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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

主のうちに憩う

「・・・わたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」(ヨハネ17:26)。

日々、心を疲労させる様々な出来事を離れ、ただ主を思う時、不思議な安けさが心を訪れる。この静かな愛のうちに憩う、それ以外のことを今、知りたいとは思わない。

沢山の出来事が私の心を翻弄する。楽しい計画が心を惹きつけることもあれば、生活の苦労が心を苦しめたり、主を信じていると称する人たちの様々な行動が、 私の心をひっかき回すこともある。出来事が激しく私を揺さぶる時、私の心は弱いので、時に、錨のない船のように波にもまれる。

だが、喜びに心踊る時は長くは続かず、また、苦しみに悩むことも長くは続かない。悲劇的に悩むということが、どうにも、最近、難しくなった。少しばかり、 眠れない日が続いても、主が静かな安息で私を包んで下さるので、私の心はその出来事から自然に離れて行き、子供のように、ただ主の懐に休む。乳を飲む赤ん 坊のように、主にすがっていると、不思議と主は私の心に元気を回復して下さる。

人間関係も、もしも私さえ信じるならば、十字架の死の下に置かれることが分かった。そのため、悲しみや負い目と言った何か痛烈な感情や、もしくは誰かに対 する愛着を、心の中でずっと握りしめるということができなくなった。この世のどんな事物に対する愛着も、喜びも、悲しみも、怒りも、苦しみも、責任感も、 私をとらえ続けることはできない。この世の全てのものが、水の下に沈み、ただ主と私だけが、その死を経過して出て来る時、私の手の中には、もう何もない。

その時、主の愛以外のものは、私の心に残らない。この愛の中に、全ての物事が正常に配置される。そこには、死を経て生かされた聖徒たちの姿もある。以前に はあれほど私の心を悩ませた全ての現象や存在が、今は全て私に対して死んでおり、ただ主の御旨の中にあって、調和が取れて、穏やかで、美しい。

神のなさることは全て時にかなって美しい。穏やかな平安の中で、主のうちに憩う。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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