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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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子たる身分を授ける霊

主にある大切な姉妹へ

今すぐ姉妹のところへ飛んで行って、全てのことについて喜びを分かち合えたらと願います。こんな時、顔と顔を合わせて語り合うことができないなんて! けれど、主の栄光の御名を誉めたたえます。今はただそれしか言えません。ひざまずいて主を誉めたたえます。

万事の中に生きておられる主、私たちを守り、私たちのために、どんな時でも、最善をなして下さる主を、昨日、確認することができました。昨日は、全ての事 柄が主の御手の中にありました。主が私たちの思いを超えて働いて下さり、無力な私たちに代わり、最善の策をなして下さったことを信じています。ただ全ての 命が守られただけでなく、私たちの兄弟がいかに主に愛され、守られているかを知ることができたのも感謝です。さらに、ユーモラスで、はかりしれない知恵に 満ちた天のお父様は、予想していなかった休息のひと時を、私のためにお与え下さいました。

神は私たちのような有限な者、弱い者に、真理を宣べ伝える仕事をまかされました。弱すぎる私たちには、何もできないというのに、なぜ神はこれほどまでに、 無に等しい私たちに目を留めて下さるのでしょうか。どうして尊い福音を、こんな虫けらのような者に委ねられたのでしょうか。不思議きわまりないことです。 全ては主の功績です。今後も、全ての出来事が、主の栄光を表すものとなるよう、切に願います。良いことも、悪いことも、主にお委ねします、全てが天の御父 に栄光を帰する機会となりますように…。

キリスト教は罪定めのための宗教ではありません。イエス様は罪人を赦し、羊に命を与えるために、しかも、豊かに命を与えるために、この世においで下さったのです。真理の御霊は私たちを自由にします。キリストにある者は、もはや「再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けた」(ローマ8:15)のです。

なのに、クリスチャンが互いに裁きあい、罪定めし合い、互いを再び、律法でがんじがらめにして、恐怖の奴隷となり、自ら死と呪いの下に服したりする理由が どこにあるのでしょうか。多くのクリスチャンが、真理を退けて、善悪の路線で、今も、果てしない戦いを戦い、ぼろぼろになっているのは、どういうわけなの でしょうか、そんな必要はないのです。

なぜなら、キリストにある命の御霊の法則は、私たちを罪と死の法則から解放した、と御言葉が宣言しているからです。肉の思いは死でしかありませんが、キリ ストと共なる十字架を通して、私たちは、この肉に対して、すでに死んでいるのです。主と共なる十字架によって、私たちは肉を支配する罪と死の法則から解き 放たれ、肉の思いである死からも解放されて、今や、霊の思いである、命と平安の中を、御霊による自由の中を歩む権利を得ているのです。

放蕩息子は、今や御父の胸の中に飛び込みました。彼はもう孤独ではありませんし、罪に定められることはありません。御父は彼の涙を拭い、彼に新しい衣装を着せ、彼を豊かな食べ物で飽かせ、彼のために祝宴を開き、私たちは神の子供としての身分を授ける霊を受けたのです。

私自身、この真理に、いつも立ち帰りたいと思いますし、この真理を、クリスチャンはもっともっと受け取って自由になって良いし、神の命の豊かさを味わって 良いのではないかと思います。それが天の御父の私たちに対する御心であると信じます。どうかもっと多くのクリスチャンが主の憐みを受け、私たちが御霊に あって、真に自由とされて、律法による罪定めと死から解放され、命と平安の内を歩み、神の満ち満ちた命の豊かさを、この地上でも、受け取ることのできる、 幸いな者とされますように!

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安とである。なぜなら、肉の 思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は神を喜ばせることができない。

しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。<…>もし、キリストがあなたがたの内におられ るなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に 宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生か してくださるであろう。

それゆえに、兄弟たちよ、わたしたちは、果すべき責任を負っているものであるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、も し、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受け たのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしし て下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なの である。」(ローマ8:1-17)


大切な姉妹、今日も、姉妹が守られるよう祈ります。苦難の中にあっても、私たちはキリストと共同の相続人です。

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブ1:12)

私が弱音をこぼした時に、姉妹が語って下さったこの御言葉が、私にとって、どんなに慰めとなっているでしょう。主にあって生きるならば、私たちにとって、 どんな出来事も、無駄になることはないのです。孤独も、病も、涙も、別離も、迫害も、裏切りも、試練も、全ては主にあって益です。インマヌエルなるお方が いつも私たちと共にいて下さり、私たちを孤児とはせずに、絶えず守って下さることの、言い知れない幸い。兄弟姉妹が、主にあって、常に私と共にいて下さる ことの、言い知れない幸い。地上ではほとんど孤児同然であった私に、主がお与え下さった神の家族を、心から感謝します。

どうか私たちの関わりが、常に十字架を経たものでありますように。主の平安が今日も豊かに私たちに臨みますように。苦しむ者の上に主の慰めがありますように。
 
あなたの妹ビオラより
 
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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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