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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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キリストかセルフか

愛する兄弟姉妹へ

主にある親しいお交わりを心から感謝です。皆さんとの交わりを通しても、私の信仰生活に無視できない大きな転機がやって来たことを感じさせられています。

ある読者から、キリスト教界を覆う闇について、次のようなご心配のお手紙をいただきました。私の判断で表現を多少、変えながら、手紙の一部をご紹介しますね。

「(キリスト教界の闇は、)おそらく貴方が思っている以上、想像以上に驚くほどどす黒く、考えるだけでも恐 ろしいです。やくざははっきり悪人と解ります。 しかし、教会関係は一見、そう見えませんし、一通りの礼儀も持ち合わせていますが、中身はやくざ以上です。そのように正体がわからず、恐ろしいひとがほと んどです。

ですから貴方のような繊細な感性の持ち主は、近寄らないほうがいいと思います。召しと思われるのでしたら別ですが、そうでなければ巻き込まれ、大変なことになる事さえあります。

キリストの名の下に批判を受けるのは幸いですが、『聖なるものを犬にやるな』という言葉もあります。聖なるものを差し出しても、相手がおろかだとこちらを 攻撃してきます。ただの攻撃でははっきり解りますが、巧妙で、うまくこちらの弱みをついたわなにかけられることさえあります。

先日もそのようなやさしげなサタンのオファーを受けましたが、何とか見破れました。どうぞそのような罠にかからずすごせますように、お祈り申し上げます。いずれにせよ、安全のため、召しを貫いていただきたく思います。」


この手紙を読んで、どのような印象を持つかは、個人の判断にお任せします。私自身、実際に、火の中をくぐるようにして、キリスト教界の闇からかろうじて逃れました。私よりもはるかに悪い経験をして来た人たちにもお会いしました。

以来、十分すぎるほどに、キリスト教界における教会の腐敗について訴えてきました。この問題には、御言葉と、キリストの十字架、御血に立ち戻る以外に解決 はないこと、カルトもアンチカルトも本質的に同一の腐敗に通じていること、反カルト運動は必ずや暴走し、同士討ちの結果、崩壊に至るであろうこと、前々か ら警告して参りました。この問題を訴えたがために、さらなる苦難にも遭いましたし、人間的に見るならば、そろそろお役御免になっても良い頃かと思います。

しかし、実際には、進めば進むほど、ますます、私は厳しく問われるのです。私はこの先、戦いの全くない平和な生活だけを望んでいるのか、それとも、自分の 望みが否定されても、御心をとらえたいと願っているのか、本当に、キリストにあって、自己を否むつもりがあるのかどうか…。私が信じているのは、「私のた めの神」なのか、それとも、「神のために私」が捧げられるのか。

真に主のために生きるつもりならば、自己というパン種を、最後まで、キリストの十字架で取り除いてもらいなさい! 十字架があなたの内側で、どんな痛みを 伴ってでも、より深い働きをするのを許しなさい! 自己憐憫を最後まで捨てて、あなたが壊れないようにと、大切に握りしめている「あなた自身」を手放し、 あなたを全く主に委ねなさい! 私はあなたに、あなただけの視点を離れて、神の視点から、共に物事を見て欲しいのです…。

今後、キリスト教界の闇は、ますます深くなるだろうと予想しています。以前には、かなり冗談めかしてこの話題について触れられたものですが、この先は、この問題に取り組む人は、誰もそのような覚悟ではいられなくなるでしょう。

「不法の者」(Ⅱテサロニケ2:8)が現われる時が近づいています。前述のチャールズ・アシャーの「十字架に帰れ!」は、三四半世紀以上も前(1920年7月初版)に語られたメッセージですが、もう一度振り返って下さい。

教会は急速に背教の状態へと陥りつつあり、ますます神から遠ざかっています。戦争により、世界は混沌とし、教会は麻痺しました。暗闇の力が解き放たれ、教会にも世界にも邪悪な影響を及ぼしています。」

私たちは疑いなく、背教の時代を生きています。大きな邪悪な力がさらに解き放たれようとしています。新たな戦争は次第に近づいて来ています。霊的な暗闇が おびただしい数のクリスチャンを覆っています。今後、クリスチャンのふるいわけはさらに進み、場合によっては、兄弟姉妹が互いに裏切り合う事態さえ起きる でしょう。

御言葉が明らかに告げているように、終わりの時代には、キリストのまことの命に生きようとする全てのクリスチャンが激しい試みに遭います。この困難で厳しい時代が、足早に近づいて来ていると私は感じています。

オースチンスパークスは「私たちのいのちなるキリスト」の中で、時代が終末(キリストの再臨)に近づくに連れて、二つの傾向が顕著になるだろうと述べています。

「一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。」

この二つの傾向は、決して相容れないものです。一方では、人手によって作り出された人工的な偽りの命である「キリスト教」――これは人造の 偽りのキリスト教、すなわち、今日のキリスト教界という、人為的な体制そのものです――が大いなる発展を遂げ、もう一方では、人手によらずに切り出された 生ける岩なるキリストのまことの命に立つ少数のクリスチャンが、(恐らくは追いつめられ、迫害されながらでしょう)、信仰生活を続けると予想されます。

一方の人工的な命は、「反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。」つまり、それは、本質的には反キリストへと続く流れであり、キリストではなく、生まれながらの人間(肉、アダム)を高く掲げるものであるにも関わらず、見かけ上は、まさにキリスト教を装っているのです。それはフェイクであり、「人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。」「第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。」

