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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

杯が溢れた分だけ

不思議なことに、今、私は、かつて置き去りにして打ち捨てて来たはずの教会生活へ、再び、導かれている。それはかつての教会生活と同じものではなく、神の命の中での御身体の一致である。


御身体の一致の中で、クリスチャンの命が豊かな供給を受けられることを、主は私に確認させて下さっている。ただ神の御前の単独者として生きるだけでは十分 でない。御身体の一致の中で整えられ、栄養を補給され、訓練されることが、私にはどれほど必要であるか。誰からも何の強制もされない、思いのままに振舞え る信仰生活は、気楽であるかも知れないが、その生活は、御身体の一部として霊の建造物に立て上げられ、神の命の「一つ」の中で生かされるためには、まった く不十分である。

御言葉なる主イエスご自身から、私たちは朽ちない命のパンの供給を受けられると同時に、その命を、御身体全体を通して共有することができる。キリストの裂 かれた身体としての兄弟姉妹と、神の同じ命を共有することから得られる恵みを、きっと私はまだ少ししか知らないのだろう。

最近、とても感謝なことに、主が私をとても細やかに面倒をみて下さっていることを、至る所で、感じさせられている。まるでお気に入りの花を育てている人 が、毎日、鉢植えのそばにやってきては、その成長を見て喜び、枯れた葉や、害虫を丹念に取り除き、やがて花開く時を待ち焦がれながら、その世話に喜びを見 出すように、主は日々、私を整え、飾って下さり、そして、ご自分で飾られた私の姿を見て、喜んで下さる。

だが、恵みを受けると同時に、ある誘惑が私にやってきた。主からの恵みを受ければ受けるほど、それを人に分かち与えたい衝動に私は駆られたのである。私の 心の内に蒔かれた愛が、他人にも同じ恵みを受け取ってほしいと主張せずにいられなかった。だが、もしこのことについて、兄弟姉妹からの忠告を受けることな く、自分ひとりで何かをしようとしていたならば、私はきっと大きな危険の中に落ち込んでいただろう。

クリスチャンがひとたび神の愛で満たされ、主からの絶え間ない恵みの中で生きはじめ、貧しい者たち、弱い者たち、困っている者たちに主の愛を示したいと強 く願いはじめるならば、危険がすぐさま彼を待ち受けている。かつて孤独のうちに閉じこもっていた間には、発生しなかった危険が、新たに発生する。それは、 私たちが、神の愛によってではなく、自分自身から出てくる、十字架の死を経ていない、魂の愛によって、弱者を愛し、自らの力で相手を救済しようとして、卑 しめられ、傷ついた相手に同形化し、自分を犠牲にすることによって、偽りの愛による、破滅へ至る関わりへと落ち込んでいく危険性である。

新約聖書には、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえ話がある。10人のうち5人の乙女は、花婿なる主の来られる時に備えて十分な油を用意していなかった。だが、 油を用意していた他の5人の花嫁も、彼女らに自分の油を分けてやることはできなかった。油(聖霊)は、人がただ神ご自身のみから直接いただくことができる ものであり、決して、人から人へと分け与えることのできるものではない。

古い皮袋を使って新しい皮袋につぎあてすることはできない。そんなことをしようとするならば、皮袋は引き裂かれ、ぶどう酒も、袋も、台無しになってしまう。

だが、私たちはそのことを忘れがちである。私たちは、主によって、物乞いの衣装を捨てて、尊い王族の衣装を着せてもらった。ところが、私たちは時に、魂か ら出てくる同情や、強い憐れみや、愛の思いから、主が自分に与えて下さった聖なる衣装を引き裂いてでも、それを貧しい人たちに分け与え、自分の手で卑しめ られた人々を引き上げ、王族の衣装を着せてやりたいという誤った願いを持つことがある。

しかし、卑しめられ、貶められたラザロに王族の衣装を着せてやれるのは、主ただお一人である。どんなに私たちが弱い者たちを憐れんでも、私たちには彼らを 泥の中から引き上げることはできない。神の愛は、人間による救済とは無縁である。にも関わらず、それを忘れて、私たちが彼らのために自分を投げ出し、自分 を犠牲に捧げて彼らに同形化することによって、救済しようと試みるならば、そのような魂の愛は、私たちの人生を狂わせ、自分をも相手をも滅ぼし、主がお与 え下さった恵みの全てを台無しにする関わりへと至るだろう。

ある姉妹が私にこのような内容の忠告をして下さった。

「あなたは誰かを愛すれば、一途に愛するタイプの人かも知れません。けれども、たとえどんな人であろうとも、どれだけ相手を愛したとしても、この先、あな たは決して、自分の杯が空になるまで、その人に自分を注ぎだしてはなりません。ただ、杯があふれた分だけ、あなたの愛を与えなさい。

自分のすべてを捨て去ってでも、相手に同形化しようとすることが、真の愛なのであはりません。傷つき、卑しめられた人々に同情するあまり、彼らと同じさまにまで落ちぶれ、同じ苦しみを担うことで、相手を救おうと思ってはなりません。

