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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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主が与え、主が取りたもう

書こうか迷ったが、やはり書くことにしよう。

私の飼っていた文鳥が、数日前、天に召された。こうして、私は身近なただ一人の家族を失って、一人地上に残された。この猛暑のためである。言い訳できない。全ては私の責任であり、私の管理不行き届きのためである。

自分自身も、気を失って倒れそうな暑さの中、毎日、自分を騙し騙し、やっとこさ生きていた。まさかこれほどまでに、何日間にも渡って、窓を開けても、風一 つ通らない、殺人的な暑さが続こうとは…。生きる道を何とか切り開こうとして、私がハローワークなどを巡りつつ、試行錯誤を続けていた最中、文鳥は少しず つ、体調を崩して行ったのだった。だが、あまりにも、自分の大変さに気をとられ、その深刻さに気づいてやることができなかった。主は癒して下さると思った し、自分は弱い立場にあって、苦労しているのだと思っていた。

だが、一体、他者を生かす力のない私の苦労が、何の誇りとなるのだろうか。自分よりも弱い生命のために、何もしてやれない私の無意味な強さが、何の価値を 持つというのか。誰をも利さない私の徒労が、何の同情と、憐れみに値するのか。むしろ、これは弱さではなく強さであり、自己中心と言うべきものである。

まことに、キリスト以外に、私の内に誇るべきものは何一つとしてない、ということを、主は憐れみを持って、こうして、私に示して下さった。私から出て来る 全てが、腐敗であり、邪魔でしかないのだということを…。私の正義感と、自己義認が邪魔であることは言うまでもなく、私が何とか生きながらえようとして、 試行錯誤し、努力することの中にさえも、主の御前には、徹底的な腐敗があるきりであり、私の努力など、何の解決にもならないのだと…。

だが、不思議なことに、この出来事を通して、何かしら、主の憐れみが、雨のように私に降り注いだ。私には失意と後悔が残されたが、それに伴って、主から受 ける慰めも深いように思われる。何だろう、これは? 罪の増し加わるところには、恵みも増し加わる、とは、こういうことをも言うのだろうか?

気の狂いそうな暑さの中で、愛する小鳥のなきがらを手のひらに包んで、私は心の中で叫んだ、

「主よ、私を憐れんで下さい! 私はどうしようもない罪人なのです! 自分のことさえもどうにもできず、まして、弱い家族のために、してやれることが何もないのです! 私は何という情けない、憐れみに欠けた、無力かつ有害な人間なのでしょう!

でも、主よ、どうか私を憐れんで下さい、私はたった一人ぼっちになりました! 私を慰めてくれる家族はいませんし、助けを求める相手もありません! 誰よ りも信用ならない私が一人いるきりです。主よ、あなただけが頼りなのです。あなたが今、私と共にいて下さり、私を見捨てておられないことを、どうか、はっ きりと示して欲しいのです。私がどんな罪人であろうとも、あなたが今も、私と共にいて下さり、私を愛して下さっていることを、知りたいのです。

主よ、お願いがあります、今、私にはこの小鳥を埋葬するために、地面を掘る道具がありません。スコップが必要なのです、どうか、あなたがそれを用意して下さい!」

もはや暑さのため、何も考える力もなく、茫然自失のうちに、私は祈ったというよりも、主に向かって、要求したのだった。だが、こんな支離滅裂な祈りにさ え、主は憐れみを持って即答してくださり、地面を掘るものは、階下に下りて行くと、私の思った通りの場所に、探す必要もなく、備えられていた。しかし、埋 葬に適した場所が見つからなかった。私はいつかこの土地を離れるだろう。旅の道連れをこんな所に置いて行きたくない。私はこの小鳥を故郷の地に埋めること を決め、それまでは、小さな植木鉢を仮の墓地にすることにした。

この事件を通して、私は自分の義を主張することをやめた。私は弱いのだと考えて、自分の弱さによりすがることもやめた。もしも私が弱いのだとすれば、私よ りも、もっともっと弱い者たちはどうなるのか。その者たちの前で、私にどんな弁解の余地があるのだろうか。一体、自分に何の同情を乞うことができるのか。 自分の弱さの上に開き直って、自分よりも弱い者から、平気で同情を要求することは、間違っている。

