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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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神の御言葉に逆らう者の永遠の滅びと、すべてにまさるキリストの御名

このブログは、「東洋からの風の便りⅡ」がネトウヨのようなカルト被害者陣営からバッシングを受けた後に書き始めたものである(彼らの犯した罪は神の聖霊に対する冒涜として永遠に残り、神の怒りと裁きの対象となる)。

その事件のために、筆者はこのブログに何を書くべきか、しばらく考えていたが、今やその事件が信者にキリストの復活の証を失わせるための、暗闇の勢力による激しい妨害であることが理解できるため、筆者は今、こうした妨害にも立ち向かう強度を持つ天的な力強い衝撃力を持った証を取り返し、また、目に見える人間ではなく、よりキリストだけに栄光が帰されるように、当ブログを記事を御言葉によって補強しているところである。
 
カルト被害者救済活動の支持者たちは、あたかも筆者が「被害者を冒涜した」かのように非難していたが、その実、彼らは御言葉に従わない不信仰で罪深い人間の利益を擁護することと引き換えに、十字架の死を通られ、復活された、永遠に神のみ前に義と認められたキリストの御言葉と御霊の証を退けることにより、聖霊を冒涜し、神と人の前に永遠に赦されない罪を犯したのである。実際、彼らのバッシングがどれほど苛烈を極めたもので、一線をはるかに越えていたかは、当初から信仰を持たない世人でさえ指摘していた。カルト被害者でさえ抗議していたし、まして、筆者の周囲の信者たちは猛烈に抗議したのである。しかし、彼らはターゲットとなる信者の範囲を広げ、信者の交わりを引き裂くことにより、数多くの信者たちの証を失わせ、吠えたけるししのように振る舞った。筆者の周りでこの妨害に立ち向かって証を書き続けている信者はもう見当たらない。みな彼らが迫害によって追い詰め、食いちぎったからである。これは現代における皇帝ネロの霊を持った人間たちによるクリスチャンへの大迫害であり、神は彼らに報復されるであろう。
 
だが、以上のようなバッシングは、信者に恐怖感を抱かせることにより、信者を天的な高さから地に引きずりおろし、霊的な証と恵みを失わせ、信者をあたかも信仰を持たない「ただの人」のように生きさせるためにしかけられた策略であることが筆者にはよく分かるため、むなしい脅しに屈するつもりはなく、その妨害に対しては、筆者は「ただの人」ではなく、あくまで「上から生まれた新しい人」、すなわち「キリストの復活の証人」として、子羊の血潮と証の言葉により、立ち向かうのみである。だから、今ここで記事を補強しているのは、天的な高さからキリストの復活の証を発信するためであり、暗闇の勢力の主張する正義なるものが、罪深い人間のよりすがるぼろ切れに過ぎず、何の力もないものであることを証明し、そのようなむなしいものと引き換えに神の永遠の救いを退けることが神のみ前にどれほど大きな罪であるかを指摘し、堕落した地と暗闇の勢力に対して御名の権威を持って、罪の宣告と裁きを予告し、御言葉に従うよう命ずるためである。
 
繰り返して言うが、クリスチャンを名乗りながら、同胞であるはずの信者を裏切り、聖徒らを迫害し、売り渡し、交わりを破壊し、御霊による証を冒涜した彼らは、神と聖徒らの前に永遠に赦されない罪を犯したのであるから、彼らには悔い改めるチャンスはもうないであろう。実際、筆者自身も忍耐の限りを持って、彼らに常軌を逸した迫害をやめて信仰に立ち返るよう呼びかけたが、それも効果なく、神は彼らの心をあのパリサイ人•律法学者にも劣らず、より一層、曲がって、頑ななものとされた。それは神がされたことなのである。
 
聖書にははっきりと「赦されない罪」が存在することが記されており、それが御霊を冒涜する罪である。私はキリストの御名の権威に基づき、彼らの所業は永遠に赦されない罪であることをここにはっきり宣告しておく。筆者自身は人間に過ぎないので、たとえ肉なる人間としての筆者を侮辱しても、それは永遠に赦されない罪とはならないが、筆者の証が御霊によって書かれたものである以上、これを冒涜して退けた者は、筆者に対して罪を犯したのではなく、神に対して罪を犯したのである。彼らはキリストの血潮と証の言葉を、滅びゆく不信仰な人間の利益のために踏みにじり、退けたのであるから、彼らは自ら神の救いを否定して自分を救いから切り離し、なおかつ、御霊を冒涜したのであり、彼らのための神の憐れみはもう残っておらず、その罪は永遠に赦されることはない。

