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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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十字架の言葉

 「アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。 」(ルカ16:25)」
 「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

主の御名のゆえに苦しみを受ける時、私たちにはやがて天で受ける慰めと報いがあります。以前は、私も、金持ちと同じように、自己目的の追求の他に、何の生 きがいもなく、サタンに地上の王国を見せられるなら、ただちにそれに従うような者でしかありませんでしたが、幸いなことに、主が私の人生をまるごと焼き尽 くされた時に、そのような土台の上に家を建てる作業は終わったのです。

今、私たちの誇りとするものは、自分自身の何かではなく、ただ十字架につけられたキリスト以外には何もありません。

「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14)

世に対して死んだのですから、もはや、世をいかにして渡るかという目的のために、生きているのではありません。世からの喝采や評価ではなく、神から評価を 受けることが、私たちの目的なのであり、そのために、私たちは、世での栄光をますます失い、弱さを担い、嘲笑や迫害を身に帯びながら、全ての人に対して、 より一層、砕かれて、弱くされ、仕える者とされるために、訓練を受けているのです。

「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わた しがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうち に自分を見いだすようになるためである。」(ピリピ3:8-9)

キリストのうちに私たちが失われゆくこと、それが私たちがキリストのうちに見出されるための秘訣なのでしょう。

神の知恵は、人間にはまことにはかりがたいものです。人間は何とかして自分の努力により、自分の義を立て上げようと苦労しますが、神はそのような人間の知 恵を笑われます。ノアが箱舟を建設していた間、世にいる大勢の人々は、ノアをあざ笑わなかったでしょうか。世にいる人々は、その日が来るまで、めとった り、とついだりし、自分の財産を築き上げていたのです。彼らにとっては、素敵なお婿さん、お嫁さんを迎え、幸せな家庭を築き、仕事に打ち込み、地上でまっ とうな人と認められて、自分の評価を高め、飲み食いし、遊んだりして、人生を思い切り謳歌することが、生きる至高の目的でした。自分の満足、自分の栄光 が、彼らの生きる目的でした。

そこから見れば、ノアの姿は何と滑稽に映ったことでしょうか。彼は当時の世では、ことわざとなり、寓話とされ、笑い者となったでしょう。彼の生きる目的 は、何と世間には異常に見えたでしょうか。世界は滅びるとか、洪水が来るとか、訳の分からない不吉なことを口走り、世の栄光から遠ざかり、世の罪をしきり にあげつらっては、人は神によって救われなければならないと唱え、箱舟建設という、考えられない作業にいそしんでいた彼。そんなノアの姿は、まさに、周囲 の人々から見れば、時代の流れに真っ向から逆らう者、自分たちの喜びと幸せに水を差す変わり者、世捨て人、さらには、馬鹿以外の何者にも見えなかったこと でしょう。

ところが、神はある日、世人の知恵の方を思い切り、嘲笑されたのです。ある日、神はノアの愚かしい知恵を義として高く掲げられ、世人の賢さを、思い切り、罪とされ、恥とされ、はずかしめられたのです。神は「…その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された」(Ⅱペテロ2:5)です。

一体、その時が来るまで、誰が、数え切れない人々の住んでいる「この世」全体が罪と滅びに定められ、この世が認めようともしなかったわずか「八人の者」だ けが、神によって義とされ、かくまわれるなど、想像しえたでしょうか。そんな道理があり得るでしょうか。これはアダムの子孫にとっては、辱め以外の何物で もなかったでしょう。

しかし、そのようにしてでも、神はアダムのもたらした呪いから、人類を救い出されようと決意されたのです。世の多くの人々は、こんな神の知恵は、人間に とっては残酷以外の何物でもないと言うでしょう。なぜ大多数の人々が滅んで、ノアの一家という少数者だけが救われるのでしょうか、そんなのは、神のえこひ いきに違いないと、人々は異議を唱えるでしょう。

