忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

悔い改めにふさわしい実を結べ(1)

「われわれの神の手は、神を求めるすべての者の上にやさしく下り、その威力と怒りとはすべて神を捨てる者の上に下る」(エズラ8:22)

「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。 」(黙示録3:19)

「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。」(マタイ18:10)



以下は、チャールズ・アシャー、『十字架に帰れ』、(終末における霊的な備え)より抜粋

私たちはこの時代の終わりの時にいます。時計の針は十二時に近づきつつあります。今は真夜中の暗闇の時です。しかし、最も暗い時こそ夜明け前なのです。

教会は急速に背教の状態へと陥りつつあり、ますます神から遠ざかっています

戦争により、世界は混沌とし、教会は麻痺しました。

暗闇の力が解き放たれ、教会にも世界にも邪悪な影響を及ぼしています

先の戦争は、教会に多くの問題を突きつけました。それらの問題は、世界が取り組んでいる問題と同様、取り扱いが困難です。

キリストの十字架こそ、現在の暗闇を照らす光です
私たちは罪についての新鮮な啓示を必要とします

なぜなら、罪のために私たちは道に迷い、キリストの十字架の死により私たちは神へと買い戻され、回復されるからです。


ペテロ第一の手紙3:18、「キリストは一度罪のために死なれました。それは、私たちを神のみもとに導くためでした。」

多くの人が罪の罪深さに対する感覚を失うのは、彼らがキリストの贖いの死の実際から遠く離れているからです。罪の深さと罪の悲惨さを見ることができるのは、ただ十字架においてのみです

カルバリは、人が神の権威を憎んでいることを啓示します。その憎しみは、かつてなかったほど邪悪で陰険な行ないとなって現われました

十字架は「信仰の試金石である」と言われます。これは幸いにも真実です! しかし、十字架は人の心の試金石でもあります十字架は人の本当の性質を顕わにします

教会は十字架を見失ってしまいました。そのため、罪の罪深さもわからなくなってしまいました教会は、神の光の中で罪を見ることができ、人が「私は主を十字架につけてしまった」と叫ぶよう導かれる場所からさまよい出てしまいました。

今日驚くべき事は、教会の中の罪ですクリスチャンが罪を犯しながら、それを何とも思わないとは、何と恐ろしいことでしょう!

神の民が罪を犯しています

彼らは心の中で罪を犯し、思いの中で罪を犯し、説教壇で罪を犯し、集会所の座席で罪を犯しています。彼らは、カルバリにもかかわらず、また、聖書がさんざん罪の恐ろしさと堕落を啓示しているにもかかわらず、罪を犯しています

神の子供よ! カルバリに立ち返って、罪人の立場に立ちなさい。十字架により心のかたくなさを溶かされて、涙を流しなさい!


 

PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー