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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

愛は全てを完全に結ぶ帯

「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。 」(コロサイ3:14)

愛はちょうど水のようだ。ひたすら低い方へ向かって流れることを使命とし、欠けや穴ぼこを見つけると、それがどんな形であろうと、すぐさま、開いた隙間に入り込み、それを浸し、潤してしまう。

水が全ての穴を平らに満たすように、愛は、欠けを見つける度に、喜びに溢れてそこを満たす。でこぼこであろうと、とげとげであろうと、ぎざぎざであろうと、欠けを満たすことこそ、愛の最も得意とすることなのだ。

ぎざぎざやでこぼこは、人に最も嫌われるものだ。硬いものと硬いものとがぶつかると、より一層、欠けがひどくなる。だが、愛は、柔軟であり、目に見える形 がどんなに脅威的であろうとも、形に脅かされることがない。むしろ、人の恐れるどんな欠乏や貧しさに向かってでも、愛は、何の恐れも、ためらいもなく、喜 びに満ちて進みゆく。欠乏を満たすことは、愛にとって、この上ない喜びなのだ。

愛は全ての欠乏にぴたりとはまりこみ、全てのひび割れと溝にまで浸み通り、乾いた地を潤す。愛はぶつかり合うことがなく、ひび割れや溝をさえ、いたわりをもって満たすので、溝は愛によって傷つけられることがなく、また溝が愛を傷つけることもない。

私たち人間は、ぎざぎざとでこぼこを恐れ、隠しながら生きている。自分のぎざぎざが、乱暴な扱いによって、さらにぎざぎざにされることを嫌って、傷を医者 に診せることさえ嫌がっている。私たちは何とかして病人ではなく、完全な者として神と人との前に立ちたいのである。それが私たちのプライドである。だが主 は、全ての欠乏をいたわりを持って満たそうとして、溢れる愛を両手に、私たちが心を開いて、彼の患者となる時を待っておられる。私たちに必要なのは、主イ エスは私たちの欠乏を愛で満たすことができると信じる信仰、そして、自分は癒しを待っている病人であり、患者であると認める正直さだ。

愛の使命は満たすことであり、欠けた器の使命は満たされることである。私たちが、自分の心の欠けが、神の愛によって満たされる必要があることを正直に認 め、それを受けたいと率直に願い求め、彼の癒しの御手の下に、へりくだって自分を患者としさえするなら、私たちの心の欠乏は、満たされ、喜びに溢れた物語 へと変わり、もはや傷つけ、傷つけられるだけの悲劇の物語とはならないだろう。

主は人の心を取り扱うにあたって、驚異的なまでの憐みといたわりに満ちておられる。彼の手に負えない病はない。むしろ、私たちの欠乏や病や弱さが、主の愛 を受けるに必要な土壌となるのである。私たちの弱さが、私たちを主の御許に連れて行くのである。主のなさることの不思議さに、日々、言葉がない。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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