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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪が日本経済にもたらす破滅的な委縮効果

統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪の成立が、日本経済にもたらすであろう壊滅的な委縮効果

さて、新年になって、これまで統一教会の機関紙「世界日報」の表紙を何度も飾り、統一教会と密接な関わりがあることがインターネットではもはや周知の事実となっている安倍首相が、またもや国民を恐怖に陥れ、新たに重荷を課すための、悪巧みに満ちた法案を国会へ提出することに意欲を示した。

今月20日から始まる通常国会に、与党自民党はこれまで3回、国会に提出されて廃案となった悪名高い「共謀罪」を法案として提出するという。この法案の成立にとりわけ執心しているのが、他ならぬ安倍首相であることが、ニュースを通しても明らかにされている。将軍様が独裁を完成するためには、必要不可欠な法であるわけだ。

(「<安倍首相>「共謀罪」に意欲 通常国会で提出か」(Yahooニュース掲載 毎日新聞 1/5(木) 20:58配信などを参照。)

だが、共謀罪は、何よりも、統一教会が以前から熱心に成立を推進していることが知られている。統一教会の機関紙「世界日報」においては、2006年の時点で「共謀罪/与党再修正案で成立させよ」(「世界日報」2006年5月14日付社説)との社説が掲載されるなど、それ以来、以下に見るように、今日に至るまで、一貫して、共謀罪の成立に俄然、意欲を示す一連の社説が掲載されている。

統一教会は、ごく最近の社説「共謀罪創設、テロ対策強化に不可欠だ」(「世界日報」編集局 2017年1月07日付社説」においても、「2020年東京五輪・パラリンピックを控え、テロ対策強化は喫緊の課題だ。共謀罪創設法案は過去3度にわたって国会に提出されたが、野党の反対で廃案となった。今度こそ成立させなければならない。」などと、3回の廃案にも全く動じる気配なく、オリンピックにかこつけて、法案成立への強い意気込みを示している。

これを見れば、安倍の共謀罪へのこだわりが、まぎれもなく、長年、この法案成立に執拗にこだわり続けて来た統一教会の野望と一致すること、共謀罪の成立を推し進めているのは、何よりも、政界と結びつき、政治家を陰で操るカルト宗教勢力であることが誰しもよく分かるだろう。

共謀罪という呼び名は、過去3回、廃案となった際に、すっかり世間に拒否反応を呼び起こすマイナスイメージとして定着してしまったので、今回は、東京五輪にかこつけたテロ対策を前面に押し出した、「テロ等組織犯罪準備罪」という名に変更する予定のようだ。

さて、当ブログの以前からの読者には、筆者の立場は、あえて説明せずとも、了解済みの事項であるものと思うが、それでも改めてもう一度、触れておきたい。

当ブログでは、統一教会出身で、現在、プロテスタントのキリスト教界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する牧師である村上密が、「キリスト教界のカルト化を取り締まる」という名目で提唱した「カルト監視機構」の危険性を、早い段階から訴えて来た。この監視機構は公には設立されなかったが、村上密はその思想を捨てることなく実行に移し、そして、筆者の危惧した通り、村上密の活動は暴走し、最後にはほとんど無差別的なキリスト教徒の迫害を引き起こしたのである。

最初は「カルト化した一部の教会だけを監視と取締の対象とする」と言っていた牧師が、疑心暗鬼に陥り、途中からは自分の活動に理解を示さない者をすべて「カルトの疑いがある、敵」のようにみなして、インターネット上で支持者などを利用して人格攻撃し、ついには、敗訴も覚悟で、ただ教会に打撃を与えるためだけのスラップ訴訟に及び、自分の活動に賛意を示さないすべてのクリスチャンへの無差別的な迫害に及んだ様子は知られている。同氏の疑心暗鬼の対象は、ついには同じ教団に属して同労していた牧師や、自身が所属しているアッセンブリーズ教団にまで及んだ。

こうして、最初は「カルト(だけ)を取り締まる」と言っていたカルト監視機構の提唱者は、最後には、「自分に反対する者はみなカルト」と考えて、無差別攻撃に及んだ。「カルトを取り締まる」という一見、正しそうに聞こえる牧師の使命感は、最後には信徒の自主的な信仰生活と、福音伝道という教会の本来的使命を著しく害して終わったのである。

安倍の提唱する「共謀罪」は、かつて村上密が提唱した宗教版「カルト監視機構」を、そのまま土台として政治版に書き変えただけのものと見て良い。なぜなら、両者に流れる思想的基盤は、全く同じだからである。

しかも、上記の村上密牧師は、若い時分に統一教会に入信していた経緯があることが知られており、その意味でも、安倍と思想的な基盤が非常によく似ていると言える。そもそも「カルト監視機構」という同牧師の発想は、まさに統一教会流の思考からこそ生まれた発想であり、統一教会で受けたマインドコントロールの影響や、統一教会流の二元論的思考の教え込みが、形を取って表面化したものと考えられる。そして、この発想は、後述するように、もとを辿れば共産主義思想に遡るのである。

だから、共謀罪が成立すると、カルト監視機構を巡ってキリスト教界で起きたような事件が、今度は政治の世界で繰り広げられることになるのは自明の理である。安倍の提唱する共謀罪は、成立すれば、必ずや、村上密の唱えたカルト監視機構の発想と同じように、暴走するであろう。この法案はすでに多数の場所で、数えきれない人々によって、治安維持法の再来だとの懸念が表明されているが、まさにその懸念の通りに、当初は「テロを防止する」(≒「カルトを取り締まる」)という名目を掲げていたものが、必ずや、最後には「全国民」(≒「全クリスチャン」)を無差別的な嫌疑の対象とするであろうことを予測しないわけにはいかない。

共謀罪は、「カルト監視機構」の場合と全く同じように、それを提唱した人間の思考が、完全に悪魔的発想に毒され、狂わされていることをよく物語っている。共謀罪の法案を推進する勢力に、統一教会があるのだから、カルト思考に毒されるのは当然である。