世は世にあるものを愛し、世人の命を愛し、惜しむものです。しかし、私たちは、神の裁きは常に正しいこと、神にはえいこひいきはあり得ないことを知ってい ます。ノアもまた、霊的には死んだのです。彼も当時の世の全ての人と同じように、水を経過し、死を経過せねばなりませんでした。世界が水の下に沈んだ以 上、全ての人が滅んだのです。ノアは箱舟の中に閉じ込められ、そこで、霊的な死を迎えました。なのに、どうしてノアは他の人々と違って、生き延びられたの でしょうか? それは、彼が信仰によって義とされたからです。

「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

神は、あらゆる人には、神を信じる信仰以外に、義とされて生き延びる道はないこと、もし人が信仰を捨てて罪に定められるなら、その人には、死と滅び以外の 結末はないことをお示しになっておられます。ノアもまた、アダムの子孫としては死に定められるべき罪人の一人だったのであり、神によって、その当時の人々 と同じように滅びに定められましたが、信仰によって、死から救われたのです。彼は箱舟の中で、万物と共に古き命の終わりを迎え、箱舟の外に足を踏み出した ときには、以前とは全く異なる(復活の)領域を生きていたのです。

そして、今、私たちにとっての箱舟とは、十字架のキリストです。ノアの箱舟はキリストの十字架の予表です。ノアが当時、笑い者になりながら、箱舟を建設し ていたように、私たちも、万物の終わりが近づく中で、世からの嘲笑と非難を浴びながら、十字架のキリストを宣べ伝えています。

今は何という不信仰な曲がった時代でしょうか。パウロの時代に、敬虔なユダヤ人たちがクリスチャンを迫害する側に立ったように、今も、敬虔な信徒であるは ずの人たちが、自ら真理につまずいているのです。クリスチャンが十字架を否定し、平然と同胞を辱める側に回り、和解を拒み、辱められた者の衣服を、十字架 の下でくじ引きしているのです。

多くの人々が、そのようにして十字架を捨てて、御血を捨てて、自分で自分を義としようとして、十字架以外の独自の理論に走って行き、自分の旗を掲げて泥沼 の闘争を繰り広げ、真理の道をそしりました。しかし、そのような道を行く人々の最後は、御言葉によって定められているのです。

彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。<…>彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。」(Ⅱペテロ2:1-3)

わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」(ピリピ3:18-19)

私たちが人前でそしりを受けることなど、何でもありませんが、神の十字架がそしられる時、神ご自身が黙ってはおられないでしょう。クリスチャンが自ら、真 理に敵対する道を歩んではなりません。もしも十字架と御血を否定するならば、私たちには、救いはないのです。ノアの当時、世界が水に沈まねばならなかった と同じように、万物には、神によってすでに終わりが宣告されているのです。たとえ私たちが認めなくとも、主の日は必ず、やって来るのです。

私たちは神の峻厳な裁きに服し、神を畏れねばなりません。私たちにとっての過ぎ越し、私たちにとっての箱舟は、十字架のキリストです。今、神はキリストの 十字架のうちに、私たち一人ひとりをエクソダスさせて下さっています。それは私たちが二度と罪に定められず、新しい命の内に生き、十字架の向こうで、兄弟 として出会い、手を取り合うためです。キリストの十字架以外に、人が命へと救い出される道はありません。キリストだけが真理であり、この道を通らずして、 私たちが生きる方法はないのです。

私たちは神がお認めになられたものが何であるかを、目を開いてしっかりと見る必要があります。神はあらゆる人の知恵を愚かなものとして退けられ、神の御前で、ご自分を誰よりも低くされたキリストだけを、栄光のうちに高く掲げられたのです。

ですから、私の大切な姉妹、神の知恵である十字架から、神の愚かさ、神の弱さであられるキリストから、離れないでいましょうね、このお方が私たちの知恵であり、私たちの命なのです。

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、

わたしは知者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さをむなしいものにする

と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか

この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。<…>

わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。<…>

あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのであるそれは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。」(Ⅰコリント1:18-29)

 
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