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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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悔い改めにふさわしい実を結べ(2)

主にある大切な兄弟姉妹へ

連日の試験疲れで、何事も考える気力がなくなって、記事を更新できませんでした。今はただ主にあって、兄弟姉妹の幸いな交わりが与えられていることを、心から感謝したいと思います。

愛する兄弟姉妹、主が私たちを引き合わせるべく、私をここに置いて下さったというのに、どれほど長い間、私はあなた方に近寄ることをさえ、恐れて来たでしょう。

けれども、今、あなた方が、私を深く気にかけて下さり、私が困難の中にある時にも、変わらない慰めといたわりを持って接して下さっていることを、驚きと感 謝をもって見つめています。あなた方が私の至らなさを見て、ひるむどころか、主の大いなる愛で私を愛し、見守って下さっていることを、信じられないような 思いで見つめています。

生まれてこの方、このような信頼と愛情を、私は経験いたしませんでした。いいえ、このような交わりは、多分、肉にあっては不可能なのでしょう、ただ主が私 たちを憐れんで下さっているがゆえに、私たちを結びつけて下さったのだと信じています。もしも主を介さないならば、私たちには未だに何の共通点もありませ ん。

こうして、暗闇が深くなればなるほど、迫害がひどくなればなるほど、偽りが深くなればなるほど、光であられる主が、私や兄弟姉妹を助けて、真実な交わりを与えて下さり、神の愛の豊かさを教えて下さっていることを、心から主に感謝し、また、このことで主に栄光を帰します。

「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイ10:42)

どうかあなた方の思いやりに、天の父なる神様が直接、報いて下さいますように。そして、兄弟姉妹が決して互いに栄光を帰することなく、主の栄光だけを見上げて、ますます神の御前にへりくだり、御身体に命を流し出す者とされますように。

地上で2、3人が心を合わせて、主の御名の中に集まる時、主が彼らと共にいて下さいます。これは形式ではなく、運動ではなく、2、3人の固定集会でもなく、ただ主が御名の権威によって、ご自分の望む人々を集まらせておられるのです。

私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選ばれました。神がキリストを通して、私たちを生ける石として、霊の家に築き上げられるために、それぞれの場 所に置いて下さいました。このことを、決して忘れたくはありません。私たちは、本来、主の御前に立つ資格を全く持たない、ただ一人の罪人に過ぎませんでし た。肉体を裂かれて、私たちのために神との和解の道を切り開いて下さったキリストを経なければ、私たちには、神に近づくことは今でも、決してできないので す。

ですから、大胆に宣言します、誉めたたえられるべきは、ただキリストお一人です! 人間が作り出した地上的な組織や、私たちの名を高く掲げることはしませ ん! たとえ何をしたとしても、私たちの功績など、無に等しいのです。ですから、私たちの名が地に落ち、人に踏みにじられ、私たちが疑いの的となり、標的 とされたとしても、主の御前に低められることは、人の間で栄誉を受けるよりも、はるかに幸いなことです!

一体、私たちの中に何があるというのでしょうか。子羊なるキリストの御血なしには、私たちは片時も、神の御前に立つことができない者なのです。私たちは罪 人の頭であり、今も日々、私たちの肉、古き命は、十字架の対処を必要としているのです。パウロが言ったように、主のよみがえりの命にあずかるために、私た ちは、ますますキリストの死を深く知らねばならないのです。

ですから、カルバリから目を背けないでいたいと思います。カルバリが私たちの住処です。アダムの子孫として見るならば、カルバリは、私たち自身の罪の最大 の結果であり、私たちが我が主を十字架につけて殺した場所であり、その罪のゆえに、私たちがキリストと共に死の刑罰に定められる場所です。

カルバリは私たちに死をもたらします。しかし、感謝です、神は御子を、私たちの代わりに罰せられたのです。主と共に十字架につけられたあの強盗のように、 私たちは、今日も、主に向かって、この罪人の私を憐れんで下さいと叫ぶことができるのです。神は私たちの苦しみと刑罰を見捨てて置かれず、私たちと共に重 荷を担って下さいましたし、今でも日々、私たちのために重荷を担われるのです。何という深い神の愛でしょうか。

ですから、私たちは孤独ではありません。罪人であった私たちは、キリストと共に死に、キリストにあって新しく生まれました。キリストにある者として、カル バリは、もはや私たちが自分の罪ゆえに死に定められることなく、キリストにある新創造として生きる出発点です。ですから、日々、絶えずこの十字架へ立ち戻 り、キリストの死を経て、新しくされることの意味を深く知りたいと願うのです。

どうか、主よ、私たちが神の御前にへりくだることができますように。私たちが、キリストの御霊に触れられて、心砕かれることができますように。私たちの霊 において十字架を実際として下さい。私たちの霊と魂と肉とを、御言葉を持って切り分けて下さい。私たちの目的は、人の賞賛を受けることではなく、へりく だって心砕かれ、神に評価される、隠れた内なる人の飾りを身に着けることです。そのために、今、私たちはあらゆる方面から神の懲らしめを受け、試練の中 で、あなたの御手の中で、頭を低くするよう求められているのです。

「…かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。」(一ペテロ3:4)

我が主よ、あなたが憐れみを持って、兄弟姉妹が互いに一つの御身体として助け合い、支え合うことの意味を教えて下さったことを感謝します。恐らく、この 先、ますます闇は濃くなっていき、偽りは深まり、厳しい時代が来るでしょう。多くの人々が十字架を頼みとせず、御血に隠れることをやめ、自分の罪を指摘す る全ての兄弟に憎しみを向け、頑なに自分の罪を否定し、私たちにも、いいえ、兄弟たちの証にも敵対し、兄弟たちの証の言葉を地上から取り去ろうとしていま す。

けれども、闇が深くなっても、あなたはご自分の御心にかなう人々を、いつも隠れたところで呼び集めて、選び出し、召し出しておられることを信じます。どう か、御心が地に成り、御身体が建て上げられますように。御国が地上に来ますように。あなたがまことの命であられることを、生きて証するクリスチャンが増え ますように。どうか私たちの腹から、生ける水の川々が流し出されますように。エクレシアの中から罪という動脈硬化を取り除いて下さい。

「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川々となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:38)


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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