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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

主と共にカルバリに住む

「神の子が現われたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。」(Ⅰヨハネ3:8)

「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともにぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支 配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」(コロサイ2:14-15)
 

私たちは神の子供たちとして、主の御身体として、暗闇の軍勢から、また、悪しき君の支配下にあるこの世から、絶えず攻撃を受けています。主イエスの語られた言葉を思い出すなら、それは神の子たちがこの世で受ける当然の扱いであるのが分かるでしょう。

「もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろ う。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのであ る。」(ヨハネ15:19)

主は、私たちが神によって選び出され、この世のものでなくなったがゆえに、この世から愛され、歓迎されることはなく、むしろ、憎まれ、追いつめられるであ ろうことを告げられました。時に、この世は、思いもかけない、激しい憎しみを私たちに向けてくることがあるかも知れません。それは、私たちの弱い肉体や、 弱い心や、私たちの生き方や、魂の命そのものに対する攻撃となって現われるかも知れませんし、この世が私たちから居場所を奪い、孤独や、生活苦が追い迫っ て来るかも知れません。さらに、人間の知恵と力によって結集された宗教的な勢力は、人手によって造り出された人工的な命として、キリストのよみがえりの命 に常に敵対しています。このことを知らない、敬虔な信徒を名乗る人々を通して、迫害がやって来ることもありえます。このような時、私たちはどのようにして それに立ち向かえば良いのでしょうか。

もしも私たちが罪を犯したときには、子羊の血が用意されています。大祭司なる主イエスが天において絶えず私たちのためにとりなしをして下さいます。御霊も私たちの弱さを助けて、とりなしをして下さいます。

「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、私たちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」(Ⅰヨハネ2:1-2)

私たちが子羊の血によって義とされるのは、今まで通り、不義なる生活を続けるためではありません。私たちを罪から離れさせる力が、キリストの十字架にあります。キリストの十字架が、私たちを罪に対して死なせ、義に対して生きる者とするのです。

「…わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」(Ⅰペテロ2:24)

羊のようにさまよっていた私たちは、魂の牧者、監督者のもとに立ち帰り、自分で義を全うしようと、疲れ果てるまで努力するのをやめて、ただ十字架を通して、キリストの義を受けて、その義の中に住み、キリストの下さる平安の中で魂の安らぎを得ます。

ですが、私たちが自分から罪を犯して苦しむのではなく、暗闇の勢力から思いがけない攻撃を受けて、義のために苦しむときには、どうすれば良いのでしょう か? その時、私たちは、自分はキリストと共に十字架で死んだという霊的な事実の中に踏みとどまります。そして、キリストがカルバリで暗闇の全ての勢力を 打ち破り、もろもろの支配や権威を、凱旋の行進に加えてさらし者にして下さったという、キリストの勝利によって対抗します。

私たちを訴える者がやって来て、さまざまな非難の言葉をささやくかも知れません。その時、自分で自分を弁護しようとしても、勝てません。一つの非難は当 たっていなくとも、もう一つの非難は的中しているかも知れません。どうして私たちが自分で自分を義とすることができるでしょう? 私たちは自分が罪人であ り、自己弁護しようとする自分の言葉さえも、汚れていることを発見します。預言者イザヤもこう言ったのです、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」(イザヤ6:5)

しかし、私たちはいつでも、真の弁護者のもとに身を避けることによって義とされます。私たちは、生まれながらの姿においては、自分が万死に値する存在でし かないことを知っていますが、子羊の血によって、また、カルバリにおけるキリストの十字架の中に踏みとどまり、キリストの死とよみがえり、キリストの勝利 を提示することによって、暗闇の勢力の計略に対抗することができるのです。

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(ローマ8:1)

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。 」(ローマ8:34)


(卑近なたとえかも知れませんが、印籠を持たない水戸黄門は、たとえ水戸黄門を名乗っていても、誰も水戸黄門であるとは認めないことでしょう。印籠が、水戸黄門を水戸黄門たらしめているのであり、印籠なしの水戸黄門は、ただの弱々しいおじいさんに過ぎません。

同様に、私たちキリスト者をキリスト者たらしめているのは、カルバリで死んでよみがえられたキリストとの信仰による結合だけです。もしも、私たちが十字架 のキリストとの合一という、霊的な印籠を捨てて、キリストの御名の外に踏み出し、自分の何かに頼って己を義としようとするならば(それがたとえ主のための 自己犠牲や、自分の長所や、あるいは弱さであっても)、暗闇の全勢力の訴えの前で、私たちを義とするものは何もなく、私たちは敗北を喫する他ないでしょ う。)

