撃に耐えて立ちおおせることはできないことが分かるだろう。この霊的戦場に おいては、自分の信仰を通して、ただキリストの勝利だけを持って、敵に当たらなければならない。そこでは、いかなる教師や、兄弟姉妹、先人たちの言葉や、 彼らの信仰によっても、武装することはできないのだ。

このことを知らないうちは、私たちは、自分の拙い信仰告白を、他人の経験豊富なメッセージによって、補うことができるかのように錯覚している。私たちは、 自分の信仰告白を、まるで学術論文か何かのように、権威ある人の言葉の引用で補強しようとしがちである。しかしながら、信仰が真に試される瞬間に、他人の 言葉の引用によって武装するほど、愚かで、無益なことはない。

先人に学ぶことが全て無益なのではないが、どんなに優れた人の言葉であろうと、他人から借りて来た信仰告白は、私たちの信仰が真に試される瞬間には、役に 立たない。暗闇の勢力に対して、衝撃力を持つのは、私たちが自分の信仰に立脚して、他ならぬ自分の口で、キリストの十字架の勝利を大胆に誉めたたえ、カル バリに堅くとどまって、御言葉によって武装し、どんな悪しき現実によっても、心を揺るがされないでいることを、大胆に証する場合だけである。

もう一度、言うが、私たちは他人の経験、他人の証、他人の信仰を借りて来て、暗闇の勢力と直接、戦うことはできない。もしも、私たちが自分の信仰に立たな いで、自分以外の誰かの言葉を用いて、暗闇の勢力に立ち向かおうとするならば、それは重大な危険を身に招くことになるだろう。なぜなら、その時、敵は私た ちに対して、このように対応できるからだ。

「すると悪霊がこれに対して言った、『イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえた ちは、いったい何者だ』。そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押さえつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その 家を逃げ出した。」 (使徒19:15-16)

このような意味で、私たちは、誰か立派な教師や、先人や、リーダーの言葉を用いて、暗闇の権威に立ち向かうようなことを避けなければならない。敵はそれが 借り物に過ぎず、本当は、私たちに、それを述べるに十分な信仰がないことを見抜いた上で、倍の反撃を浴びせて来るだろう。

必要なのは、私たちが自分自身の口を通して、直接、偽りのない良心に基づき、自分自身の信仰によって、主の勝利を賛美し、証することである。力に乏しく、深みもなく、稚拙で、幼いように思われる、私たちの乏しい信仰の告白を、主は尊んで下さるのである。

「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、み どりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。」(詩 篇8:1-2)

みどり子、乳飲み子によって、誉めたたえられる主! これは何と驚くべき御言葉だろうか。生まれたばかりの幼子のように、弱く、取るに足りない、私たちの 口の賛美を通して、主はまさに、敵に立ち向かう要塞を築かれるのだ。みどり子、乳飲み子に過ぎない弱い者たちが、高らかに主イエスのカルバリの勝利を歌う 時、神に敵対する者、恨みを晴らそうと、機会をうかがって、獅子のように吼えたけっている者たちでさえ、敗退し、口を閉ざさざるを得なくなる。

そこで、私たちはどんなに弱々しくあっても、借り物の言葉でなく、まさに自分自身の口で、主を誉めたたえよう。現実がどうあれ、主の勝利を信じ、高らかに 宣言しよう。神のあらゆる良きものに満ち満ちておられるキリストから、日々、生きる力をいただき、このお方に私たちの現実となっていただこう。幼子のよう に弱い私たちをも、神はその偉大な力によって強くして下さる。悪しき日に、暗闇からの全ての攻撃に対して立ちおおせるために、私たちはただ主イエスの御名 の権威によって立ち上がり、神の武具によって直接、武装し、信仰を強められるべきである。

「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、 正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるで あろう。

また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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