だが、ここから先、今までとちょっと違う論調で記事を書いていきたい。

この場所において、共謀罪の成立に声を大にして反対するのは簡単なことである。「共謀罪は一部のテロリストだけを取り締まる」と言いながら、結局、最後には、全国民を無差別的に迫害する巨大な暴力・抑圧装置となるだろうことは明白だから、絶対に阻止しなければならない」と訴えることはたやすい。

筆者の目から見れば、安倍晋三はすでに村上密とほとんど変わらないパラノイド的思考に陥っており、この法案を利用して、自らの独裁を完成するつもりなのであるから、なおさら、危険である。

だが、この記事は、何よりも、聖書の信仰に基づく分析記事であるから、ここから先、筆者は、共謀罪を成立させてはならないということだけに力点を置くのではなく、共謀罪が成立すると具体的にどういう現象が起きるかについて、共謀罪や、カルト監視機構という発想の生まれる本家本元となったソ連の歴史をも振り返りつつ、それを日本に当てはめて考えていきたいと思っている。

統一教会は、共謀罪(≒カルト監視機構)の土台となる発想を、ソ連の共産主義思想から学んだのである。前にも書いた通り、統一教会の政治組織である勝共連合は、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを旗印に掲げながらも、共産主義国に対抗するために、核武装を含めた、自国の防衛と軍備の強化に関するほとんどの手段を共産主義国から学び、内に取り入れたのであった。

統一教会がこうして共産主義国から学んだ発想の一つが、国家(≒教会組織)を世界革命(≒統一教会の人類一家族理想)の中心となる神聖な母体とみなし、国(≒教会)の転覆を企てた罪(≒教祖や宗教団体に逆らう罪)に対しては、死刑に相当する罰を持って報いる(≒悪魔扱いして教会から追放し、一生呪い、迫害する)という、ソ連が取った反革命分子の取り締まりのために秘密警察を設立するという手法であった。

ちなみに、このようにして、国家や、企業や、あるいは、教団や、教会などの宗教組織、またそれを統治する指導者を含め、人間自身、または人間の作った組織や団体を、何らかのユートピア的理想的共同体社会を到来させるための「神聖な母体」とみなし、組織そのものを絶対化することにより、それを批判したり、逆らうことを「罪」とみなし、反対者を実力行使によって強制的に排除・処罰するという思想は、すべて元を辿れば、グノーシス主義に由来する悪魔的発想である。いう間でもなく、ペンテコステ運動のリバイバルなども同じである。

ちなみに、プロレタリア国家としてのソ連を神聖視するがゆえに、世界革命をもたらす母体となる社会主義国家を転覆させる思想をテロリズムと位置づけ、危険思想を未然に取り締まるための法整備と、反対者を実力行使によって排除するための秘密警察組織を設立するという発想は、ソ連の成立以前から、社会主義思想から受け継がれたものであった。

ソ連における秘密警察は、最初の名称はヴェーチェーカー(反革命・サボタージュ取締非常委員会)であり、革命直後に設立され、それが後に巨大な秘密警察組織へと発展するのだが、この組織は、レーニンが革命のわずか前に著した『国家と革命』の中で、反革命分子としてのブルジョアジーの抑圧のための機関として、青写真が提示されていた。さらに、レーニンの唱えたこの発想も、それ以前の社会主義者の思想にも見られたものであった。そもそも、社会主義革命それ自体が、暴力によって既存の国家秩序の転覆をはかるものである以上、革命を維持し続けるためには、旧体制の支持者を抑圧するための暴力装置が必要になるのは、自明の理である。

だから、筆者が「カルト監視機構はキリスト教界に恐怖政治をもたらす秘密警察である」と述べたのは、まさに統一教会が借用した、こうした社会主義思想のルーツと歴史を踏まえた上での発言であり、村上密が考えたような、夢想のとごとき戯言ではないのである。そして、カルト監視機構についても、筆者の懸念が裏付けられたが、共謀罪にも全く同じ危険が当てはまると言える。

村上密は、カルト監視機構を設立できなかったにも関わらず、その発想を独断で実行に移し、教会内規則や、法を無視して、自らの反対者に対する実力行使としての迫害に及んだのであるから、共謀罪の場合も、成立の可否に関わらず、これを唱えた人間が、自らを神として、自分への反対者をことごとく迫害するために悪用する可能性が十分にあると言えるだろう。

共謀罪は、現存の政府を率いる一人の為政者が、日本版NSCや、秘密保護法などと連動して、自らに反対する者たちをことごとく弾圧・排除するための巨大な秘密警察組織を作り出し、独裁を完成するために打ち出されたという線が濃厚である。オリンピックなどはほんの口実に過ぎない。

プーチンも、ブッシュも、これまでテロとの闘いを口実に、反対者を駆逐し、政治権力を強化して来た。安倍も、いよいよ「テロとの闘い」を口実にして、自らに逆らう人間をすべて「テロリスト」の汚名を着せて、実力行使によって排除できる権限を手に入れる手前まで来ているのであり、これに自衛隊の軍隊への昇格を加えれば、核のボタンを独断で押すことのできる無制限にも近い権限を手に入れて、歴代首相を超える権力を手にすることができる。そして、その背後では政治指導者を操り、これに寄生したカルト団体が己が権勢を拡大するのである。 

実際、ソ連ではスターリンという一人の為政者が、法制度と秘密警察を手足のように駆使して国民への無差別的な抑圧を行ったのであり、共謀罪も同じように一人の為政者によって存分に政治利用されるであろうという懸念が生じるのは当然である。
 
しかしながら、結論から言えば、筆者は、この日本で、仮に共謀罪を成立させてみたとことろで、恐るべき独裁体制を確立し、維持することのできるような体力は、おそらくもう残されていないのではないかという気がしてならない。太平洋戦争の際にも、日本軍が最も計算を誤ったのは、兵士の兵糧だったという。常に国民の体力を無視して無謀な計画に走って自滅するとところが、この国の政府の変わらない欠点である。

安倍はこの国の経済の状態を偽っているため、国の恐るべき貧困化という現状が見えておらず、独裁や、核武装など、みな現実を無視した夢想に過ぎないことが分かっていないのである。今の日本国の経済状態では、これ以上のどんな圧迫にも耐えうる力はないと筆者は見ている。この先、雇用情勢の悪化による国全体の急速な貧窮化と、急速な高齢化、それに加えて原発事故の悪影響による多死社会という要因が、国の体力をあっという間に削ぎ落とすと考えられるからだ。