ですから、サタンが燃え盛る火の矢を私たちに向かって放つとき、私たちは、子羊の血と、主と共なる十字架によらずして、それに対抗することはできません。 しかし、この地上を生きている限り、あたかも、私たちの周りには、そして、時に、私たち自身の目にさえも、自分はまるで死んでいないかのように見えるで しょう。私たちは、脆く、弱い土の器のままであり、自分が依然として、あらゆる点で、神の目にも、人の目にもかなわない、不完全な存在であることを知って います。

世は尋ねるでしょう、私たちとキリストとの合一はどこにあるのかと? 世の人々は私たちとキリストとの結合を認めようとしないでしょう。人々は、私たちの 絶えず追いつめられている、みすぼらしく、弱々しい姿を見て、それが、キリストの似姿からは、あまりにもかけ離れていると言って、私たちの信仰の弱さを非 難するでしょう。世は、私たちの生き方には、神の力強い勝利の働きや、平安が見られないと言って、私たちの苦しみは自業自得であると断定するかも知れませ ん。世の人々は、私たちがいかに非難を受けて当然の存在であるかを強調し、私たちは再び、はりつけにされるのが、当然だと言うでしょう。むしろ、私たちが 本当に主の民であるなら、十字架を避けることができたはずであり、それをしないのはおかしいと言って、踏みにじられている私たちの弱さをあざ笑うでしょ う。

しかし、たとえ多くの人が、私たちの身にふりかかる苦難を見て、それを恥と考えて離れて行ったとしても、それでも、私たちはカルバリの主との合一のうちに 踏みとどまります。それは、主が弱さのうちに栄光をお受けになられたことを知っているからです。神の評価は、世の評価とは正反対なのです。キリストは徹底 的に世から蔑まれ、追い出され、罪定めされ、神であられたのにその栄光の御姿を捨てて弱くなられたがゆえに、神の評価を受けられて、天で栄光をお受けにな られたのです。

「すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。」(Ⅱコリント13:4)

私たちは、死という究極の弱さを担われたキリストのうちに、信仰によって踏みとどまります。もしも私たちが主と共に死ななかったのならば、主が今、私たち のためによみがえりの命となって、私たちを生きて下さることもなかったでしょう。けれども、私たちの信仰を通して働いて下さる御霊が、私たちがすでにキリ ストと共に死んだことを証しています。

私たちが死んだなら、今もこうして生きているのは、どういうわけなのでしょうか? それは信仰を通じて働く主のよみがえりの命によります。「わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:20)

私たちはキリストと共にカルバリで霊的に死にました。主の肉体が永遠にカルバリで死に渡されているように、私たちの罪なる肉体と古き命も、カルバリで永遠に死に渡されているのです。

暗闇の軍勢は、何とかして、私たちの肉や、生まれながらの命が、まだ十字架で「死んではいない」こと、今も「生きている」ことを強調しようとするでしょ う。なぜなら、彼らは、私たちの生まれながらの命の中には、神によって義と認められるものが、何一つないのを知っているからです。もしも、私たちがアダム の命によって生き、アダムの命によって義とされたいと願うなら、私たちには、ただ罪に定められ、死ぬほかの道は何もないことを、彼らは知っています。

ですから、暗闇の勢力は、何とかして、私たちの注意を十字架から逸らし、十字架を経由せずに、アダムの命を延命し、守らせようとするでしょう。私たちが、 自分の生まれながらの命を惜しむように仕向け、生まれながらの命が十字架に死に渡されるのを拒み、自分で自分をかばうように仕向けるでしょう。私たちは攻 撃にさらされ、私たちの性格や、行いが、あらゆる点で非難され、あげつらわれることがあるかも知れません。私たちは追いつめられ、見世物のようにされ、弁 明を求められ、全世界が、再び、私たちに対する死刑宣告を持ち出して、私たちを罪定めし、十字架ではりつけにしようとするかも知れません。

しかし、私たちは、その時、ただ従容と十字架へ向かいます。たとえ全てのクリスチャンが、私たちの弱さのゆえに、私たちを見捨てたとしても、十字架に向か います。それは、十字架という、この世から見れば、完全な敗北の中に、神の勝利があることを知っているからです。彼らが非難している「私」そのものが、カ ルバリの十字架で、主と共にすでに死んだという霊的な事実に立つからです。私たちは主と共にすでに刑を受けて、今や、あらゆる罪状から解放されて、義なる キリストの新しい命の中を生きているのです。

