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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

結婚を尊ぶ

クリスチャンが陥りやすい危険性は、御言葉を自分勝手に利用すること、御霊の導きから離れて、自分の思いに従って、御言葉を用い、自分の肉の欲望を正当化したり、自分の立場を有利にするために御言葉を用いることです。肉の行いを十字架で死に渡すために御言葉に立つのでなく、かえって、肉の行いの忌まわしさを 覆い隠し、悔い改めを拒んで自己義認し、肉を増長させるめに、御言葉を利用するという誘惑が、クリスチャンには往々にしてやって来るのです。

神は時にかなって、今までに罪と意識しなかったことを、改めて私たちに罪と気づくように仕向けることがあります。そのために、兄弟姉妹の口を通して、主が警告を送られることがあります。そのことは聖書が禁じていることではありません。

「実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。 」(エペソ5:11)
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。」(ヤコブ5:19-20)


時には、私たち自身が警告を受けることがあります。その時は、用心深くなり、光なるお方の御前に進み出て、自分のうちに傷ついた道がないかどうか、調べて いただきましょう。愚かな失敗に落ち込んで、多くの人をつまずかせ、全被造物の前に恥をさらけ出す前に、神が私たちに何を教えておられるのか、聞く耳を持 つ者は幸いです。

私たちは皆、罪人であり、主によって取り扱われるべき弱さを沢山持っています。なのに、自己義認の思いで、心を頑なにし、へりくだりと柔軟さを失い、御霊 が送られた忠告や、叱責さえも、受け入れなくなって、自分は義とされ、聖とされたのだから、もはや何も改めるべき点などなく、人から罪定めされるいわれは 一切ないと思い込み、兄弟姉妹をつまずかせるような不義なる生活を、平気で正当化し、続けるようになってはなりません。

キリストは罪のない方でありましたが、罪とされて、あらゆる非難を身に負われました。まして、罪ある者である私たちは、兄弟姉妹から忠告を受けるとき、心 を頑なにし、それを全てサタンからのいわれのない叱責として退けるようであってはなりません。主の愛は、常に懲らしめを伴う愛であり、私たちを訓練されま す。

主は私たちを兄弟姉妹との交わりを通しても、訓練されます。ある人が、兄弟姉妹からの忠告に対して柔軟な態度を取れるかどうか、それとも、耳の痛い忠告は 全てサタンからの中傷と決めつけて退けてしまうのかどうかは、彼が本当に、主のへりくだりに立って生きているのかどうかを世に示す一つの重要な試金石でも あります。

私たちは、確かに子羊の贖いの血潮によって清められ、義とされましたが、罪の赦しは、人に自動的に与えられるものではありません。罪の赦しを受けるために は、私たちは神に対して、自分の犯した罪、過ちを正直に告白した上で、何よりも、罪なる生活を離れなければなりません。私たちは、自分の生活における不義 を他人から指摘されるとき、鋭敏な良心の感覚を持って応対すべきです。

私たちの心は依然として罪を慕うかも知れませんが、涙を流し、自分を打ちたたいてでも、つまずきを与える不義なる生活から離れる力を、主に向かって全力で 願い求めるべきです。そうすれば、主は必ず、キリスト・イエスの十字架の解放の力が、すでに私たちのものになっていることを、ある時点で、はっきりと見さ せて下さり、それによって、私たちが今まではどうやっても逃れることのできなかった罪の誘惑に対して、完全に死んだ者として下さいます。

「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(ガラテヤ5:24)

私たちが心から罪を憎み、罪なる生活から離れたいと願い求めさえするならば、主はキリストの十字架を私たちに適用して下さり、私たちを罪から具体的に実際的に解放し、肉の情と欲に対して死んだ者とし、私たちを自由にして下さいます。

