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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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へりくだって悔い改めなさい(1)

主にある大切な兄弟姉妹!

(キリスト教界における問題、教会のカルト化、教会の腐敗の問題についての私の現在の立場)

私たちキリストの御身体は、今、試練の最中に置かれています。主にある兄弟姉妹を罪定めしようとする勢力は、声の限りを尽くして十字架を罵り、十字架にと どまろうとする私たちをも罵り、怒号のうちに、私たちの信仰をかき消そうとし、神を忠実に信じるクリスチャンの信用をおとしめ、その生活までも圧迫しよう としています。

この出来事の中には、クリスチャンが同胞クリスチャンを憎み、同胞を迫害するという、終わりの時代の末期的な様相が顕著に現れています。クリスチャンがク リスチャンを憎み、戦いを挑むとは、何という恐るべき不義なる時代でしょうか。けれども、私たちはこのような時にも、忍耐を持って神を信じ、キリストと共 なる十字架の死にとどまらなければなりません。私たちは迫害する者に対しても、祝福を持って応えることを忘れないでいたいと思います。

愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。

それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」(Ⅰペテロ4:12-14)


ああ、こうして試練さえも、恵みとしてくださる主。このお方に感謝し、全てのことで、主に栄光を帰します。もしも私たちが一粒の麦として、主の御手の中で砕かれることに真に同意するなら、私たちの死を通して、多くの実が結ばれるでしょう。

しかし、ここで誤解してはならない点が一つだけあります。このようにして、たとえ私たちが自分に罪を犯す者を赦し、迫害する者を祝福で迎え、悪によって悪 に報いず、偽りの言い分に対して言い返さなかったからといって、それにより、偽りを述べる人たちが、神に対して犯した罪までが、消し去られるわけではない ということです。

もしもクリスチャンが御言葉に逆らい、真理に逆らい、御霊に逆らい、十字架に逆らい、神に逆らい、偽りの言葉で兄弟を訴え、兄弟を憎み、兄弟を裁き、罵り、赦さないならば、彼らはその罪を、人に対してではなく、神に向かって申し開きせねばならなくなります。

この意味で、クリスチャンは罪という概念を決して誤解してはなりません。聖書で言う罪とは、人が人に対して犯すものではなく、人が神に対して犯すものなのです。神に対して、自分が犯した罪を告白せず、悔い改めもしないならば、その罪はその人に残ることになるでしょう。

聖書は、兄弟たちを赦さないことが罪であり、兄弟を裁く者は、必ず、自分自身も罪に定められることを告げています。

「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。」(ローマ2:1)

「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ14:4)


さらに、兄弟たちを憎む者には、神の愛がとどまっていないことを、聖書は告げています。

『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。」(Ⅰヨハネ2:9)

『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(Ⅰヨハネ4:20)

「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」(Ⅰヨハネ3:15)


御言葉を読むならば、キリストによって生まれた兄弟たちを憎み、迫害する者は、本質的に神の子ではなく、人殺し(の子孫)であると言われていることが分かります。

兄弟を愛さない者は、闇の中にいるのであり、どんなにその人が光を求めていると言っても、その者のうちには、光がなく、神の愛がとどまっていません。

今、キリストが十字架で血を流して、罪を赦して下さった同胞を再び、罪定めして、石を投げつけ、虚偽によって告発し、兄弟姉妹を憎み、嘲笑し、虚偽によっ て圧迫している大勢のクリスチャンたちがいます。このような人々は、クリスチャンを名乗ってはいますが、彼らが兄弟姉妹へ向けている激しい憎しみと怒りを 見れば、この人々が、神の愛の中に全くとどまっていないこと、光の内に生きているのではないことは、誰の目にも明白です。

これらの人々が燃やしている甚だしい憎しみと怒りを見て、ほとんどの人々が彼らに抵抗しようとしないので、彼らはより一層、高慢になって、自らを義とし、 非難の限りを尽くしています。ですが、たとえ人のうちに声を上げる者が一人もいなくとも、神は彼らの高ぶりと、彼らの犯している悪事をご覧になっておられ ます。もしも、正直に神の御前に兄弟を偽りにより誹謗した罪を悔い改めないならば、彼らはいずれ自分が兄弟を裁いたそのはかりによって、自分自身も厳しく 裁かれ、罪に定められる時が来るでしょう。そして、神の激しい御怒りにさらされることになるでしょう。

