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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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その打ち傷により…

「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
 主の腕は、だれにあらわれたか。
 彼は主の前に若木のように、
 かわいた土から出る根のように育った。

 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない


 彼は侮られて人に捨てられ、
 悲しみの人で、病を知っていた


 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった


 まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった


 しかるに、われわれは思った。
 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
 
 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
 われわれの不義のために砕かれたのだ。

 彼はみずから懲らしめをうけて、
 われわれに平安を与え、
 その打たれた傷によって、
 われわれはいやされたのだ。

 われわれはみな羊のように迷って、
 おのおの自分の道に向かって行った。

 主はわれわれすべての者の不義を、
 彼の上におかれた。

 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
 口を開かなかった。
 ほふり場にひかれて行く小羊のように、
 また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
 口を開かなかった。

 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。

 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
 彼はわが民のとがのために打たれて、
 生けるものの地から断たれたのだと。
 
 彼は暴虐を行わず、
 その口には偽りがなかったけれども、
 その墓は悪しき者と共に設けられ、
 その塚は悪をなす者と共にあった。

 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
 主は彼を悩まされた。

 彼が自分を、とがの供え物となすとき、
 その子孫を見ることができ、
 その命をながくすることができる。

 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。

 義なるしもべはその知識によって、
 多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
 物を分かち取らせる。
 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。

 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
 とがある者と共に数えられたからである。
 しかも彼は多くの人の罪を負い、
 とがある者のためにとりなしをした
。」(イザヤ書第53章)


 キリスト者なら、誰も知らない人はいないこの章。

 昨夜、ある兄弟との交わりの中で、エクレシアの成員の多くに臨んでいる苦難について考えさせられた。病や、死や、誤解や、孤独や…、今、何と多くの苦難が、私たちキリスト者に臨んでいることだろう。

 だが、キリスト者の義務とは、それらの苦難を都合よく追い払い、自分を高みに押し上げてくれる、自己高揚の教えに走ることではない。私たちがなすべき は、ただ主の御前に自分を低くし、へりくだって十字架を負うことなのだと感じた。その時に、主が私たちを引き上げて下さり、私たちの力となり、義となっ て、私たちの代わりに戦い、また、働いて下さるのだ。

「イエスがベタニヤで、…食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 」(マルコ14:13)

 私たち自身が、砕かれた石膏の壺とならなければ、中にある香油は注がれない。その香油は、誰よりも、主イエスのために注がれ、また、キリストの御身体なる兄弟姉妹のために注がれる。

 私がこれまでもっていた自信や、誇りや、魂の愛情や、願いを、主によって砕かれる時、もしそれに同意するならば、私という、砕かれた器から、主イエスの ために、信仰によって、芳しい油が流れ出すだろう。そして、それは、頭なるキリストから滴り落ち、キリストの御身体全体を潤し、衣のすそにまで及び、その 芳香は永遠に漂うだろう。

「見よ、兄弟が和合して共におるのは
 いかに麗しく楽しいことであろう。
 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、
 アロンのひげに流れ、
 その衣のえりにまで流れくだるようだ。 」(詩篇133:1-2)


 石膏の壺が砕かれることは、痛みに満ちた体験を通してしかあり得ない。キリスト教は自己犠牲の教えではないので、私たちが自ら苦難を追い求めたり、苦難 を作り出す必要は絶対にないが、しかし、主イエスの僕として、キリスト者は、いつか主が砕かれたように、自分も主によって砕かれ、多くの実を結ぶ時が来る だろう。

 振り返ってみれば、私は霊的な真理を追い求めるという口実で、どれほど自分が高められることを願って来たであろうか。しばらくの間、主はそれを寛容に許 しておられた。しかし、それがもはや許されない時がやって来た。私が一粒の麦として、いつまでも自分の殻を保とうとすることは、多くの実が結ばれるという 主の願いとは、まさに正反対であった。私も日々の十字架へ向かうべき時が来た。前述のイザヤ書の最後の箇所は、まさに私たちキリスト者への呼びかけである ように思う。

 「義なるしもべはその知識によって、
 多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
 物を分かち取らせる。
 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。

 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
 とがある者と共に数えられたからである。
 しかも彼は多くの人の罪を負い、
 とがある者のためにとりなしをした。」


 もしも私たちキリスト者が、強い者(キリスト)と共に獲物を分かち取り、天において、主イエスと共に栄光にあずかる者になりたいと願うなら、私たちは義 なる僕として、多くの人を義とするために、自分は不義に定められことになるだろう。私たちは弱められ、見るべき姿も、威厳も、慕うべき麗しさもなくなり、 主イエスがそうされたように、ただ死に至るまで、神と隣人のために、自分の魂を注ぎ出すことになるだろう。そうして、愛により、私たちは自分は罪とされる ことに甘んじ、それにより、多くの人々の罪を覆う者となるだろう。

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。<…>

 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう

 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さる であろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:15-20)


 私たちが地上でつなぐものは、天でもつながれるというこの御言葉の意味を、今ほど考える時はない。これには色々な意味があると思うが、私 たちが地上で兄弟姉妹と赦し合うこと、和解すること、兄弟姉妹のとがを覆い、兄弟姉妹の絆を結び合い、互いに欠かせない節々としてキリストの御身体を建て 上げ、神の与えて下さる愛により、愛し合うことをも、指しているのではないだろうか。

 もしも私たちが地上で誰かを赦すなら、地上で一人の兄弟を得られるのと同様に、天でも、一人の兄弟が得られる。だが、もし私たちが地上で赦さないままであるならば、天でも、一人の兄弟は失われたままであろう。

 私たちはつなぐ者となりたいのだろうか。解く者となりたいのであろうか。ああ、私は今まで何と多くの不信に目をくらまされて来たのだろうかと思う。誰が 地上で神に召されている御国の子たちなのか、誰がそうでないのか、それを確かめるのは、私たちの仕事ではない。麦と毒麦が識別されるのは、世の終わりのこ とであり、麦を蔵におさめるのは、神の仕事である。

 それなのに、私が兄弟姉妹を罪に定めるとは、何と大きな罪なのであろう。私の仕事は、生ある限り、赦し続けることだけ、兄弟たちを愛し、彼らの手を、握 り続けることだけ。主の救いと憐れみは、世の終わりまで、どんな罪人にも注がれている。流された小羊の血は、この罪人の私にも注がれている。エクレシア は、キリストの御身体は、ただ神の愛のうちに育てられていく。「愛はすべてのとがをおおう」(箴言10:12)

 我が主よ、私の努力によっては、兄弟姉妹を愛することはできません。けれども、何という愛をあなたは私たちに教えて下さっているのでしょう。ただあなた が私の内で愛となって下さることを信じます。ただあなたの憐れみによって、主イエスの愛を、もっと私に教えて下さい。あなたの愛がどんなに素晴らしいか、 その広さ、長さ、高さ、深さを、どうか私に教えて下さい。あなたの愛で私を満たし、あなたの愛を私のうちに全うさせて下さい。そして兄弟姉妹との愛の連結 の内に、私を御身体の内にとどめて下さい。

 誰よりも、我が主よ、あなたを心から愛します。私はあなたのものです。

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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