ソ連も、国内戦の疲弊と一国社会主義の孤立によって貧困化に追い込まれたが、それでも革命を維持することができたのは、徹底的な恐怖政治を強いたことと、反革命・テロリストの汚名を着せて大量に強制収容所に送り込んだ囚人を奴隷的無賃労働に従事させることを経済効果に見込んだからである。我が国に、そこまでのことができるか。無理であろう。高齢化した社会では、囚人の奴隷労働も笑い話である。

さらに、安倍政権には国民全体に貧苦を耐え忍ばせてでもけん引することのできる理想が決定的に欠けている。ロシア革命の際には、社会主義イデオロギーの正しさを本気で確信する人々が相当数存在しており、思想教育によって人々はそれが正しい国家的イデオロギーだと信じていたので、欺かれているとは知らず、心から国家政策に身を捧げる一定数の人々が存在したが、我が国に、あるのは安倍率いる腐敗した政治家たちの卑しい金儲けの願望だけであることが見え透いているので、オリンピックもそうだが、国民感情が着いて来ないし、人々に大志を抱かせるイデオロギーが何ら存在しないのである。

今、我が国政府の要職に就いているのは、クーデター後のウクライナと同じような、犯罪者、ギャング集団ばかりであり、彼らには国を率いて行くだけの知性が存在しない。ロシア革命にはレーニンという指導者があったが、今の日本には唾棄すべき悪魔的思想を率いるのにさえ、ふさわしい指導者がない。クーデターによって犯罪者が政権の座に就いたウクライナは、今やもはや国の形を成しておらず、再生の見込みもなくなっている。

このようなことを踏まえると、共謀罪を仮に与党が成立させたとしても、それを機に自らの権力を絶対化したい人々の思惑とは裏腹に、日本をソ連のような国に変えてしまう効果を及ぼすとは考えにくい。むしろ、共謀罪は、東京オリンピックの高揚感に著しく水を差し、日本経済にも絶大なマイナス効果を及ぼし、日本経済を死滅させる決定打となるだろう。

昨年末に、以下のようなニュースが発表されたことは、まだ我々の記憶に新しいが、国土交通省の調査結果では、日本国民全体の外出率が低下していること、特に、若者の外出率の低下が著しく、過去最低を記録したことが発表された。20代では就業者の外出率(移動回数)が60歳以上の世代を下回っており、20代では、就業者も、非就業者と同様の貧困に見舞われている可能性が高いことを予想させる。

筆者は、若者の外出率の低下が、ネットやゲームの普及によって外出の魅力が失われたせいだとは考えていない。若者の結婚離れなどの現象にも共通して見られるのは、その背景にある、若者世代の貧窮化である。つまり、若い世代ほど、仕事に就いても、低賃金で過酷な労働に従事させられる割合が高く、外出に伴う出費と疲労に耐えられないので、休日にも出かけない、という選択肢を選びがちなのである。
 

約4割が「休日出かけない」 1日の移動回数も過去最低に 国の交通特性調査
gooニュース 2016年12月27日 06:30 から一部抜粋

若者の「移動回数」、高齢者を下回る

 国土交通省は2016年12月26日(月)、2015年度の「全国都市交通特性調査」(速報版)を公表しました。

人がどのような目的で、どのような交通手段を利用して移動しているかなど、人の動きをおおむね5年おきに調査するものです。今回は、調査日に外出した人の割合が平日で80.9%、休日で59.9%、ひとりが1日に移動する平均回数(移動回数)が平日で2.17回、休日で1.68回と、いずれも1987(昭和62)年の調査開始以来、最低の値でした。

 若者の移動回数が減少し、高齢者の移動回数が増加しています。休日における20代の移動回数1.43回に対し、70代の移動回数はそれを上回る1.60回でした。特に20代の非就業者における外出率が大きく低下している一方で、人口が増加している60歳以上では就業者、非就業者ともに移動回数が増加していることがわかりました。(以下略) 

 

この調査結果は、共謀罪などが成立して委縮効果が及ぶよりもはるか前から、我が国の国民の自主的な活動が、すでに死に絶えつつあり、この国に巨大な世代間格差が生じていることを想像させるものである。日本経済は特に何事も起きずとも、すでに今の時点で瀕死の状態にあり、その上、共謀罪が成立すれば、老いも若きも、共に外出を控え、人の多い場所や、人との交流を避けるようになるだろう。

何しろ、スタジアムでうっかり隣の席に座って、気さくに話しかけて来た人間が、実は政府が前々から目をつけていたテロの容疑者だった…、などと後になって判明すれば、自分だけでなく自分の周囲の人々にも迷惑が及ぶ。気晴らしに街を歩いていて偶然、昔の知り合いに会って談義していたら、「あいつはどこそこの喫茶店で疑わしい人物と親しく話し合い、交流していた」などと、自分の全く知らないところで、誰かから密告されたりしても困るからである。

東京五輪などは、エンブレム問題や、競技場問題、招致の腐敗した過程、予算の膨張などのスキャンダルが絶えず、政府や五輪組織委員会や、利権団体による自己満足と非難されて久しく、国民の間では、盛り上がりも人気もない。その上、五輪を名目とする共謀罪が成立すれば、五輪は完全にお上によって強制された「官製行事」になってしまい、国民的人気は死に絶えるだろう。

国民の間では、「五輪を批判しただけでも、お上が思想犯の疑いをかけてくる危険があるから、五輪については沈黙するに限る」という暗黙のお約束事が出来上がり、東京オリンピックは腫物扱いされ、話も絶えて聞かれなくなるであろう。オリンピック景気や、盛り上がりどころの話ではない。国民が無差別的にテロリストの疑いをかけられるかもしれない法が成立しようとしている時に、わざわざ自ら出費して、オリンピック観戦に出向く酔狂な者がどれくらいいるのだろうか。

