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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

見えるものによらず

主を愛し、主を知りたいと願うほどに、それ以外のものに、興味がわかなくなっていく。似て非なる教えの糾弾、とかいう作業に没頭していたこともあったが、今では、それにも興味がわかない。

目に見えるものに、すぐに頼ろうとする私は、その弱く、不信仰な心のゆえに、何度、主の御姿を見失って、水に溺れかけただろう! 何度、見えるものの中に、主の御姿を見出そうとして失敗して来ただろう!

欺きは、初めは、私の幼さと愚かさに合わせてやって来た。その後、次第に、私の信仰の成長に応じて、少しばかり、高尚そうに、姿を変えた。だが、紳士の姿であろうと、物乞いの姿であろうと、やはり欺きは欺きだったのだ!

それら全てが100%嘘であったと言うわけではない。それが私の信仰生活の重要な通過点だったことは、確かである。しかし、私はいつも、自分の内なるキリ スト以外のどこかに、自分以外のどこかに、主の御教えを探そうとしていた。主に出会い、主を知ったその後でさえも、感覚を満たしてくれるものの中に主を探 そうとしたり、兄弟姉妹との交わりの中に主を探そうとしたり、現在の自分に、何か足りないものを補うために、さらに高尚で深く霊的な教えを求めなければな らない、という考えに駆り立てられたりして、真の命を、偽りの命に取り替えようとしたのだった。

内なるキリストがおられ、彼が私に全てを供給してくれようと、十分な恵みを携えて準備なさっておられるのに、そこに全てを補って余りある恵みがあるとは信 じられず、世界中で、誰よりも、最高の権威を持ったお方が、私に給仕して下さろうと備えて下さった食卓をあえて蹴ってでも、私は単純な静けさの中で、御霊 によって教えられることに、物足りなさと、寂しさを感じて、主を退けて、目に見える食卓の方に駆けつけて来たのだった。

そのような私の姿は、「ここにキリストがいる、ほら、あそこに」と言われれば、すぐに着いて行こうとするクリスチャンも、同然であった。敵が私の注意を引 くためには、すぐには手に入りそうにない、深遠で霊的な書物や、その手ほどきをしてくれる優しいクリスチャン、幾人かの兄弟姉妹の集う、奥義的な雰囲気を 漂わせる、秘めやかな交わりがあれば、十分だった。内なるキリストの臨在から、私を引き離すためには、大した舞台装置は要らなかった。

だが、柔和で謙遜な姿でやって来て、私の五感に巧みに訴えかけて、私の期待を誘った見えるものとその教えは、結局、やがて、とてつもない傲岸さと、尊大さ をあらわにして、それ自体が、審判者になり代わったのだった。見えるものそれ自体が、「キリスト」ご自身であるかのように振る舞い、ついにキリストをさえ 名乗り始めた。そこでは、十字架が語られていたのに、人の自己が真に十字架につけられていなかった。霊的な教えが、目に見える人間の権威を強化するために 利用されていた。真理と偽りが混在していた。罪の告白もなければ、悔い改めも欠如していた。敵陣の只中で私は欺かれ、失意のどん底に突き落とされ、そう なってからは、誰に何を訴えても、後の祭りであった。

ああ、欺きの深さと、終わりのなさよ! 人知ではどうやって見えるものの欺きから逃れられよう。世の中全体が、何かしら、巨大な詐欺のるつぼのようなもの に変わりつつある現在、見えるもの全てが、嘘と思っても、差し支えない現在、この世という、嘘によって築き上げられた体系を覆う、絶望的な暗闇の中で、た だ一つ、確かに輝く光は、私の罪のために、身代わりとなって、十字架で死なれ、復活された主!

