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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

モーセでもエリヤでもなく…

「ペテロはイエスにむかって言った、『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために』。

彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。」(マタイ17:4-6))

「…あなたがたは先生と呼ばれてはならないあなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだからまた、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならないだれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイ23:8-12)

主がどうして私を再び、教会というところにお遣わし下さったのか分からないが、その目的は私の期待とは異 なっていたようだ。今、改めて、予感するのは、目に見える人間を高みへと押し上げ、目に見える人間に注目と栄誉を集め、目に見える人間の意志に、人々を聞 き従わせようとする場所は、この先、今まで以上に、より一層、深い闇に落ち込んでいくだろうということである。

誰か特定の個人の語るメッセージに限定して養われるという時代は、きっと、私の中では終わったのだろう。誤解を招かないようにお断りしておけば、私は決し て、ここで、兄弟姉妹から御言葉の手ほどきを受けることの必要性を否定しているわけではない。キリストの御身体なるエクレシアは、一つの命によって結び合 わされ、互いに命を分け合っている存在でもある。主は、エクレシアを通じて、私に必要な御言葉を、随時、届けて下さった。その助けがなければ、私の人生に おいて、必要な扉は開かれなかっただろう。

ピリポに宦官は言った、「だれかが、手引きをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」(使徒8:31)。御霊は時に、まさに兄弟姉妹の口を通して、私たちに御言葉の手ほどきを施すことを望まれる。あるいは、先人の書物が、私たちに、なくてはならない御言葉の手ほどきを与えてくれる場合もある。こうした目に見える助けが、ぜひとも必要な場合もあるだろう。

だが、誰か養育係が現れて来たからといって、決して、目に見える誰かに栄光が帰されることは望ましくない。優れた書物があるからといって、その書物の著者 に栄光が帰されるのも望ましくない。目に見える人間に、人々が聞き従うことを求めるシステムは、それ自体、存在が望ましくない。では、特定の個人に偏ら ず、できるだけ多方面から、教えをかき集めれば、バランスが取れるのか言えば、そんな問題ではない。

私たちが聞き従うべきは、モーセでも、エリヤでもなく、キリストである。天からの声が、弟子たちに告げて言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。私たちの教師は、ただキリストだけであり、キリストの御霊こそが、私たちに必要な全てを教えてくれる、尊い内なる塗り油である。


「わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書き送った。あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまって いるので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたよう に、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2:26-27)


このキリストを見上げる時にこそ、私たちの霊のうちには光が輝く。命である御霊こそが、私たちに随時、必要な助けを与えてくれる。兄弟姉妹からの助けも、 御霊によって与えられるものである。だから、この先、どんなに優れた養育係に出会ったとしても、目に見える誰かに注意を奪われて、見えないキリストに頼る ことを、忘れてしまったりしないようにしたい。

私は弱い者であるから、これまで、御言葉の手ほどきをしてくれる誰かが現れると、早速、その見える存在に飛びついて、つき従おうとして来た。先生と呼ばれ る誰か、教師と呼ばれる誰か、父と呼ばれる誰か、御言葉の深い解釈を施してくれる優れた先人、私に満足を与えてくれる、私を引き上げてくれそうな、人の間 で認められている誰かが、いつも私の注意を引きつけた。しかし、目に見えるものに依存し、それを祭り上げようとすることの結果は、いつも苦い失望だけで あった。

今はただ、エクレシアの全ての成員と、ただ愛する兄弟姉妹として関わりたい。私は決して、自分が偉くなって、人から誉めそやされ、先生と呼ばれ、私のもと へ人々を集め、私の意見に人々の耳を傾けさせ、人から当たり前のように色々な奉仕を受け、どこへ行っても歓迎されて、もてはやされる地位を得るために、御 言葉を学んで来たのではなかった。私自身が栄光を受けるためではなく、むしろ、私が低められて、仕える者となり、僕となり、与える者となり、見世物とさ れ、忘れられるために、主は私を召されたのである。

私はよく、人生がやりきれないような瞬間に、この御言葉を思い出すし、また、この御言葉が好きでもある。「わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。」(Ⅰコリント4:9)

キリストを信じ、キリストにすがって生きようと決意してから、私の栄光は築き上げられなかった。主は驚くばかりの恵みを私に施してくれたのだが、私自身は と言えば、弱く、愚かで、惨めなままであり、いつもいつも、死刑囚のような者として、全世界に対して見世物にされている。私の愚かしい失敗も、七転八倒の 歩みも、何一つとして、人々の前に隠されてはいない。それでも、このところようやく、キリストに従う者は、最後まで契約の箱をかついで、ヨルダン川の底に 立っていなければならないのだということに、納得がいくようになってきた。私の責務は、一粒の麦として地中に埋められ、甘んじて死に服することだけなのだ ろう。そうする時に初めて、そこから多くの命が生まれるのである。

「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」(詩篇23:4)

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその 民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思 う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕え るためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」(マタイ20:25-28)
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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