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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

結婚を尊ぶ(補足)

以下のエントリー「結婚を尊ぶ」を書いたら、早速、ある読者から、「内容が優等生的すぎて、寂しすぎます」というコメントが来ました。

後からのお断りになりますが、その記事は、実は、一般の読者に向けたのではなく、ある限られた目的のためだけに書いたものです。(そこで表現がかなり厳しくなったかも知れません。ごめんなさい。)

ちなみに、家庭という点について言うならば、私は完全な落第生です。本来、誰に向かって、何のお説教もできる筋合いにはないほどです。私がどれほどに落第生であったのかは、過去の記事につらつらと書き連ねておりますので、どうぞそちらをご参照ください。

もしも主の憐れみがなければ、そして、エクレシアを通して、ふさわしい御言葉が与えられなかったならば、私の家にも、私にも、どんな解決もありえなかったでしょう。恐らく、私は立ち直れなかったであろうと思います。

しかし、御言葉が私を死から生へと移し、主イエスの復活の命が、私の信仰を通して働き、我が家を建て直しました。私はそのことの証人です。

ある人々は、きっと今も治しようのない家庭の問題を抱えて悩んでいることでしょう。それが治しようのないものであることを否定しません。そのために流された涙も否定しません。

しかし、家庭の問題については、人知で考えてどれほど絶望であっても、主がそこに解決として来て下さると、どうか信じて下さい。「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」(ローマ5:20)とある通り、私たちが絶望的な問題にひしがれている時こそ、十字架は、私たちのとてもそば近くにあるのです。

医者から見離された長血の女が、イエス様のもとに駆けつけたように、家庭の問題に苦しむ人々も、今日も生きておられる主イエス様の許に、主によって永遠に 達成された十字架の許に、駆けつけることができます。そこに希望を見出すか、それとも、「何だまた聖書を持ち出して、正論をお説教するのか」と思って、立 ち去るかどうかは、個人の自由ですが…。

家庭の問題に苦しんでいる人たちは、心理学がどれほど絶望を宣言していたとしても、希望を捨てないで下さい。キリストの十字架だけが、あらゆる関係を正常 化することができます。主イエスと共なる十字架の死が働くところには、主イエスの復活の命も働きます。この御子の復活の命は、死をも打ち破った命なので す。どうか御言葉を求めて下さい、そして、与えられた御言葉を宣言して下さい。そうすれば、御言葉が実際となるでしょう。悲しむ者が慰めを得て、苦しみに ある人々に解決と、安らぎが与えられますように。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 」(ローマ6:6)

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 」(Ⅱコリント5:17)

「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 」(ガラテヤ6:14)


「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。 」(コロサイ3:3)
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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