だが、私の生まれながらの命はとことんまで腐敗しており、私が生きようとすることでさえ、他者の命を脅かすことにつながりかねない。私もアダムの生まれな がらの命においては、ただまむしの子孫でしかなく、本質的に殺人者なのだ。なのに、私にはこの呪われた死の身体から自分を救う道がないのだ。

ただ私たちの主イエス・キリストに感謝するのみである。もしも主を知らなければ、こんな時、どこに希望があっただろうか。しかし、今は神を信じているの で、望みを微塵に打ち砕かれ、自分の腐敗を思い知らされ、剥ぎ取られ、打ちのめされる時でさえも、主の憐れみを信じられる。私の命が極みまで腐敗していよ うとも、主は真実であられるからだ。キリストによって生まれることだけが私をアダムの命から救う。主の裁きは正しい。主が私になさることは、全てが、最善 である。たとえそれが自分の無力と恥を思い知らされることであったとしても…。

どんな時でも、主の優しさと、憐れみと、愛とは、私に注がれている。私には、自分で自分の生存を支えることもできないし、まして、自分に連なる命を守る術 もない。ただ生きるというだけのことが、いつもいつも、なぜこれほどまでに、困難であるのか知らない。だが、私にできることは、ただ必死に、神の内に隠 れ、自分の生まれながらの命を拒んで、神の命の中に駆け込むことだけである。私にはできなくとも、主にはできる。義人は信仰によって生きると、御言葉に書 いてある。どんなことが起ころうと、私にできることは、ただ主の御名を賛美することだけ。主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな! 私の生ま れながらの命にできることはただ罪を犯すことだけであり、そこにはどんな希望もないが、それでも、キリストの十字架の死が、日々、私の内で実際となり、キ リストの命が、死んだ私に代わって、私を内側から生かすことを信じて、主を見上げ、主を待ち望むのみである。

不思議なことに、状況は長い間、こう着状態のようであるが、小さな出来事の中に、日に日に、主の明らかな慰めが現れている。今日は、『敬虔な生涯』の入荷 が、もう何週間も遅れているので、速やかに本が手元に届くよう、エクレシアの一人の成員に祈りの助力を求めた。すると、晩には、もう本がポストに入ってい た。これが主の憐れみでなくて、何だろうか。

私たちは懲らしめられても、失望してはならない。主に心から従おうと思って自分を捧げた者は、誰でも、主イエスが肉体を裂かれたように、自分も裂かれなけ ればならない。私たちは裂かれることのない、無傷できれいな人生を送ることはできない。私たちの無力と、腐敗と、貧しさは、いたる所で明らかになるだろ う。他の人々が喜び、安んじている時に、私は追いつめられ、みっともなく転び、剥ぎ取られ、打ち倒され、無力を覚え、涙しているかも知れない。誤解され、 罪定めされ、嫌われ、排斥されているかも知れない。そんなことが、この先も、幾たびあるかも分からない。

だが、たとえそうなったとしても、己を義とせず、主の義により頼む者は幸いである。なぜなら、主を待ち望む者は、恥を見ることがないからである。仮に失敗 したとしても、困難の中で、行き場を失ったとしても、神の愛と、憐れみを信じられる者は、幸いである。主を信じて待ち望む者に対して、主は憐れみ深く、苦 しみの中にも、深い慰めを与えられるからである。

人は私を見てすでに気がおかしいと思うかもしれないし、こんなのは自己安堵だ、ごまかしだ、無責任だと言うかも知れないが、何かしら、人知を超えた安らぎ が、私を包んでいる。生死は主の支配下にある。主の許しなしには一羽の雀さえも、地に落ちることはない。そして主は私の孤独と悲しみを確かに知っておら れ、私を心配し、同情しておられるのである。だから、こんな時でも、私に言えることは、主の御名は誉むべきかな、という一言に尽きる。少しの間ではあった が、この生命を私にお与え下さり、共に寄り添い、喜びを分かち合わせて下さった主に、心から感謝を捧げ、そして、私の至らなさをお詫びした上で、この小さ な命を主の懐にお返しし、預けるのみである。

そして、たとえどんなに人生が困難に見えたとしても、どんなに追いつめられ、孤独の中を通らされたとしても、私の命そのものを主にお預けして、この先も、主の真実に信頼し、主の愛により頼みながら、歩いて行く。

「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:38-39)
 
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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