しかし、そのためには、私たちが今まで自分を甘やかし、他人のつまずきの源となって来た生活を手放す決意をしなければなりません。もしも罪を告白したと言 いながら、ある人が不義なる生活を一向に改めずに続け、さらに、その行いによって多くの兄弟姉妹をつまずかせ、悪しき模範となるならば、その人の内に悔い 改めはなく、神の義はありません。罪なる生活を続けながら、私たちはキリストと共に生きることはできませんし、サタンに勝利した、サタンを足の下に踏みし だいたと言うこともできません。

話が変わるようですが、教会を判断する際に、信徒は何を基準に判断すれば良いでしょうか? 色々な判断基準がありますが、最も聖書に合致しているのは、行 いの結ぶ実を見て判断することです。その実の中に、挙げられるものは色々あるでしょうが、私のこれまでの経験から、的確な判断基準として勧められるもの は、特に教える者たち、そして信徒の家庭生活が健全であるかどうか、彼らの家庭が偽りなく幸福であり、調和があるかどうかを見るという基準です。

もしかしたら、ある交わりでは奇跡が起こり、癒しが起こり、主の御力の大胆な現れがあるかも知れません。救われる人が増え、教えは素晴らしく、霊的で、深 みがあり、急成長を遂げているかも知れません。しかし、もしも信徒の家庭生活が正常でないならば、その教会は、その交わりは、何かが変なのです。異常化し た教会では、ほとんどの場合、信徒が自分の家庭を徹底的に犠牲にして奉仕にいそしんでいます。信徒は自分は正しい義務を遂行しているという間違ったおごり によって盲目となり、家庭に残される配偶者、子供たちがどんなにつらく寂しい思いをしているかに気づけなくなっています。しかし、もしも信徒の家庭が健や かでないならば、やがて、その悪しき実はもっと大きな形で教会に現れるでしょう。

「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。 」(ヘブル13:4)
「妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。」(Ⅰペテロ3:1-2)
「…彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言葉がそしりを受けないようになるであろう。」(テトス2:4)

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およ び、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。」(ガラテヤ 5:19-21)


家庭の問題を抱える人々には、いつも、それなりの言い分があります。その問題がどれほど解決困難であるか、理由を並べるならば、終わりなく 並べられるでしょう。しかし、私たちが自分の家庭を分裂状態の中に放置したままで、御国のために有用な働き人となるのが不可能であることは、言うまでもあ りません。

たとえ家庭の問題がどれほど深く、解決困難に見えても、私たちクリスチャンは、自分の弱さを憐れんで涙を流したり、敵対や分裂という罪を大目に見て、どこ かに逃避の場を探すよりも前に、御言葉に従うべきであり、自分の問題を主の御前に持って行くべきです。主の御前に真に助けを必要とする病人として進み出る ならば、憐みを受けるでしょう。キリスト・イエスの十字架は、心理学の領域が完全に匙を投げるような、深刻な家庭の問題であっても、その背後にある全ての 罪を根こそぎ取り扱うことができます。

もう一度言いますが、クリスチャンは、自分の家庭においても、他人の家庭に対しても、健全で模範的なあり方を必ず保つことができます。家庭を悪しきものに歪める全ての罪の力を、主が十字架で打ち破って下さったことを、私たちは信じましょう。

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)

私たちは家庭が困難な状態にある時にも、決して、御言葉を誤った方法で用いて、家庭を見捨てる者、夫婦や親としての義務をおろそかにする者、あるいは、他 人の家庭の破壊者、強奪者のように振舞ってはいけません。私たちは結婚を重んじ、家庭を重んじるべきです。教会を口実にして、夫婦や、親としての義務から 逃避すべきではありません。もしも、私たちが誰か配偶者につながれているならば、それがたとえキリストにない人であり、私たちを苦しめる人であっても、地 上の誰にも勝って、私たちがその人を愛し、その人のために最善を尽くしていることが、傍目にもはっきりと分かるように振舞いましょう。信仰を持たない配偶 者だからと言って、彼らを置き去りにして、奉仕を第一優先すべきではありませんし、まして、他の兄弟姉妹を、家庭での苦しみから逃れるための逃避の場にし てはなりません。もしも私たちが教える者であるならば、なおさらのこと、私たちは結婚について、夫婦のあり方について、献身的な愛によって聖徒に模範を示 すべきです。そうでなければ、神の言葉がそしられる隙を、自ら作ってしまっていることになります。

