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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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真の弱さとは何か

「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 」(Ⅱコリント12:9)

「わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。」(Ⅱコリント12:5)

「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」(ローマ15:1)


地上での弱さや、貧しさは、しばしば、私たちが心から主を待ち望む、最も大きな動機となります。私たちはこの地上で弱く、追いつめられており、貧しいがゆ えに、主に助けを求めて叫ばずにいられません。そして、主の憐れみに満ちた解決を信じて、待ち望まずにいられません。こうして、地上での貧しさや、弱さ が、しばしば、私たちの信仰が増すきっかけとなります。

しかし、御言葉が述べている「弱さを誇る」ということが、どのような意味であるのか、もう少し、踏み込んで考えてみたいと思います。

私たちは間違いやすいのですが、ここで御言葉の述べている弱さとは、私たちが地上で豊かであるか、それとも、貧しいのか、私たちの生まれながらの力が、強 いのか、それとも、弱いのかという問題ではなく、私たちが生まれながらの命の内に、何一つ、より頼むものを持たず、私たちの天然の命の力が、全て無となっ た状態を言うのではないでしょうか。それは、人が主と共なる十字架を通して、自分に死んで、キリストの他に、何一つとして、自分の内に、より頼むべき誇り を持たなくなった状態を言うのではないでしょうか。

そこでは、私たちは、自分の成功を誇らないと同時に、自分の不成功をも、誇りません。世間で自分が名声を得ていないことや、繁栄していないことや、自己実 現していないことや、自己満足していないことや、豊かでないことや、健康でないこと、あの人、この人に比べて、私が何か特別な試練を耐え抜いて来たこと や、誇るべき所有物を何も持っていないことにさえも、より頼みません。過去の苦しかった経験や、現在置かれている状況の困難ささえも、誇りとしません。

私たちは時折、弱さを誇ると言いながら、依然として、自分の弱さを武器に変えようと望んでいる場合があります。強い人は、10の力を誇るかも知れませんが、弱い人も、1しかない自分の力を強みにして生きることが可能なのです。

強い人には、強い人なりの自己義認があります。しかし、弱い人にも、弱い人なりの自己義認があります。そして、人知れぬ困難を耐え抜いて来たという自負が あるだけに、弱者の自己義認の感情は、なお一層、屈折して、取り扱いにくいものとなっている場合が多いのではないでしょうか。

いずれにせよ、人の天然の命から出て来る弱さは、偽りと、自己中心性に満ちています。病であれ、失敗であれ、無名であれ、貧しさであれ、人は何らかの欠乏 を抱えている時には、それがために、より一層、わがままになりがちです。弱さのゆえに、自分がより一層、理解され、同情を受け、憐れみを持って扱われるこ とを、当然のように考えるようになります。天然の命から出て来る弱さ、貧しさは、かえって、私たちをさらなる自己中心性へと導くことが多いのです。

しかし、御言葉の言う、弱さを誇るということは、そのようにして自分の弱さを、自分の立場を有利にし、自分の正しさを世間に印象づけて、自分を美化し、自 己中心性をより一層強めるための道具として用いることを指すのではありません。それは、弱者による自己義認とは無関係です。神の御前では、強者の自己義認 も、弱者の自己義認も、どちらもが、十字架によってはりつけにされなければならない、忌まわしいものなのです。

主にあって、真に弱くされる時、私たちが今、持っている天然の命の力が、大きかろうが、小さかろうが、その一切が、十字架に渡されるでしょう。そこでは、 力の強い人も、弱い人も、どちらもが、自分の生まれながらの命の力に死んで、それを自分を有利にするために全く用いることができないでしょう。あの人に比 べて、私は成功していないし、豊かでもないし、優れた能力がなく、美しくもなく、健康でもない、だから私は弱いのだ、と考えて自分を慰める思いも、そこに はありません。人と比べての相対的な弱さは、御言葉が誇るよう勧めている弱さと同じものではありません。

真の弱さとは、自分から出て来るものを、何一つとして、自分を有利にするために利用できなくなった状態のことではないでしょうか。その時、私たちは、もは や世間の前で、自分の苦悩をアピールし、自分を悲劇の人のように見せかけて、印象づけることもできないのです。これまで耐え抜いて来た苦境の重さを語るこ とによって、人の同情と涙を誘うこともできません。

主にあって弱くされる時、人の目を絶えず自分にひきつけようとする、私たちの自己中心性は、完全に打ち砕かれて、十字架に渡されるでしょう。私たちは成功 であれ、失敗や苦難であれ、自己から出て来るものを、何一つ、誇れなくなるでしょう。それは、私たちが、自分の内には何一つとして良いものがなく、これま で耐えてきた苦難を自分の正しさとして誇ることさえも、主の御前に忌まわしいということを、自覚させられた時です。むしろ、世間の前で誇ることができるよ うな力や経験が、わずかでも私たちの内にあるならば、それはキリストのゆえに、一切が損であるということを自覚した弱さなのです。

ただキリストの他には、誇るべきものは何もなく、自分に由来する一切が十字架に死に渡されることだけにふさわしいと自覚する時、自分に属する全てが、キリ ストのゆえに、損なものであると認める時、私たちは真の弱さとは何かを知るのではないでしょうか。そうなって初めて、私たちが無とされたその場所に、ただ キリストが生きて下さるのではないでしょうか。

私たちは、十字架により、このような地点にもたらされるほどまでに、弱くされることが必要です。私たちが真に退去するならば、信仰によって、主イエスが来 られるでしょう。この弱さは、十字架の向こうに、墓の向こうにあります。そこへたどり着くために必要なのは、人の同情を誘って、私たちの美名をさらに築き 上げるような、あれやこれやの悲劇の物語ではなく、ただキリストの十字架です。そこでは、私たちの自己義認の感情が、徹底的に十字架に渡されなければなり ません。自分の弱さを武器にして、あの人よりも私は正しい、私は苦難によって練られ、清められたのだから、同情に値すると考えて自己義認しようとする思い は、ことごとく、十字架に渡される必要があります。

もしも、神が私に与えられた十字架の死の宣告に対して、私がもっと従順になり、全ての自己義認、自己中心性を捨てて、自分はただ死の刑罰を受けて、墓に死 んで横たわるだけにふさわしいことに同意し、それでも、死んだ私を、主が再び、生かして下さると信じて、定められた時まで、黙って主を仰ぎ望むなら、この ような弱さに対して、主は速やかに働かれ、ご自分の復活の命を現されるでしょう。
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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