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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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キリストにあっての一つ

やはり、エクレシアというのは、まず第一にキリスト、第二にキリスト、第三にキリストあってのものだという気がしてならない。

以前、筆者は、エクレシアというものを、兄弟姉妹との交わりという目に見える観点からとらえていた部分が大きかったが、その頃、構築されたと思った交わりが、本来の目的から逸らされるという出来事が幾度も起き、今は、目に見える兄弟姉妹との目に見える交流に対するこだわりがほとんど残っていない。

筆者だけでなく、筆者のよく知っていた信者たちも、兄弟姉妹の目に見える交わりにそれはそれは強いこだわりを持っていた。エクレシアを建て上げることに対するものすごい情熱があり、教会という組織を出ても、何とかして理想的なエクレシアを構築するために、交わりに適した「人材」を探し求めて歩くのである。それは日本全国が対象であり、時には国外にまで及び、交わりのためであれば、どこまででも出かけて行った。

確かに、その熱心さは敬服に値するほどであったし、組織を離れたところで、交わりを構築し、そこで人々の悩みに耳を傾け、助言を与えることそれ自体も、それほど悪いことではないかのように思われた。だから、筆者もまた、かなりの時間をかけて、交わりを構築するために努力を払ってみたのである。

だが、筆者の目から見るとき、そのような目に見える人間へのこだわり、有望な交わりへのこだわりの中には、どうしても何かしら純粋でないもの、人間に対する執着、組織への願望が見え隠れするように思われてならなかった。

結局、信者を自分の理想と思い描く「エクレシア」へと、スカウトするためのそうした行動は、ずっと見ていると、その信者のためではなく、スカウトする人間の自己満足のためであるようにしか見えないのである。そこでスカウトする者とされる者との間に師弟関係が結ばれ、最後には、そのような関係は、地上におけるネットワークの構築へと発展し、獲得した人数や、集会の規模や、自らの居場所を誇るというむなしい結果へとつながっていくのである。
 
信者たちがお互いを助け、支えるという名目で、結局、そこに人間の師弟関係、支配関係が作られて行き、互いに人間関係の中に信者を拘束し合うようになる。そんなものは、エクレシアとは程遠い、本末転倒な結果であるようにしか見えなかった。

そこで、筆者は考える、本来、あるべきエクレシアの状態はそれとは全く逆ではないのかと。つまり、そのようにして有望な信徒や交わりを探し求めて歩き続けること自体が、「この山」や「エルサレム」での礼拝を探し求めることと同義であり、それに対して、神はあくまで「霊と真理による礼拝」を、今ここに、信じる者の只中に、見えない形で実現して下さるように思われてならないのである。

だから、筆者は、エクレシアを追ってもうどこへも行かなくて良いのではないかと考えており、一切の「この山、エルサレム」への追求から離れることにした。あえて地上の「居場所」なるものを取り払い、見えない霊の中心として「今、ここ」を据えたのである。

確かに、心を一つにして祈り合える兄弟姉妹がいれば、それはそれで大きな恵みであろう。だが、目に見えるものに心を向けることの誘惑や危険も同じほど大きい。人に頼れば頼るほど、人が栄光をかすめ取るようになり、神が受けられる栄光が減って行くのである。

今、クリスチャンの信仰生活は、あたかも集団生活が基礎であるかのようにみなされているが、旧約の時代の預言者がどれほど一人孤独に神の御前に立ったろうか、新約になっても、使徒たちの働きは、必ずしも、他の信徒たちに理解されていただろうか、と思う。

だから、多く信者は、筆者の見解を、変人の見解と断定するかも知れないが、それでも、キリスト者の心は、まず第一に主に向けられ、第二にも、第三にも、主にのみ向けられるべきであると筆者は思わずにいられない。そして、信徒の交わりも、まず主と共に、信者の霊の内からこそ、始められるべきなのである。
 
これまで筆者は、神に向かってのみ願いを申し上げ、それを実現していただくということを、実際に何度も経験して来たが、その過程で、この世の物質や、金銭や、仕事や、人間を、信仰によって呼び出して来ることが可能であると知った。

すべての目に見えるものは、見えるものからできているのでなく、目に見えないもの(信仰、御言葉)から始まるのだと確信している。

従って、その法則を援用するならば、エクレシアもまた、行動からではなく、祈りから起こされるべきなのである。我々は既存の教会からはみ出た人々を訪ね歩いて、彼らの中に、我々の願望に役に立ってくれそうな「有望そう」な信者を探すのではなく、エクレシアは、今、現に目に見えているものから構築されるのではなく、祈りの只中から呼び出され、建設されるのだと信じるべきではないだろうか。

もし必要とあらば、信者は信仰によるキリストとの同労により、たとえ無からでも、神のみを熱心に慕い求め、燃えるような信仰によって迫害を潜り抜ける兄弟姉妹を呼び出し、信徒の交わりをも、実現できるのだと疑わない。
 
問題は、主イエスが疑問を投げかけられたように、今、地上に信仰が見られるかどうかさえも分からないほどの有様となっており、信仰に生きることを、ほとんどの信者が見失っていることである。彼らはアクションに明け暮れており、信仰の世界でも、マーケティングが功を奏すると思い込んでいる。この状況に一石を投じるためには、新たな祈りが必要であろう。
 
必要なのは、常に人数ではなく、動機の純粋さなのだ。今まで信者の間で当然視されて来たような、中途半端でいい加減で利己的な目的意識しか持たない、神のために何の犠牲も払いたくない、自分さえよければという群れから成る「信徒の交わり」はもはや必要なく、そんなものは沢山であろう。

今、必要なのは、この眠れる大群に何とかして目を覚ましてもらおうと各種の叱咤や励ましによって説得する工作ではないように思われてならない。それでは、ミイラ取りがミイラになって終わるだけで、木・草・わらのように無価値な材料をどんなに大量にかき集めて来ても、それは神の家の建造に役に立たない。

むしろ、必要なのは、バプテスマのヨハネのように世を罪に定め、人々を悔い改めにもたらす真に衝撃力を持った証であり、その呼びかけに応答して、苦難の只中で燃える炉によって精錬されるように、神の御前に信仰を練られ、本当に純粋で、本当に価値ある動機を持った新たな信徒の出現なのである。
 
阿蘇の渓谷
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