そもそも、共謀罪が成立すれば、日本国民は、人の集まる公共の場へ出かけて行くことを自ら避けるようになる可能性がある。これは人々の草の根ネットワークを一網打尽にすることで、経済を委縮させる危険がある。こうして、貧困に加えて、思想犯との疑いをかけられたくないがために、人々の交流、会話、出会いが途絶えて、少子高齢化にさらに拍車がかかり、すでにあった自主的なサークルや団体も解散することで、無縁社会が加速化し、日本経済に著しいマイナス効果が及ぶであろうと筆者は思う。

それでも成立にこだわりたい勢力は、強行採決に及ぶ所存なのであろうが、カジノ法の強引な成立と同じく、そんなことをしたからと言って、人気が戻ることはなく、彼らに何一つリターンはない。

さらに、次に、共謀罪の真の目的とは一体、何なのか、ということについて考えてみたい。

一つには、共謀罪は、政府に対する草の根反対運動を委縮させて潰すことが狙いである、ということが考えられる。つまり、この悪法の成立を機に、安倍政権への批判が委縮すること自体が、法案成立を目論む勢力の狙いの一つであるかも知れない。

だが、その他にも、筆者は、共謀罪の真の目的として、「テロリストの嫌疑」を名目とする➀国民財産の不当な没収と、②奴隷労働の強制という事実がある可能性を指摘しておきたい。なぜなら、これは、ソ連では実際に行われた事実だからである。

ソ連においては、革命後のアバンギャルドの高揚などは、ネップの終了と共に、1920年代に終わり、1930年代を迎える頃には、すでにスターリンが権力を完全に掌握して、官僚制に基づく巨大な中央集権的な国家を作り上げていたため、ソビエト国民の間では、政権を批判できない空気が出来上がっていた。国民の間での格差は、開く一方で、20年代の終わりに、強制集団化が行われて農民を含む一般国民は、徹底的な窮乏に陥れられる一方で、官僚が貴族のような存在となって特権的な生活を謳歌し、国民に君臨していた。革命の息吹を直に知っている当時の生き証人は官僚機構から次々と粛清されていた。1934年に祖国への裏切りに関する法が成立し、ソビエト国民は政権を批判しただけでも「国家転覆罪」の容疑をかけられて死刑に処される可能性が生じ、実際に、それに基づき、スターリンの政敵が粛清されて行っただけでなく、その弾圧は一般国民にも及び、36-38年の大粛清の時期には、スターリンの指示により数えきれない国民が「人民の敵」のレッテルを貼られ、無実の罪で大量に逮捕され、死刑や強制収容所送りとされた。その後もソ連が崩壊するまで、国家権力にとって好ましくない人物への弾圧は続くことになる。

ソビエト政権がこのように国民に無差別的に「反革命分子」の汚名を着せて大量逮捕に及んだ背景には、疑心暗鬼による恐怖政治の強化、残酷な見せしめ効果、実際に反対者を抑圧したいとなどの思惑があっただけでなく、もう一つの隠れた目的に、収容所群島と呼ばれる大量の強制収容所網を国内に作り上げて、故意にでっちあげの罪により逮捕して囚人とした人々を収容所に送り込んで、強制労働に従事させることによって、囚人労働によって、国内経済の回復をはかろうとする意図があった。だが、むろん、囚人労働を財源とするという意図は隠され、それは表向きには「労働による再教育」と謳われて、美化された。

ソビエト政権は、たとえ宗教のように「神聖」という概念を用いなかったにしても、事実上、プロレタリアートを神聖視し、労働を神聖視する疑似宗教国家であったので、この国家の疑似宗教理念にそぐわない人間を、当局は、「思想的に再教育」して「矯正する」必要があると考えており、再教育の手段として、強制収容所(矯正収容所)に送り、そこで「奴隷的無賃労働」という懲罰に従事させたのである。

だが、実際のところ、その再教育なるものの本当の目的は、国内戦と計画経済で疲弊したソビエト政権が、国力を回復して世界に向けて体面を保つために、国民をタダ働きさせたい、そのために、どうしても一定数の人々を収容所に送り込んで、懲罰的な囚人労働に強制的に従事させる必要がある、ということに尽きた。

むろん、その当時は、ソビエト政権下で、数えきれない人々がいわれなき罪により銃殺されていたわけだけだから、そんな野蛮な環境で、囚人労働がどれくらい国力の回復に役立ったかは分からず、ただ人類に対する無意味な苦痛と抑圧を増し加えただけと言えるわけだが、このようにして、「労働による再教育」という美名を囚人を意図的に作り出してタダ働きさせる口実として用いた詭弁に、労働というものが本質的に持っている忌まわしさが究極の形で現れているように筆者は思う。

実は、筆者が、現在の日本は、事実上の社会主義国であると考える所以もここにあるのだ。話が脱線するようだが、ここで労働の本質とは一体何なのか、考えてみたい。

当ブログではこれまでにも幾度か、触れたように、筆者は、聖書においては、人間の労働は、もともとは罪の結果としてもたらされたものであり、苦役にも等しい呪われた労役であるとみなされていると考える。だが、罪に堕落したアダム来の人間が、実り少ない労働に従事して、自分で自分を支えねば生きられないという恐怖に絶えず脅かされているのに対して、キリストへの信仰を持つ信仰者は、自分の努力によって自分を生かすのではなく、神が養って下さるという信仰に生きる安全と自由がある。

だが、社会主義者は、労働をどうとらえていたのかと言うと、1917年のロシア革命においても、それ以前の社会主義思想においても、彼らは出発点においては、労働について、以上のような聖書的概念から、それほどまでにはかけ離れた考えを持っていたわけではなかった。つまり、社会主義者の目から見ても、常に解雇の危険に脅かされながら、身を粉にして実りの少ない労役に従事せねばならない労働者は、非常に不憫で気の毒な立場に置かれている可哀想な人々であって、プロレタリアート全体が「虐げられている人々」であるから、それゆえに、救済されなければならない対象だとされていたのである。