さて、ネトウヨのような迫害者については、以上の宣告で十分であるから、本題に入りたい。クリスチャンとは、よく知られている通り、キリストの復活の証人である。このことの意味をよく考えてみたい。

まず、キリストの死と復活とは、もう二千年以上も前に、我々が生まれてもいなかった時代に起きた事実である。我々はそれをこの目で見たわけでもなく、キリストご自身とお会いしたわけでもないのに、その知りもしないはずの出来事を、まるで見て来たことのように、固く心に信じている。それだけでも不思議なことである。

我々はペテロやパウロと同世代人でないので、キリストの歩まれた人生は、我々の人生とは直接何の関係もない。キリストの人生と我々の人生の接点は、地上にはなく、ただ信仰だけによるのである。

それにも関わらず、キリストの復活の証人であることは、我々の人生そのものを全く根本から塗り変えてしまうほどに衝撃的な意味を持っている。

我々は、キリストに出会って以降、自分自身と自分の人生の証人である以前に、キリストの復活の証人となった。私たちは、もはや自分が何者であるかという事実に立脚して生きておらず、キリストの復活の証人であることが、我々のアイデンティティなのである。

これは考えられないような出来事である。一体、自分の目で見たわけでもない出来事、出会ったこともない人間の生き様によって、我々の人生が根本から変えられるということが、なぜ起きうるのか。さらに、それは単なる人間ではなく、神の貴い独り子であり、贖いの小羊なる方なのである。そして、ただ単にそれを信じたことによって我々の人生が変化したというだけでなく、我々が何者であるかという事実さえ、それによって根本から変わってしまったのである。

この世においては、筆者にも肉の父母があり、先祖代々から受け継いだ名前があり、故郷がある。「あれはナザレのイエスではないか」と主イエスが地上で揶揄され、軽んじられたように、この世の出自においては、筆者もただのありふれた人間に過ぎない。

ところが、そのただのありふれた死すべき人間が、キリストに出会ったことにより、「復活の証人」へと変えられる。ただキリストの復活の証人であるだけでない。私自身もキリストと共に死んでよみがえったのだから、それは私の復活のことでもあるのだ。自分自身が実際に死んで、復活したわけでもないのに、キリストを通して、自分も死を経て復活したことを信じている。これもまた考えられない不思議である。
 
我々が宣べ伝えているのは、死を打ち破られたキリストの勝利であると同時に、それはすなわち、我々の死に対する勝利でもある。カルバリのキリストと私が一つであるがゆえに、もはや死は人類を脅かすことはできないと、私たちは高らかに証言しているのである。

凡庸な個性の持ち主であり、どこにでもいるありふれた死すべき未熟な人間の一人、あるいは、世からはどちらかと言えば嫌われ者・はみ出し者に過ぎない筆者が、キリストの死と復活を介して、キリストと同じように、キリストの命によって、天から生まれた一人の新しい人となる。

同じように、弱々しくされていた信者たちが、御言葉によって奮い立たされて、力強く立ち上がる。もはや我々は、世から迫害されて追い詰められるだけの弱々しい人間としてではなく、世に対して力強く罪の宣告を突きつけ、世に勝つ者として、悪魔の支配する世全体に対峙するのである。

それは下から生まれた有限な人間とは全く違ったアイデンティティであり、なおかつ、アダムの命に属する一人の死すべき人間をはるかに超えた、はかりしれない権威に基づく新しい人である。

信仰者のブログは、本来、このように、主の御名によって、上からの承認によって始められ、続けられなければならないものであった。文学的修辞など問題ではなく、肝心なのは、信仰の証を書いている人が、天にいるのか、それとも地にいるのかという霊的事実である。天に立っていなければ、信者の証は力を持たない。

筆者の証を支えているのは、ペンテコステの日に上から下った御霊の承認である。もしこのブログがただヴィオロンの名のもとに書かれているだけであれば、それは単なるありふれた趣味に過ぎず、暗闇の勢力から攻撃されて駆逐されても、人類にとって何の損失にもならず、神も痛手を受けられることはないであろう。

だが、これは、ヴィオロンというありふれた人物が、どうでも良い個人的な人生の出来事を単なる趣味として書き綴っているのではなく、これはキリストの御名のもとに、キリストの復活を宣べ伝えるために書かれている証なのである。
 
ある時点を境に、ヴィオロンという一人の有限な人間は死によって消え、その人間が、信仰によってキリストと一体化して新しく生まれた、そして、今、キリストにある新しい人だけが残っている。何千年も前に地上を生きた一人の人――神の生ける御子キリスト――が、時空間を超えて、ヴィオロンという人間の中に信仰を通じて入りこみ、死と復活により、ヴィオロンと一つとなって内に住まわれた。それによって、今、ここに生きているヴィオロンという有限なる一人の個性は、キリストに飲み込まれて消えたのである。あたかも、ここにいるのは筆者だけであるように見えて、そこに生きておられるのはキリストなのである。
 