世は依然として、まことのクリスチャンを罪定めするでしょう。私たちの罪状が今も「生きている」ことを立証しようとするでしょう。しかし、私たちは罪に定 められる自分の古き命そのものを十字架で拒みます。私たちの師が世から追い出され、最大の恥辱を負って、十字架につけられたのに、その僕である私たちが、 どうしてこの世で栄光を受けるなどということがあるでしょう? 

「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。」(Ⅰペテロ4:1)

「…イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではないか。」(ヘブル13:12-13)


私たちは苦しみを受けることがあっても、大胆にこう言うことができます。たとえ私たちという土の器が破壊されたとしても、その内にある神のよみがえりの命 を破壊することは、誰にもできないと。さらに、世が非難している「私」は、どこにあるのでしょう? 私は神によって裁かれ、終日、ほふられている子羊と共 に、今も、カルバリでさらしものにされているのです。私に対する刑罰は、キリストを通して執行されたのです。神が刑を執行されたのなら、誰が二度と、私を 裁くことができるのでしょうか? 

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」(ローマ8:33)

私は死んで、今、生きているのは、もはや、私ではない。死刑囚としての私は、永遠に主を通して十字架につけられ、今、キリストが私のために義と聖と贖いとなって生きておられるのです。

だから、思いがけない試練が火のように降りかかる日にも、私たちは主の事実に立ち、カルバリを住処とし、キリストのよみがえりの命に生きていることを、絶えず、信じるのみです。その時初めて、この世は私に全く手を触れることができなくなるのです。

「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:3)

この世を生きる限り、私たちの肉体は、あたかも死んでいないかのような事柄の連続に遭うでしょう。私たちは 追い詰められ、迫害され、きりきり舞いし、絶えず、神の命から、神の愛から、引き離されそうになっているかのようです。もし私たちが、この地上で自分の命 を守り、自分のために、何かを「獲得する」ことが、神に愛されている証拠であるとみなすならば、私たちほどに、神の愛から遠く見放された、貧しい人間はど こにもいないと言えるでしょう。

しかし、神は私たちを愛するがゆえに、まず、ご自分の方から率先して、ご自分の命を捨てて下さったのです。キリストは地上でその命を注ぎ出すことにより、 私たちへの愛を示して下さったのです。キリストがその肉体の死によって、私を神の愛の中に引き入れて下さった以上、神の愛から私を引き離すものは、何もな いのです。私をあがなうために、最大の犠牲がすでに払われたのです。

神の愛がそのようなものである以上、私もまた、神の愛のうちに自分自身を絶えず失うことによって、神の愛に応えたいと願うのです。そして、キリストと共に死んだ以上、私の命そのものが、すでに神の愛の中に失われているのです。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。

『わたしたちはあなたのために終日、
死に定められており、
ほふられる羊のように見られている』
と書いてあるとおりである。

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:35-39)


人間の努力や、善意や、魂の愛(友愛等)により、万物を、人々を一つにすることはできません。そのような人工的な「統一」を目指す人々にとっては、十字架 の言葉はただ愚かにしか聞こえないでしょう。しかし、私たちは神の愛に満ちたご計画の中で、御旨によって、キリストの死とよみがえりの証人として、神の民 として選び出され、一つの身体とされました。キリストの十字架こそが、全ての敵意と隔てを取り除き、万物を一つに帰せしめる唯一の道なのです。それが神の ご計画なのです。「神は、天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされた」(エペソ1:10)のです。

私たちは十字架を通して神と和解し、兄弟姉妹と和解し、一つの御身体とされます。キリストの十字架を通して、神の愛の中に導きいれられている限り、この世 のどんな被造物も、神の愛から、私たちを引き離すことはできません。十字架を通してつなぎ合わされている以上、どんな肉の相違点も、兄弟姉妹を引き離すこ とはできません。自分自身の何かによって、私たちは生きているのではありませんし、手をつなぎあっているわけでもありません。今、私たちがこの肉体の中に あって、生きているのは、キリストの復活の霊なる命によるのであり、私たちはこの世に対してではなく、神に対して生きる者とされたのです。


「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼に打ち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。」(黙示録12:11)


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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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