それにも関わらず、社会主義国は、気の毒な状態にある可哀想なプロレタリアートを解放するどころか、彼らを救済の対象とすると言いながら、その哀れな状態をより一層強固に固定化し、プロレタリアートを賛美することで、抑圧された人々の抑圧された状態を美化し、ついには神聖視までし、永久不変の人間のあるべき姿にまで高め、そこから自由になろうとする人々に「再教育」を無理強いしてまで、抑圧状態から決して逃がすまいと連れ戻したのである。ここに、我々が目を背けるべきではない、非常に深刻かつ危険なパラドックスがある。

ここには、筆者が当ブログで常に訴えてきたマイノリティの美化に潜む危険があると言えよう。カルト被害者にせよ、障害者にせよ、病者にせよ、同性愛者にせよ、ハンセン病者にせよ、元ヤクザ、元カルト信者にせよ、対象が誰であっても同じなのだが、「虐げられている弱者」を、その弱者性のゆえに美化し、同情し、彼らを賛美する思想というものは、およそすべて、結果的に、以上に述べた通り、人間の罪なる状態と、抑圧そのものを神聖視し、人間を抑圧から解放するどころか、ますます抑圧の枷の中に強固に閉じ込めて行く枷になるというパラドックスが存在するのである。

そうなるのは、こういう思想にとりつかれた人々がみな、人間のあるべきでない「可哀想な状態」そのものを美化し、人間の弱みを神聖視しているからである。実際は、罪のゆえに起きただけの不自然で抑圧された状態を、「罪がないのに犠牲者とされた悲劇の人々」のように美化し、弱者の悲劇に酔いしれ、これに涙を流し、人間を美化しているために、そういう現象が起きるのである。

このようなパラドックスが働くために、本来は、低賃金で重い労役からいつまでも逃れられないプロレタリアートを解放するために起きたはずの社会主義革命が、人間をより強固に奴隷的労働の枷の中に閉じ込めて行く檻となったのである。同じ逆説が、カルト化した教会から信徒を救うと言って始まったはずの牧師による救済活動が、信徒をよりひどいカルトの危険にさらしつつ、無差別攻撃し、教会から抜け出せないようにがんじがらめにして行くというものになるのである。

彼らは「可哀想な人々」に同情の涙を流し、人の弱みに上から助けの手を差し伸べることにより、実際には、抑圧された状態を神聖視し、人の罪や、弱みを美化して、そこから人々が抜け出すことが決してできないように仕向けているのである。この偽りの思想に欺かれた人々は、弱者のユートピアという、決してやって来ることのない嘘の理想郷の夢と引き換えに、自主的にあらゆる権利を放棄して、自己犠牲を耐え、宗教団体に献金をし、無償で奉仕をしたり、果ては奴隷的囚人労働にさえ喜んで赴いて行くのである。

だから、こういう偽りの弱者救済の思想が引き起こす矛盾に満ちた現象は、宗教団体であっても、政治的組織であっても、国家であっても、基本的には変わらない。筆者はクリスチャンであるにも関わらず、地上の組織としての教会は、キリスト不在の、牧師という人間の指導者の統治する悪魔的な場所となっているという見解を幾度も述べて来たが、地上の組織としての教会が教えているのは、「人が救われて神に到達するために精進する方法」である。霊的ヒエラルキーの階段を上り、いつかは神に到達するためにこそ、献金や奉仕や学びが奨励されるのである。だが、それは結局、プロレタリアートの国を作り、労働に励むことで、いつかは共産主義ユートピアが到来すると信じた人々の自己救済の努力と何ら変わらない、人間が自力で救済にあやかろうとする終わりなき努力なのであり、聖書の神の提供する救いに本質的に敵対する悪魔的思想なのである。

だからこそ、人が救われて神を信じるために足を向けたはずの教会が、信徒から法外な献金を巻き上げたり、気に入らない信徒を呪ったり、悪魔扱いして追放したり、障害者や、病者や、元ヤクザや、元カルト信者を看板のように売り物にして、伝道を繰り広げたりするといった、歪んだ組織に成り果てたりするのである。それは、そこで提供されているものが、もともと、自分一人では神を求めることができないと考える弱者の弱みにつけこみ、弱者の心を甘言でくすぐり、彼らを美化し、助け手やるように見せかけながら、彼らをダシに己の権勢と利得を追求したいだけの人々が、神を口実にして、永久に彼らを食い物にするために作り出した偽の救済システムだからである。

だから、そういう組織は、自分一人では、決して救済を求めることができず、一人では生きられず、常に誰かの助けや慰めを必要とする人間が、寄り集まって、互いの弱さをかばい合い、弱さを美化して自己肯定感を得るための場所となっており、そのために、そこに集まった人々は、自らの抑圧された状態を美化し、神聖視して、己が不幸に酔いしれて涙を流し続けるのである。

そのようなことをしている限り、彼らの目指す解放は、絶対にやって来ることのない嘘の約束で終わる。そういう場所で、「神聖視」されているものは、人間の抱える弱さであり、罪であり、被害者意識であり、抑圧された状態であって、自由でも、解放でもない。解放は、未来にやって来るかのように各種の謳い文句として掲げられてはいるが、虐げられた哀れな状態を美化する人々がそれに到達することは絶対にない。

結局、教会にある「教え」とは、ソビエト政権が行った「労働による再教育」とカラクリは同じで、生涯、雇用主との関係から逃れられないプロレタリアートを養成するのと同じように、生涯、宗教指導者から離れられない信徒を養成するための再教育の仕組みである。救いに到達したい(≒自分はまだ救われていない)という弱みを持つ人々に、偽りの救済を提供することによって、いつまでも解決を与えないで、弱みを持つ人々から利益だけを搾り取る仕組みである。だからこそ、そこでは牧師(≒官僚)が特権階級として各種の利益を享受している一方で、平信徒(≒一般国民)は彼らに献金と無償奉仕を貢ぐ存在として、終わりなき精進を求められているのである。

むろん、本来、信徒は信仰を持った時点で、すでに救われているのだから、それ以上、救いを求めて精進する必要などないのだが、「教会を離れれば救いを失う」と脅されているために、奉仕や献金をやめれば信仰を維持できないように思わされ、恐怖のために、そこを出られなくなっているのである。

