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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

御父の愛

「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。」
(詩篇27:10)
「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。」(詩篇103:13)


教会の座席生活を離れて、久々に我が家に戻って来た。慣れない雑魚寝だったため、帰るなり爆睡。そして、たまった家事をこなす。早天祈祷会、夜の祈り会…、教会で過ごした時間は、いずれも御言葉の学びに満ちた、有意義なひと時であった。

だが、これは夏季学校のような、ひと時の楽しみである。この先、私は世に出て行き、世の人々の内で、クリスチャンとしての光をともす生活をしなければなら ない。ある人は、私が関東に引っ越して来た時、私の性格では、この先、ホームレスになるしかないのではないかと、真に心配したという。本当にそうなのかも 知れない。それほどまでに、私には世渡りの才覚が無く、生きる力が乏しい。しかし、そんな弱い私だからこそ、そこに、主の大能の御力が働く余地が溢れてい るのだと信じている。一人では到底生きていけない、脆い土の器であればこそ、まさにそれを選んで、主はご自身の栄光を表す器とされたのだ。だから、恐れは ない。

たとえ世の中の情勢がどれほど不安定になり、争いが近づいてきたとしても、動かない岩なるお方の上に立っている者の心は平安である。早く仕事が与えられ、 完全に自立した、誰に対しても、恥じることのない、一人前の生活を送りたいと心から願っているし、私たちに「手ずから働きなさい」と教えて下さる主は、世 がいかなる状況にあろうとも、この健やかな自立を、信じる者にただちに可能として下さると強く信じている。

昨夜、遠方の友と電話でお交わりをした。友は言った、かつて私からの電話を待っているときは、ドキドキしたものだが、今は安心して電話できると。そうなの だ、私たちは互いに、かつては近づくことさえできないほどに恐れにとらわれていた。だが、主は、こんなにも性格の離れた、共通点もほとんどない、欠点の多 い、遠く離れた私たちを、不思議な運びで、御身体の一つの中に結び合わせて下さり、互いに重荷を担い合い、互いに喜びを分かち合い、互いに欠けたところを 補い合う者へと変えて下さった。まだ私が会ったことのない他の姉妹たちとも、すでに御身体の一つの中にいるのだと信じている。ふさわしいときに、顔と顔を 合わせての交わりを主が与えて下さることを願う。

今はただ神の愛の中で、全ての重荷を下ろし、主が与えて下さった兄弟姉妹への愛の中で憩う。このように友を通じて隣人への愛の何たるかを教えて下さった主 に、感謝は尽きない。だが、現在のような幸いな交わりに至りつくまで、私には、実に長い孤独な行程が必要であった。私の心の中にあった人への執着心、しが みつきがふっきれるために、主はあえて、そのような期間を設けられたのではないかと思う。人に対する浅はかな期待は、私の中で根こそぎ死ななければならな かったし、また、この先も、日々、死ななければならない。人の魂から出て来る諸々の腐敗に落ち込まないためには、兄弟姉妹の交わりも、日々、十字架の死に 渡すことが必要である。

ああ、主の恵みと憐れみは何と深いのだろう。放蕩息子(娘)のように反抗を繰り返し、主に背いて生きて来た私であっても、自分の愚かさと過ちを告白し、 誤った計画を全て手放して、本心から、主に立ち戻る時、御父は何という大きな愛をもって、私を迎えて下さるのだろう。彼は待ち構えていたように駆け寄って 来て、泥だらけになった私を抱きしめて下さる。失敗の痛みは大きかったが、父なる神の愛と憐みで包まれる幸せは、もっと大きい。だから、過去を振り返って 嘆く必要は全くないし、自分を恥じる必要もない。毎日、御父が私に新しい衣装を着せて下さり、新しい食べ物を与えて下さるのを、私は待ち望んでいる。私た ちの父なる神は、信じる子供たちに、常に新しい恵みを備えて下さり、思いも浮かばないほどの祝福を授けて下さり、子供たちを常に安全のうちに守って下さる ことを疑わない。この天の父に心から信頼し、これからも、御父の懐の中に隠れながら、平安のうちに生きていきます。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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