卑しめられた人と同じさまにまで卑しめられた姿になることにより、人に愛をお示しになられた方は、ただお一人なのです。もしもあなたが、自分を犠牲にする ことにより、自分の手によって誰かを救おうと思うなら、必ず、それは痛ましい失敗に終わります。もし今度失敗すれば、あなたはもう立ち直れないかもしれま せん。全てを与えつくして裏切られ、全てを失った時、残りの人生を、あなたは世捨て人以下の状態ですごさなければならなくなるかも知れません。だから、主 があなたの杯を満たして下さり、杯があふれた分だけ、人に分け与えなさい。自分の杯が空っぽになるまで、相手のために自分の全てを注ぎだしてはいけませ ん」

そんなことがあって、私はここ最近に起こった自分の大きな誤りの原因が、何であったかを、ようやく悟った。高度な教えや、兄弟姉妹の見える交わりに満足を 見出しすぎたことが、私が主の臨在から離れてしまった原因であると思っていた。だが、私が神の霊なる命の中から、偽りの命へと誘い出されたその最初のきっ かけは、私の強い憐憫の情にあったのである。

苦しい状況にあったクリスチャンの知人を憐れむあまり、私はその人の苦しみを何とかして共に担えないだろうかと願った。やがて、それはいつの間にか、その 人に自分を同形化しようとする願いになった。そして、私はその人の持っていた全ての教えと考えを自分に吸収し、その人と同じ理解に達し、その人と同じさま になろうとしたのである。いつの間にか、キリストに同形化するのでなく、人に同形化することを、私は考えるようになった。そしてその交わりは、裏切りと失 望に終わってしまった。

十字架の死を経ていない愛、魂からの愛は、人を決して生かすことはない。傷ついた者を真に包んでやれるのは主の愛だけである。与えても、与えても尽きない のはただ神の愛だけであり、私たち人間の魂から出てくる愛は、代償なしには続かないのである。十字架なしの、魂の愛による関わりは、相手の弱さを憐れんで やるようにみせかけて、かえって弱さを助長する。この偽りの愛による関係は、相手を救うように見せかけて、相手を支配しようとする。それはやがて互いに全 てを求め合って満足せず、互いにしがみつき、互いに食い合い、全力で相手を所有し、支配しようとする腐りきった関わりの正体を表す。自分を与えつくして裏 切られ、踏みにじられ、引き裂かれ魂には、ただ終わらない痛みと、叫びと、恨みと、憎しみと、絶望が残るきりである。

私たちは他人を愛するときに、相手と同じさまとなり、同じ苦しみを担い、同じように低められることを願うかも知れない。しかし、私たちが真に同形化してよ い相手は、キリストだけである。私たちはすでに神にのみ捧げられた聖なる神殿であり、私たちの所有者は神である。私たちはキリスト以外の何者にも自分を捧 げる余地は残されていない。

神の愛と魂の愛とは異なる。神の愛は時に、人間から見ると、とても厳しいものに思われる瞬間がある。人の愛は、人間が本当の限界点に達して神を求めようと する前に、相手を自力で救済してしまおうとする。しかし、父なる神は、放蕩息子が自らの力の限界にいたりついて、自分の足で父の許へ戻ってくるまで、じっ と彼を待ち続けた。彼に助けの手を差し伸べなかった。そのようにして彼を待ち続けることは、父にとっては、きっと、とても苦しいことであったに違いない。

私たちの魂の愛は、愛する対象が苦しむことを願わない。私たちの目は、愛する人の苦しみを見ることに耐えられない。愛する人が傷つく前に、自分の全てを やってでも、その苦しみから助け出してやりたいと思う。しかし、それは一見、相手のためであるように見えて、真の救済とは程遠いものである。そこにあるの は、本当は、私たち自身が苦しみたくないという願望である。父なる神のご計画は、私たちのそのような限界に満ちた思いをはるかに超えて高い。

神は、私たちが魂の愛を十字架で死に渡す時、この偽りの愛によってではなく、尽きることのない神の愛によって、人を愛することを可能にして下さる。ただ し、神の愛によって人を愛するためには、私たち自身が、いつも、神の臨在の中にとどまり、神の愛に満たされ続けていなければならない。私たちは、自分の水 貯めを手放して、空になるまで人にやってしまってはいけない。自分の油を最後まで人に分け与えてはいけない。主がお与え下さった新しい皮袋を、古い皮袋に つぎあてしてはいけない。神の新しい命を、古き命と混ぜ合わせ、自分がいただいた子羊の血によって清められた王族の衣装を引き裂いて、他人に着せてやろう としてはいけない。

私たちは自分が主から与えられた恵みを大切にし、全ての良きものの供給者は、私たちではなく、ただ神お一人であることを忘れないようにしたい。私たち自身 が、絶えず全ての全てであられるキリストのうちにとどまり、人間関係も、魂の愛も、日々、十字架の死へと渡し、主からの命の供給を絶えず受けて、喜びのう ちに生かされて初めて、私たちは尽きることのない神の愛を隣人にも示し、主の愛によって、他人を愛することができる。キリストの愛のうちにとどまりたい。
 

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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