そして、そんな臆病な信徒たちを騙すがごとくに自らの生活の糧を得る手段として利用している牧師たちは、そんなにも立派な教師や人格者なのかというと、それはない。そのほ多くは、村上密自身が、自らの反対者について書いた批判内容のあまりの一方的な決めつけと根拠の薄さ、感情論を読めば分かるように、自分が批判されることにも全く耐えられないほどの未熟者である。

かつてある人が、プロテスタントの牧師には、人格的に未熟で幼稚な者があまりに多いと語ったが、筆者にも同感できる部分が多々ある。若くして、大した人生経験もないまま、自分の教会を任され、一国一城の主のようになって、自分よりもはるかに年上の信徒から敬われ、誉めそやされながら、人生の早い時期に「先生」として持ち上げられることに慣れてしまえば、高慢になるのは無理もない。牧師家庭に婿養子に入って牧師になった者や、二世三世の牧師が、親の七光りと親族のコネを利用して神学校に入り、二、三年、勉強したというだけで、信徒とは別格の存在となり、自分は神の御言葉を取り継ぐ偉大な聖職者だという自負に落ち込むのだから、自惚れにつける薬がなくなるのも当然である。

そのように幼稚で未熟な人間が、事実上の現人神のようになって、信徒に君臨し、栄光を受けている呪われたシステムの中で、信徒がどんなに奉仕と献金に励んだとしても、そこで神を見いだすことは決してなく、高慢になって罪に罪を増し加えるだけで、救いから遠のいて行く一方であろう。

だから、プロテスタントに少数の潔癖で良心的な牧師が仮に存在したとしても、教職者と平信徒の差別的な階級制度を固定化している以上、教界組織には未来がないと筆者は判断するのである。

さて、労働に話を戻せば、我が国における労働にも、教会と似たような効果があると思われるのだ。筆者は、人が働くことに伴う楽しさもないわけではないと思うが、それにしても、我が国における労働の賛美は異常である。日本にはソビエト社会と同じほど、勤労を美徳として、働くことこそ、まっとうな社会人の証であり、働かない人間は、人間でさえないとみなすような風土がある。ひとつ間違えば、それは自主的な囚人を作り出すための思想教育と同じであり、人間の自由よりも、隷従や、抑圧や、束縛を重んじる本末転倒な思想となる。

そして、見渡せば、我が国の労働市場の現状は、ソビエト政権(あるいは教会)と同じように、人間を組織の存続のために容赦なく選別し、踏み台とし、排除する場となっている。社会主義国が、事実上、プロレタリアートを神聖視していたのと同じように、我が国も、労働者を美化することで、これを永久不変の人間のあるべき姿のように目指していると感じられてならない。

だが、こうして人が自由を奪われて抑圧された状態を、望ましい理想のように掲げている限り、我が国における労働は、年々、ますます苦役としての様相を増し加え、勤労者が不憫で気の毒な状態から抜け出せる日も来ない、と思わざるを得ない。

ソビエト政権は、囚人労働まで使って国力を維持しようとしたが、それで国が豊かになることはなかった。ソ連の貧しさ、発想の貧困は、今でも当時を知る人々の記憶にとどめられている。そういう体質、風潮は、今日のロシアにも残っている。なるほど見かけは街や商品が美しくなったように見えるかも知れないが、ソ連時代に教育されて人々に植えつけられた気質は、そう簡単になくなるものではない。特に、抑圧を美化し、不幸を耐え忍び、自由や解放を自ら拒む精神性は、今でも根強く残っていると感じざるを得ない。

だから、結論を述べると、今回の記事では、共謀罪というものは、筆者の目から見れば、すでにずっと前から社会主義国である我が国が、およそ全ての社会主義国が辿った必然的な過程を進む中で登場して来たものに過ぎない。つまり、共謀罪という法案は、国民の自主的な囚人奴隷労働のシステムの完成のために現れて来たのである。

共謀罪の根底には、国家の威信強化のため、官僚制の維持と、大企業の利益と存続のために、我が身を資材として積極的に投げ出す覚悟のない、プロレタリアートの自覚がない人間は、この国の国民としてはふさわしくないので、財産を没収し、強制労働に従事させたい、という意図があったとしてもおかしくない。歴史上、似たようなイデオロギーを持った別な国ではすでに大規模に行われたことであるから、これを妄想として片付けるのは早すぎるであろう。


・人間の定める恣意的な「罪」の概念に振り回されることなく、キリスト者が小羊の贖いの完全性に確固として立ち続ける必要性

さて、ここから先は、信仰の話に戻りたいが、ネット上で起きる出来事は、現実生活において起きる事柄について、筆者に多くの示唆を与えてくれた。そこから学んだ大きな教訓の一つが、人間の考える罪の概念と、神の定める罪の概念の大きなズレであった。

特に、もし共謀罪などというものが成立すれば、そこで定められる「テロ」やら「罪」の定義は、人間が恣意的に解釈するものとなるため、その結果、この法に基づいて、罪人が罪人を罪に定め、万人の万人に対する告発と闘争のような、醜い泥仕合が持ち上がる可能性がある。

だが、たとえそのようにして、人間が人間を訴え、互いに告発し合う、修羅のような社会が広がったとしても、信仰者に必要なのは、ただキリストの義認の永遠性に立脚して、悪魔のいわれない脅しに毅然と立ち向かう姿勢であると筆者は確信している。

人間による罪の定義は、偏っており、不公平で、不完全である。社会は、人間の心身を傷つけ、人間の気分や名誉を害することだけを罪と呼んで、社会的立場が低い者が傷つけられても声をあげない一方で、社会的立場が高く、人々の尊敬や注目を集め、大勢の味方がいる者が傷つけられる時には、我が事のように立腹し、声を上げる。

人はただ自分の心境がいたく傷つけられ、自分の名誉や利益が少しばかり損なわれたというだけの理由でも、他人を罪人呼ばわりし、存在しない嫌疑をかけて誹謗したり、過剰な報復行為に及んで、集団的に痛めつけたりもする凶暴な生き物であるが、ただ人間が傷つけられたというだけの理由では、本当の意味で「罪」と呼べないことは、聖書の御言葉に立脚して主張して行けば分かることである。