もしも私たちの愛する兄弟姉妹が、配偶者につながれているならば、その配偶者がたとえキリストにない人であっても、私たちは、その配偶者の面目を公衆の面 前で失わせるような振る舞いをしてはなりません。もしも結婚が有効であるならば、それがどんな問題に満ちているものであっても、私たちはあらゆる結婚を尊 ぶべきです。キリストを信じていない、問題だらけの夫や妻であっても、彼らを兄弟姉妹の間で侮辱してはいけません(そんなことを続けるなら、どうしてその 人がキリスト者になりたいと願うでしょうか?) 私たちは身近な兄弟姉妹と、彼らが配偶者や、家庭で過ごす時間を犠牲にさせてまで、交わりを持とうとすべ きではありません。私たちは家庭での権威には従うべきです。なぜなら、夫と妻とは、キリストと教会の型だからです。たとえキリスト者でない家族であって も、夫の権威をないがしろにしてはなりません。同様のことが、父と子の関係にも言えます。

私たちはどんな問題があろうとも、御言葉を自分に都合よく利用して、家庭での義務から逃げないようにしましょう。どんなに兄弟姉妹を愛し、彼らの直面する 困難に同情したとしても、私たちは他人の結婚や家庭の秩序をないがしろにするような行動を取ってまで、彼らの助けになろうと考えてはなりません。その問題 を解決できるお方はただ主だけなのです。私たちが救済者になろうとするのではなく、信徒が自ら十字架へ向かうように促すべきです。

これが、ある人々にとってどれほど困難な要求であるかは分かっています。しかし、私たちの命はすでに失われて、神の内に隠されているのです。自分を下ろ し、自分の願いを手放して、ただ主の死の中にとどまりましょう。キリスト者が、夫や妻に示す従順、献身、忍耐は、神に不従順な夫や妻の心でさえ、動かすこ とができると、御言葉が私たちに教えてくれているのです。ですから、私たちはそれを信じ、それぞれ配偶者に忠誠を尽くすのみです。たとえ肉によっては仕え ることが困難な家族であっても、家庭を健やかに守る力は、主が御霊によって、必ず、私たちに下さいます。

神が十字架を実際にもたらして下さるならば、私たちの家庭にある全ての隔ての敵意、中垣は取り払われます。夫と妻は心から和解し、父と子も和解します。互 いに訴えあって来た債務証書も無効にされます。しかしながら、それが実現するためには、まず私たち自身が敵意を捨てて、心から、家庭を侮って来た罪を悔い 改め、家族との和解を願わなければなりません。多くの人たちは、自己憐憫を維持することの方を優先して、自分を義としたがいために、悔い改めを拒み、家族 との和解を願わず、むしろ、いつまでも敵対と反目の中に住み続けることを自分に許してしまうのです。だから、十字架が実際となるチャンスがないのです。

しかし、私たちが自分の人生そのものを十字架の死に渡して、自分の義を最後まで手放し、主の義に自分を明け渡して、御言葉を実践して生きようと願うなら、 主は必ず、和解の十字架を実際として下さり、私たちの行くところ全ての道を守り、私たちの家庭をも守って下さるでしょう。

私たちはキリストにあって和解を勧める大使として立っています(Ⅱコリント5:20)、 にもかかわらず、その私たちが、自分や他人の家庭を軽んじ、家庭の分裂や反目を助長する者になってはなりません。肉によって歩む者は、神の国に入ることは できないのです。神の国にふさわしい子供たちとして、私たちは、不品行、好色、妬み、分裂、等々を遠ざけ、敵意と悪意と反目を捨てて、家庭の平和、結婚を 重んじましょう。私たちは弱い者ですが、光の子らしく振る舞うことを、主が私たちに可能として下さいますように。
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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