主を通してのみ、私はこの世の偽りから救われる。主以外のどんな権威を通しても、私は偽りから救い出されることはできない。魅力的に見える多くのもの、人 の賞賛を受けているものに、何と多くの欺きが隠されていることか。高尚な教えを説く人が、私を救うのか。兄弟姉妹が、私を救うのか。書物が、私を救うの か。人から受ける名誉と評判が、私を救うのか。それとも、私の義が私を救うのか。

私の魂よ、思い出せ、私をエジプトの虐げと死の淵から救い出し、命の中に置いて下さったのは誰だったのか。死の惨めさから、命の豊かさへと、連れ出して下 さった方は誰だったのか。私の消えるはずのない罪を血によってすすぎ、義の衣を着せて立たせて下さった、そのお方は誰だったのか。この先にも、私が御心に 従って歩むために、必要の全てを、永遠の十字架を通して、余りあるほどに備えて下さったのは誰なのか。

にも関わらず、私の魂よ、なぜ主を捨てるのか。なぜおまえは、いつもきらびやかで奥義的で秘めやかな、自分をさらに高めてくれそうなものに心誘われるの か。なぜ、最も謙虚で、最も貧しさを知っておられ、最も穏やかで、最も柔和で、最も弱さを知り、最もへりくだったお方に、満足していられないのか。なぜ魂 をかきたてる情感と、知性を満足させる死んだ文字と、目を楽しませる刺激を求めてやまないのか。主が最も謙遜であられ、侮られても沈黙しておられるがゆえ に、私は彼を軽んじているのだ。それは私の罪である! 主を軽んじた代償は、私の魂に重い。それでも、私が打ち砕かれ、弱くされ、へりくだらされ、うめき の中で主に叫び求める時、主は驚くばかりの愛と憐れみを持って、私を救われる。私が自分自身を頼らず、ただ主を頼りさえするなら、主の救いはいつも速い。

「わたしは主である。
 わたしのほかに神はない、ひとりもいない。
 あなたがわたしを知らなくても、
 わたしはあなたを強くする。
 これは日の出る方から、また西の方から、
 人々がわたしのほかに神のないことを
 知るようになるためである。
 わたしは主である、わたしのほかに神はない。
 わたしは光をつくり、また暗きを創造し、
 繁栄をつくり、またわざわいを創造する。
 わたしは主である、
 すべてこれらの事をなす者である。」(イザヤ45:5-7)


偽りに心誘われ、主の臨在から引き離されることの苦い代償を知るごとに、私の中には、次第に、見えるものに頼ろうとする心がなくなっていく。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」(ヘブル11:3)

見えない神の愛にとどまり、神の愛の中に住み、神の愛をさらに知ろうと努めること、それ以上に、大切なものが、何か他にあるだろうか? 地上の一切の心惹 かれるものから目を背け、ただ主だけに一心に心を向けて、主を愛そうと努めること以上に、重要なことがあるだろうか? 主を否定することは、全てを否定す ることに等しい。万物の主権者は神である。その神を退けて、私たちは目に見えるどんな良きものも手に入れることはできない。私の脱線と失敗ゆえに、時間が 遅延しており、来るべき報いを失っていることを考えると、やるせなさと恥ずかしさを感じずにいられないが、それでも、目に見えるものに欺かれるという痛み を伴う学課も、主が私に与えられた最善の教訓であったのだと信じよう。

主を賛美します。主イエス・キリスト、このお方こそが、私の救い主です。私には全く希望がないけれども、彼こそは、希望の全てです。彼は私の弱さと愚かさ を知っておられます。そして私の弱さに同情して下さいます。このお方が、私の内に住んで下さり、私に代わって命となって下さり、私を教え、導き、守って下 さる、その事実に立ち戻り、しがみつきます。主よ、どうか、これ以上、目に見えるものに私が頼らないように、どうか、まことの命なる主ご自身を、もっと深 く知ることができますように、この地上で与えられている時間を、これ以上、益にならないもののために無駄にせず、神と共に生きられるよう、私を教えて下さ い。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認 めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神 の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知 るに至るようにと、祈っている。」(エペソ1:17-19)
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