人間は、罪について、どこまで行っても、不公平な定義と判断しかできない。だが、神はそのような見方を全くなさらず、人を偏り見ず、しかも、人間の心証を害することを罪とせず、ご自分の御言葉を曲げることを罪とみなされる。

だから、我々は、真に「罪」と呼ばれるにふさわしいものは、一体何なのか、ということを常日頃からよくわきまえておく必要がある。そのことによって、自分自身の身を守ることができるのである。

特に、聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを告発する者」であるから、信者をあることないこと、日々、訴えることをその仕事とし、よすがとしている。これに対して、信者がただ手をこまねいておとなしくその言い分に耳を傾けているようでは、信者には義認の感覚もなくなり、生きる道すらも残らないであろう。

悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るだろう、という聖書の御言葉が言うのは、この訴える者のいわれなき嫌疑には、毅然と「立ち向かう」ことが必要だという意味であるが、それは「反駁しなさい」という意味を持つと同時に、「悪魔の有罪性を指摘して追い払いなさい」という意味をも含んでいるものと筆者は解釈する。

人があらぬ告発に対して自分を弁護し、自分の正当性と相手の不当性を訴えようとする時には、一定の技術力が必要である。論戦は、格闘技と同じであり、自分が向き合っている相手の特徴と弱点をきちんと見抜いて、取り組み方を考えることが必要である。

あらゆる戦いには防衛と攻撃とがあり、キリスト者の自己防御のためには、小羊の血潮によって保証された自分の潔白と神の守りを微塵も疑わないでいられる揺るぎない信仰が必要となる。信者の攻撃のためには、信者は、真に神の御前で罪とみなされるものは何か、という事実をきちんと踏まえ、悪魔の有罪性を確信し、これを容赦なく追及して訴え、退かない姿勢が必要となる。この防御と攻撃の両者が上手くかみ合えば、どんな者を相手にしたとしても、信者は揺るがされることはない。

キリストが地上におられた時、立派な宗教家である律法学者やパリサイ人たちは、常に御子を罪に定めようとして論戦を挑んだが、キリストはかえって彼らの有罪性をはっきりと指摘された。

筆者がこれまでの経験から分かるのは、人をいわれなく脅し、中傷し、罪に定めようとするような人間は、多くの場合、彼らこそ良心が汚されており、自分は有罪であるという事実を、心の深いところで知っているので、自らの悪事が見抜かれ、暴かれる前に、自分を訴えることのできる潔白な人間をいわれなく罪に定めることで、自分を守ろうとしているだけである。

だから、彼らの良心がすでに汚されているという事実をこちら側が理解し、彼らの弱点に対して彼ら自身が使っているのと同じ方法を適用して、彼らの有罪性を指摘すれば、ほとんどが退散するしかなくなる。

なぜなら、人の自己弁護は、その人の良心が本当に曇りなく明らかでないと、できないからである。罪人も自己弁護するし、悪事を言いぬけようとする。だが、彼らは良心が潔白でないため、自分に対する全ての有罪宣告をことごとく覆すことができるような信念の持ち合わせはないのである。

罪にとらわれている人間は、罪の奴隷であり、打撃が加えられ続ければ、必ずどこかの時点で妥協する。それが罪ある人間の生まれ持った弱点である。

ソビエト政権下では、スターリンによる大粛清の期間には、秘密警察のそれぞれの地域の組織に、逮捕者数のノルマ、銃殺者数のノルマ、強制収容所送りの囚人数がノルマとして極秘に割り当てられた。各地域の秘密警察は、国民の一定数に不当にテロリストの容疑をかけて、逮捕し、拷問により自白を引き出し、あるいは銃殺するか、あるいは強制収容所送りにするか、これを職務上のノルマとして遂行することを求められたのである。

この大量逮捕を実現するために、国家規模で、国家転覆を目的とした大規模なテロ犯罪の容疑がでっち上げられた。スターリンに好ましくない政界の大物を中心として、大規模な秘密のテロ計画があったことにされ、その末端に位置するとの容疑で、一般国民が大量に巻き込まれて逮捕されたのである。

逮捕された中には学生もいれば、アルバイト中の労働者もいれば、主婦もいれば、教師もいた。全くごく普通の生活を送る人々が、突如、職場で、あるいは自宅で、あらぬ容疑をかけられ、あるいは就寝中の真夜中に秘密警察に踏み込まれ、家族の前で連れ去られたのである。だが、そんな不当逮捕にも関わらず、多くの人々は、身内がテロリストの嫌疑をかけられて、警察に連れ去られたことを社会にひた隠しにした。抗議すれば、自分自身も同じ道を辿るだけであると分かっていたからである。隣人や職場の同僚であっても、苦難を分かち合うのは無理であった。そこで、夫を秘密警察に連れ去られた妻が、勤め先では、夫は愛人のもとへ走って自分を捨てたのだと触れ回った例もある。夫が収容所から戻って来た初めて人々は事実が何だったのか理解した。

逮捕された人々の多くは、過酷な拷問や、心理作戦に耐えられず、取調べの途中で司法取引に応じ、当局に指示された通りの嘘の供述、嘘の自白をして、供述書にサインして、自ら犯してもいない犯罪を認めた。その中には、家族や知人に迷惑をかけたくないので取引に応じたとか、親しい誰かに裏切られたショックに耐えられなかったとか、様々な理由があり、人々の心理を熟知した上で、取調官は、できるだけ早く自白を引き出すために、彼らの尋問に当たったのである。

筆者が不思議に思うのは、もしソビエト当局が、警察に逮捕者、銃殺者、強制収容所送りのノルマを課すなら、初めから有無を言わせず有罪という結果を人々に押しつけることもできたはずであり、なぜわざわざ人を痛めつけ、恐怖を抱かせるという手の込んだ手法を使ってまで、時間のかかる嘘の自白を強要したのだろうか、という点である。そこでは、あらゆる証拠よりも、自白こそ最も有力な手がかりとされたわけだが、容疑のみならず、供述書も、果ては自白すらもでっちあげられる状況で、なぜ彼らは嘘の自白の有無にそれほどこだわったのだろうか。