私たちは神に対して自分が罪を犯したことを見ずして、他人だけを厳しく裁くという罪を犯さないようにしたいと願います。かつて私は、キリスト教界で不正を 目の当たりにし、その痛み悲しみを訴えるために、ブログを書き始めました。その当時、私は自分をキリスト教界の被害者と思っておりましたし、地上的な組織 としてのキリスト教界には、全く希望がないと考えていました。それが当時、私の下した結論であり、キリスト教界に対する結論は今もって変わりません。

しかし、教界の悪事について書き記しているうちに、誰よりもこの問題で最大の被害を受けておられるのは、人ではなく、神であられるということに、私は気づ きました。教会がこのような有様になっているのは、何よりも、真理が失われた結果なのです。教会は神の宮であり、神が栄光をお受けになられる場所です。そ の教会において、神の主権が踏みにじられ、真理が損なわれ、神の尊厳が傷つけられ、神の栄光を奪ってまで、人が栄光を受けているというのに、そこで人が何 らかの被害を訴えたとしても、人の主権が、教会のまことの主権者であられる神の権利を差し置いて、回復されることなどありうるでしょうか?

ですから、キリスト教界で起こっている問題を真に取り扱おうと思うなら、私たちクリスチャンは、この問題では、神こそが最大の被害者であられることに、ま ず目を向けなければならないのです。どうして神の宮で、神ご自身が脇に追いやられているのに、それを差し置いて、私たち人間が、自分の被害だけを訴えるこ とができるでしょうか? そんな態度で、神がどうして私たちの訴えを真摯に取り上げて下さる理由があるでしょうか? 

ですから、私たちは、教会の腐敗という問題を、まるで自分には関係ないことのように、批評家然と、高みから論評する態度を捨てて、あるいは自分の正義を振 りかざすために、他人だけを告発するような態度を捨てて、むしろ、この問題は、私たち自身が、罪人の筆頭者として、神の御前にへりくだり、神の御前に頭を 垂れて進み出るためにあると認識せねばなりません。そうしないことには、神が私たち人間の受けた被害に目を向けて下さり、私たちを弁護して下さることも、 決してないだろうと思います。

そのことに気づいてから、私は個人的に悔い改めの日々を送りました。私はそれまでの人生において、神から遠ざかって来た罪、その間に犯した罪々を、一つ一 つ直視し、神の御前に悔い改めました。そもそも、教会において、私が人の述べた偽りの甘言に欺かれてしまったのも、誰よりも、私自身が、真理から遠ざかっ ていたことの結果なのです。私が神ではなく、人につき従おうとしてしまったのは、偶像崇拝の罪であり、神をいたく悲しませたものであることを、正直に認 め、悔い改めました。

ああ、キリスト教界における最大の罪とは、何でしょうか。それは神ではなく、人の栄光を築き上げようとする偶像崇拝、神ではなく、指導者に信徒を聞き従わ せ、人による支配を打ちたてようとする偶像崇拝の罪なのです! 人を人に従わせるという、肉による偶像崇拝が、あまりにも多くの信徒を破滅へと追いやった のです。しかし、それは多くのクリスチャンが、真理を喜ばず、不義を喜んでいたことを公然とお示しになるために、主があえて許された悲しい出来事でもあり ました。

彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

もしクリスチャンが神の義ではなく、人の義を主張し、神の栄光を退けてまで、人間の栄光を築き上げようとするなら、その人々は、真理を喜ばず、不義を喜ん で生きているのであり、その報いとして、欺きと偽りによって惑わされ、人生において大きな損失を受けたとしても仕方がないことは、御言葉に明記されている のです。ですから、教会において欺かれ、つまずいた人々は、それが真理を信じないで不義を喜んでいた結果であることをまず認めねばなりません。しかし、教 会の腐敗に気づいた多くの人たちは、自らが神の御前で大いなる罪を犯したことを見ようとせずに、ただ自分を被害者と考えるか、もしくは自分の正義だけを一 方的に振りかざして、自分には一切罪がないかのように自分を憐れみ、不正を行った人々だけを責めるという過ちを犯してしまったのです。

そのようにして、神の宮は、人間の利害を掲げる闘争によって、さらに荒らされていきました。真の被害者である神ご自身は、置き去りにされ、問題の核心がか えって覆い隠されるような形で、教会の腐敗という問題がセンセーショナルに取り扱われました。この分野は、今や、人がおのおの手前勝手な正義を振りかざし て論争を繰り広げるための戦場のようになっており、戦況は泥沼化し、同士討ち的な闘争が行われ、被害者が二重三重の屈辱を受けているのは、見るのも痛まし いことです。