そういうことは、人間の頭脳で理解することはできない現象だが、悪魔にとっては、決してあってはならない事実である。なぜなら、下から生まれた出自だけであれば、人間は誰しも死に打ち勝つ力を持たないので、罪の奴隷であり、地上においてあらゆる圧迫に翻弄され、苦しめられるだけの悪魔の所有物のままである。

だが、キリストの死と復活と一つになった人間は、もはや悪魔の奴隷ではなく、死によって脅かされる理由もなければ、悪魔と暗闇の勢力のなすがままに翻弄されなければならない理由も存在しない。むしろ、悪魔と暗闇の軍勢の方が、彼によって罪に定められ、駆逐される側に回るのである。

だからこそ、そのようなキリストと一つに結合した新しい人間の出現は、暗闇の勢力全体にとって重大な脅威であり、そのような人間が述べる信仰の証は、彼らにとっては、まさに歯ぎしりして消し去りたいほどの衝撃的な内容なのである。何しろ、そのような例外がありうることを、世の中に大胆に知らしめられると、悪魔の監獄全体が根底から揺り動かされて崩れるからである。

さて、この記事を書いている間に、ある企業から連絡が入った。この世の経済体系からはいつかエクソダスせねばならないという予感を筆者は抱いて来たのだが、マモンの経済体系から本格的に脱出する前に、どうしてもまだせねばならない準備が残っている。

筆者は、年々、絶望的な様相を呈する我が国に愛想を尽かし、かつてはロシアに逃亡しようと試みていたが、その考えを改めて、ロシアを「今、ここ」に呼んで来ることにした。我が国にいながら、国外亡命しているような、そんな不思議な状態を作り出すつもりなのであるが、その試みが、一歩進んだ。
 
ヴィオロンの履歴書は、すでに相当長くなっている。一般に、履歴書が長いのは、良いことではなく、通常であれば、一目見ただけで眩暈がして来て、弱気になるだろう。これでは生きていられるだけマシだから、すべての夢をあきらめるしかない、などと結論づけそうになるのではないだろうか。

むろん、これは一つの比喩である。ここで言う履歴書とは、アダムの出自が意味するすべてのものであって、人は地上の下からの出自によっては、たとえ逆立ちしたところで、大したものは手に入れることはできない。どんなに優れた能力があり、どんなに立派な経歴のある人間も、自分の力でもがいて行き着くことのできる場所はたかが知れており、結局、その先に待っているのは、死だけなのだ。

それにも関わらず、その地上の出自においてさえ、それほど恵まれているとは言い難い人間が、自分の願いにこだわって生きているのであるから、信仰を持たない世人なら言うであろう、「えり好みをしていては、あなたに明日はありませんよ。妥協することが、生き残る道です」と。

世人であれば、自分の地上の出自に鑑みて、それに見合った将来しか、手に入れることはできない。世に悪徳ブラック企業ばかりがはびこるようになれば、我慢してそれに合わせるしかない。我が国が経済不況のどん底に突入したり、戦争に突入しても、それと手を携えて心中するしかない。そう考えるのが当然である。

だが、筆者はこれまで自分の地上の履歴に従って歩んでこなかった。堕落した罪人であり、死すべき人間の一人に過ぎないアダムの名によっては、筆者は歩んで来なかったのである。

筆者のよりどころは、あくまで「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって」歩むことにあり、信仰者にとって唯一の救い主であり、唯一の助け主、唯一の真の伴侶である主イエスの御名の権威によって生きることである。この御名によりすがる時、およそ自分自身の能力や、人の地上の出自によっては、到底、達成不可能と思われる事柄が全て整えられ、生きるために必要なすべてが、その都度、天から信仰によって供給され、地上に引き下ろされる。

神の国とその義とをまず第一に求めれば、すべてのものが添えて与えられる。神が必要を備えて下さるのだから、悪魔と取引する必要はない。そのような歩みが実際に可能であることを、筆者は生きて一歩、一歩、確かめて来た。

人を生かすことができる権威を持っているのは、ただ一つの御名だけである。そして、その名は、信じる者と一つである。神は、信じる者を生かすために、いや、ただ単に生かすだけでなく、豊かに命を与えるために、独り子を地上に送られた。そうである以上、神はご自分だけに頼る人間を、あらゆる恵みによって祝福して下さり、ご自分の子を永遠に守られ、決して見捨てられることはない。

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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