ここに、明らかに国家権力の側からの一方的な暴力だけでなく、人々がそれにどう応じるかという自主性を確かめる余地がある様子を見る。不思議なことに、人間の人生には、特に残酷な時代には、多くのことが、抵抗できない不可抗力のように降りかかるように見えても、実は、その中にも、一抹の自己決定の余地が残されている場合がある。そして、この一抹の関与の余地にどう応答するかが、人にとって極めて重要な問題なのである。信仰者にとっては、これこそ、悪魔の嘘に対して、どう応答するのかを示すとても良い機会なのだ。

以上のような、ソ連で行われたでっちあげの大規模テロ犯罪の容疑と、それに伴う国民の大量逮捕などという恐るべき出来事は、今日の日本には起きない、と人々は言うかも知れない。だが、共謀罪は、そのような国家規模の捏造された事件を生まない保証はなく、さらに、類似した事件は、はるかに小さい規模で、信者の人生には毎日のように起きている。

信者は、毎日、毎瞬、訴える者の告発や脅かしに対してどう向き合うかという選択を迫られているのである。そして、筆者がここで言えるのは次の通りである。

信者は、本来、自分に効力を持つはずのない、魔法のようにいい加減な他人の言葉を信じず、人間が恣意的に定めただけの不安定な罪の概念をも信じず、永遠に変わらない聖書の御言葉が何を言っているかだけに立脚して物事を考える必要がある。

人間は過ちの多い存在であるが、それにも関わらず、キリストの贖いの血潮の効力が永遠である以上、血潮により頼んでいるキリスト者を罪に定めることのできる者は、地上に誰一人としていないのである。その事実は、信者がそこに立ち続けるなら、信仰を通じて現実世界にまで波及する。これが分かると、キリスト者の生き方は変わるであろう。

筆者は上記で、社会主義国が賛美していたプロレタリアートとは、人間の抑圧された状態であって、労働を賛美する人々は、己の罪なる呪われた状態を賛美しているのにも等しいということを述べた。別の言い方をすれば、己の罪を己の努力によって贖う終わりなき苦役を、彼らは賛美しているのであって、労働とは、人類による決して叶うことのない自己救済の方法なのである。

今日、事実上の社会主義国である我が国においても、同様の思想が奨励され、教会に所属している信者が、所属していない信者を見下して、自分は救われており安全だと誇るのと同じように、正社員になったとか、役員になったとか、理事になったとか、どこの団体に所属しているとか、どんな立派な企業や組織に身を置いて、どんな立場や肩書を持って、どれほどの俸給をもらっているかに立脚して、己の完全性を誇ろうとする者は多い。

だが、そんな彼らの義認は、彼らの所属先が奪われた瞬間に、はかなく消え去るであろう。もともと、人間に過ぎない者が、己の罪を自分の努力によって贖うことはできず、所属団体に尽くしたことによって免罪してもらうのは無理なのである。

だから、生まれながらの罪人は、どのように自己救済の努力としての労働を褒めたたえ、自分を選民だと豪語し、己の権力によって他者を脅かし、踏みつけにしようとしても、もしその人間が、救いを知らない単なる罪人であるなら、あるいは、神の御言葉を知りながら、それに従わない罪人であるなら、彼らは結局、自分の罪の奴隷でしかないのである。

そうである限り、罪の奴隷である人間は、一歩たりともその終わりなき贖いという苦役の外に出られない。たとえ無限大の権力を誇っているかのように振る舞い、どんなに支持者が数多くいても、その強大な権力は単なる見せかけであって、彼は自分自身の罪に束縛されて、そこから自由になれず、罪の中に生き、死んで行くしかないのである。その本質を見抜けば、彼らの限界がはっきりと理解でき、その人々が振り回す恣意的な「罪」の概念による脅しは、嘘のように消えて行くだろう。

だから、当記事では、共謀罪の成立を全力で阻止せよという政治的な主張を述べるよりも前に、悪魔的思想に息吹かれた人々が、どんなに無実のクリスチャンを訴え、迫害しようと願ったとしても、クリスチャンには、これを超越するだけのキリストの義認がある、という事実を語ったのである。共謀罪などというものが成立しようとすまいと、小羊の血潮の過越の中にある信者には、悪魔は手を触れることができないのであり、かえって、聖徒を罪に定めようとする人間の方が、それによって罪に定められることであろう。共謀罪が想定する罪状が千になろうと、一万になろうと、それは変わらない。

もともとあらゆる法体系は、人間の良心から出て来たものであり、書かれた文字が全てなのではない。法には、それを超える人間の見えない良心の体系が存在する。最近、イタリアの最高裁では、飢えた者が少量のパンを盗んでも罪には当たらないという判決が出されたそうだ(「「飢えた時、食べ物を少し盗むのは罪ではない」イタリア最高裁の判決とは」 ハフィントンポスト 更新: 2016年05月12日 12時35分 JST )が、それもまた、法の適用にはどんなものであれ、例外が確実に存在することと、法とは本来的に、人間の良心に照らし合わせて解釈すべきものだということを表しているに過ぎない。

そして、人間がどんな悪法を定め、どんなに厳格にそれを人々に適用しようとしても、それは決して律法以上の効力とはならない。この律法による罪定めをキリストは廃棄して、ご自分の霊を通して、律法を信じる者の心に焼きつけたのであるから、この律法によって裁かれ、律法に対して死んだキリスト者は、もはや律法によって罪定めされない自由を持っているのである。だから、キリスト者こそ、本当の意味で、この世の法体系を超える超法的な存在なのだと言って良い。地上にどんな法があっても、キリストに連なる信者を罪に定められる法は事実上、存在しない。小羊の贖いの義認は、この世の全ての体系を超えるのである。

逆に、懸念されるのは、カルト監視機構に賛成していたような教会の行く末である。もしもこの先、キリスト教が「政府に逆らう危険な宗教」と認定されて、信者が教会に集うこともできなくなれば、「教会を離れれば救いを失う」などと言っていた信徒たちは、どこへ行くのであろうか。何しろ、エキュメニズムなどというものが存在する教界であるから、その日には、彼らは「神はキリスト者だけの神ではなく、統一教会の信者の神でもある」などと言って、統一教会にも喜んで合流して行くかも知れない。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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