これは、多くのクリスチャンが人間側の利益だけに注目し、神の利益が損なわれたことには、目も留めず、自分自身の罪を悔い改めようとせずに、自らの利益の 回復だけを図ろうとし、さらにもっと悪いことには、ある人々は自分が裁き主となって、まことの審判者である神の主権を犯してまで、独断で、御言葉に逆らっ て裁きを(私刑を)執行しようとしたことの厳しい結果です。

キリスト教界における腐敗を真に考えようとするなら、私たちはまず、クリスチャンが神に対して犯している罪を見なければなりません。何よりも、偶像崇拝と いう罪を直視し、それを取り除く必要があります。たとえそのために自分が被害を受けた場合であっても、意図せずして自分もその罪の一端を担ってしまったこ とを、私たちは主の前に正直に認めて悔い改めるべきなのです。それをせずして、私たち自身が裁き主のように登場することは言語道断です。

私はキリスト教界から我が身を分離した後、しばらくしてから、自分の義を訴えることをやめ、被害者という美名に隠れることも捨てて、主の御前に一人の罪人 として進み出ました。そうして、ただ一人の罪人として、神の御前に悔い改めたことが、私が神の憐みを受け、神ご自身と出会い、罪赦されて、人生の再出発を 遂げるきっかけとなったのです。

もちろん、私が悔い改めたことが、私を義としたわけではありません。キリストが流された血潮以外に、私を罪から解放するものは何一つとしてありません。主 が恵みによって私を救って下さったのです。しかし、私が自分の罪を悔い改めようとしていなければ、私に対する罪の赦しは、あり得なかったでしょう。私が神 の御前に己が義を徹底的に投げ捨てた時に、神はようやく私を全ての被害から救い出して下さり、私の心を全く新たにして、新しい出発を遂げさせて下さいまし た。

私はこうしてキリスト教界の問題から解放されましたので、これ以上、キリスト教界を告発することに生涯を捧げるつもりはありません。キリストを土台としな い、人手によって作り上げられた組織に希望がないことは、聖書を読めば一目瞭然であり、再三に渡り、ここでも述べて来た通りなので、繰り返す必要を感じま せん。私は教会を否定しているのではありません。神の教会とは、本来、見えない霊の建造物であって、それを目に見える地上的な建物や組織という観点からの み捉えようとすることは不可能です。

今、心から言えることは、私たちはキリストにあって自由とされたのだから、目に見える地上的な組織や、人の栄光を築き上げたり、人や人の作った組織の奴隷 となるような偶像崇拝の罪を、再び犯してはならないということです。これは教会に通うべきでないと言っているのではなく、偶像崇拝の罪を再び犯してはなら ないと言っているのです。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ5:1)

「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)


繰り返しますが、教会の腐敗の問題は何よりも、神の御前でのクリスチャンの罪を示しています。教会において十字架が見失われ、 真理が損なわれ、罪に対する良心の感覚が失われたために、このような甚だしい罪が多くの教会にはびこったのです。それにも関わらず、クリスチャンが自分に は何の罪もないかのように、自分を義とするために、この問題を取り扱わないように気をつける必要があります。今、クリスチャンが神の御前で犯している甚だ しい罪のために、真に心を痛め、涙を流して執り成し、何よりも、神の宮において、神の主権が損なわれていることを、真摯に悔い改める心を持つ人が、必要と されているのではないでしょうか。少なくとも、私たちが神の利益を差し置いて、人の利益の回復だけを求めても、その願いが聞かれることは決してないものと 私は確信しています。

どうか主が光の中で、何が罪であるか、罪の罪たるその本質を、私たちの心にはっきりと示して下さいますように。どうか主よ、私たちの鈍い心をお赦し下さ い。私たちが神の御前に真にへりくだって、自分自身を光の中で吟味していただき、己が罪を正直に認めることができますように。どうか私たちが十字架のより 深い取り扱いを受けて、心砕かれ、神の和解と平和をもっと受け取ることができますように。主よ、クリスチャン同士が互いに訴え合い、告発し合う罪から、私 たちを救って下さい。私たちに対する偽りの訴えに対し、あなたが私たちの義となって下さり、偽りを述べる者たちを叱責して下さいますように。どうか私たち を憐れんで下さい。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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