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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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一番小さい者こそ一番大きい

「弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、

『だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。」(ルカ9:46-48)


悲しいことがあったとき、子供たちのそばにいると、どれほど深い慰めを受けられることだろう。これは私自身が精神的に子供だからと言われても仕方がない が、時々、私には、大人たちの中にいることが耐え難い苦痛となる。なぜこれほどまでに大人たちは素直に心のままを語らないのだろうか? なぜこれほどまで に彼らの心は見えにくく、さまざまなバリケードで覆われていて、彼らの言葉は不正直で、そのかかわりはまるで薄氷を踏むように、気苦労なしには成り立たな いのだろうか?

それに引き換え、子供たちの間では、余計な言葉は一つも要らない。子供たちが好きなことをただ一緒にして遊ぶだけで良い。時間と手間を一心に割いて、彼ら のためだけに向き合えばそれで良い。難しい形式は要らないし、講釈も要らない。私の心が何よりも恐れ、忌み嫌っている、聖書を持ち出してのあの残酷なお説 教や、裁き合いが始まる危険性もない。

子供たちと共にいて嬉しいのは、私がそばにいるだけで、彼らが正直に好意を表してくれることだ。その喜びが、愛が、私の心に自然に触れて、私の心を開か せ、主の恵みを運んでくれる。そして、何より驚くべきことは、私が口にしてもいない悲しみや苦労を、彼らが巧みに感じ取って、可能な限り、慰めを与えよう として骨折ってくれることだ。

そうなのだ、彼らは知っているのだ、私の心の内を。誰にも見せられない、私の涙を。私が彼らのところに避難場所を見出さざるを得ないその事情を、彼らなり に、限られた知識の中で、十分によく理解しているのだ。そして、何も聞かずに、喜んで私を受け入れてくれる。しかも、私の保護者となり、盾となってくれ る。

少し前に、ホームレス伝道について知る目的で、ある町へ行ったが、路傍で出会った元ホームレス(?)のおじさんが、かえって、自分が受け取るはずだった無 料の給食を、喜んで空腹の私に分かち与えてくれた。彼は自分の親切が私の役に立ったので、本当に嬉しそうであった。そして、私をやくざ者から守るために ずっと横に立っていてくれ、私を慰めようとして言った、おれも大変だが、あんたもきっと大変だろう、でも、イエス様を信じれば、必ず良いことがあるよと。

その日、私はホームレス伝道を観察に行ったというのに、元ホームレス(?)から惜しみない恵みを施されて帰って来た。これでは、まるで逆ではないかと批判 されておかしくない。ところが、そのなけなしの親切が、その日、一日、何と私の心に沁みて、私の満足となり、支えとなっただろう。

その時と同じように、いたいけな子供たちが、何も言っていない先から、私を助けようとしてくれるのはなぜなのだろうか。私から助けを受け取るべき、か弱い 存在が、むしろ、私の心を新たな悲しみから守ろうとして、喜んで、騎士となって立ち上がってくれるのはなぜなのか。こんな不思議な逆転現象がなぜ起こるの だろうか。

自分よりも弱い者たちと接しているときに、私は彼らから大いにパワーチャージを受ける。私は富んでいるはずなのに、現実には、彼らよりも貧しい者、弱い者 として、彼らから助けを受け取っている。彼らは貧しさと弱さの中から、溢れるほどの贈り物を人に届ける術を知っている。どこからそんな優しさといたわりが 自然に生まれるのだろうか。

真に弱い者たちは、他人の心に秘められた言い知れない痛みや、苦しみや、悲しみの存在に敏感である。彼らは、人を助けてやるという態度を一切見せない。言 外のうちに、傷ついた人を識別し、無言のうちに、彼ら一流の方法で、精一杯の優しさを提供しようとする。私の心に何があろうと、彼らは一言も、それについ て聞かないし、とやかく言わない。だが、自分たちが弱さを知っているがゆえに、他人の弱さを傷つけずに、かばう術を知っている。出会った喜びを、素直に表 し、平和を作り出すために骨折ってくれる。

最近、ひょんなことから、韓国人の青年にも知り合ったが、日本人の青年たちの中では滅多にお目にかかれないほど、澄んだ目をしていた。眼差しだけでなく、 言葉にも、表情にも、皮肉な態度は一切なく、柔らかさと、正直さと、清らかさがあった。初めは言葉が通じないと思って接触を避けていたのだが、意思疎通さ せて下さるように主に祈ると、彼は日本語が話せることが判明した。彼の用事のために、夜っぴてネットに向かって共に検索していたときの、何と楽しかったこ とよ!

心の清い若者たちには、恐れがない。彼らは傷ついた人や、弱い者を見ても、ひるまない。それどころか、平和の親善大使として活躍できる機会があれば、それ はもう大喜びだ。だから、青年たち、子供たちと共にいる時が、私にはとても楽だ。それは、私が嘘をつかずに済むからだ。余計な気を遣って、思ってもみない お世辞を口にせずに済むからだ。調子を合わせようとして、へとへとになるまで取り繕わずに済むからだ。罪定めされることを恐れて、背丈以上に義人を装う必 要もないからだ。また、彼らに余計な気を遣わせることもないからだ。

子供たちだけでない。この世で最も取るに足りない、小さき者たちとの接触は、どうしてか分からないが、私にとても自然な喜びを届けてくれる。どんなに私が 弱り果てていても、彼らは私の心をいたわって、新たな喜びを届けてくれる。それは彼らが私より弱いからこそ、できることなのだ。弱くされ、砕かれることの 意義は、ここにあるのだろうと思わされる。彼らが私と共にいることを素直に喜んでくれるのと同じように、私も彼らと共にいることを喜ぶ。

最近、複数の人たちから次のような言葉をいただいた、「目いっぱい傷ついて来た人だからこそ、他人の傷をいたわることができるのですよ。今はまだ受けるだ けしかできないかも知れませんが、そのうちまもなく、与えられるようになります。自分が受けた苦しみの深さゆえに、あなたは他人の苦しみをも、きっと必 ず、豊かに覆うことができるようになりますよ…」

もちろん、私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われているのであって、年齢が幼いから、あるいは貧しいから、苦難に遭っているから、心が 清いわけではない。が、それにしても、小さき者たちの示してくれる偽りのない喜びと、何の不自然さもない憐みと、いたわりが、何と私の心を和らげ、豊かに してくれることだろう。小さな小さな平和の大使よ、あなたたちを通しても、私は主の恵みが私に対して十分であることを知ることができる。

「するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、『幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、 止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは 決してできない』。 」(ルカ18:16-17)
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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