この人工的な偽りの命、偽のキリスト教は、御国の模造品を生みます。そこでは、人の知恵によって作り出された各種の教え、伝統、制度、運動などが、独自の 理想を掲げて活動を繰り広げます。そこでは、ヒューマニズムや、生まれながらの人間の善意や、努力や、真面目さなど、人の肉の産物が、大いにたたえられる でしょう。肉による「一致」が叫ばれるでしょう。人類みな兄弟、と言ったような、耳に心地よい友愛的な政策が唱えられるでしょう。

しかし、これらのものの見かけと実質は正反対です。うわべでは、協調や、一致や、愛や、人類の幸福がスローガンに掲げられるにも関わらず、その本質にある ものは、反キリストの憎しみなのです。ですから、友愛的な政策とは裏腹に、むしろ、時が経つに連れ、混沌と悲惨が生み出されるでしょう。

これと決定的に異なるもう一つの傾向は、いのちなるキリストに立脚するまことのクリスチャンが現われることです。人手によらない、神の霊の建造物が、御霊 によって建て上げられ、万物がキリストを通して一つに帰せられるという最終的な目的のために、神が望んでおられる御身体が建造され、それを通して御国が地 上に到来し、キリストの花嫁なるエクレシアが姿を現します。

「新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は『キリストがすべてのすべて』となることです。私たちは、神の霊の実際の働きはすべてをキリストご自身に帰することで あることを学ばなければなりません。彼、キリストが『内なる人』である私たちの霊のいのちでなければなりません。それは、私たちが主の中で強くあるためで す。自分自身や、他の人々や、物事によってではありません。私たちは、彼の内なる力だけで、逆境を切り抜けなければなりません。」

この二つの「命」のうち、私たちはどちらに立つのでしょうか? 私たちはもちろん、キリストのまことの命に生きる者です。けれど、生まれながらのアダムの 命を拒み、キリストのまことの命に生きるかどうか、私たちは試みに遭って選択を迫られるでしょう。悪しき日に、サタンのあらゆる策略に対抗して、キリスト の主権を守って立ち続けるために、エクレシアの成員は今後、大きな戦いを強いられるであろうことを私は予感します。私たちは御身体として共同戦線を張る必 要がありますし、主にあって、心の武装をしなければなりません。

「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。」(エペソ6:13)

「…あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22)

「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。」(マタイ24:9)


試練は、私たちがキリストの死のうちにとどまり、私たちの内にある自己の不純物が、神の火によってあぶりだされ、焼き尽くされ、洗練されるために必要なも のです。キリストのよみがえりの命が、私たちのうちに働くためには、私たちは徹底的に弱くされ、自分自身に絶望し、無力とされる必要があります。自己に属 するもの全て、自己憐憫も、最後まで十字架を通して断ち切られなければなりません。

私たちは、キリストだけを頼みとすると言いながら、往々にして、自分の生まれながらの力に頼って生きています。神のために生きる、主のために十字架を負 う、などと言いながら、その実、生まれながらの自分を義とし、自己を飾るために、神や十字架をさえ、手段として利用しようとしているのです。この自己とい うものの偽りの深さ、狡猾さを私たちは自分ではほとんど知りません。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 」(エレミヤ17:9)

人の生まれながらの自己は、絶えず、神を自分が栄光を受けるための手段にしようとしています。神をさえ手段化するほど自己は偽りと高慢さに満ちているので す。この自己を対処できるのは、キリストの十字架だけです。十字架を通して、私たちは自己を拒み、生まれながらの命を拒み、キリストの死を知ることができ ます。まずアダムの命の死がなければ、復活の命が働く余地はありません。

「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 」(ローマ6:5)

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイ16:25)


セルフか、それとも、キリストか。それは生涯続く選択です。私たちが自己を自分で対処できるわけではありません。十字架を手段として利用しようとするなら、逆に、自分が微塵に打ち砕かれてしまうでしょう。

けれど、ただ神に信頼します。私たちはただ一人の男子キリストに婚約するために捧げられました。私たちは真に純潔な花嫁、神を喜ばせる、自己のパン種を持たないエバとなるために召し出された民なのです。

塩が塩の味を失ったら、何によってそれが取り戻されるでしょう。御名の中に選び出された兄弟姉妹が、主の名のために辱めを受け、迫害を受け、苦痛を耐え忍 ぶことを恥としたら、誰が主の栄光のために自分の命を注ぎ出すのでしょうか。主よ、どうか、私の怠慢と臆病をお赦し下さい。私があなたの御名よりも常に自 分を優先し続けて来た罪をお赦し下さい。けれども、どうぞこの偽りに満ちた邪悪な「私」を、あなたが祭壇で取り扱って下さい。

私たちは神を手段化したくありません。自分の「理想」が微塵に打ち砕かれ、我が身の美しさが消えうせ、憎しみと怒りの怒号のうちに私の叫びがかき消され、 神ご自身の臨在さえも遠のくように思われる時にも、キリストを信頼し、主よ、あなたの御旨の中にとどまり、御心に従順であり続ける花嫁となることができる よう、御霊により、私たちを助けていただきたいのです。

御霊によらなければ、誰がそれを全うできるでしょうか。それは肉の決意によって、なし遂げられる事柄ではありません。しかし、それは私の願いではなく、神 の願いであると信じます。神が死に至るまでキリストを信頼して連れ添う花嫁、神がご自分の命を安心して注ぎ込むことのできる従順な御身体を、どんなものに もまして、今、求めておられると思うのです。

堕落に沈んでしまった人間を再び得るために、御子をさえ否定された神の孤独、苦しみの深さを思います。私たちは、喜びだけでなく、苦難をも、主と共にすべきなのです。神は地上で御心に心の照準を合わせる全ての人々に、御旨を成就して下さると信じます。

「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、 肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、 神の知恵に逆らって建てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべ て不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。」(Ⅱコリント10:3-6)

どうか御身体が建造され、御身体を通して、キリストの主権がこの地に回復されますように。悪の要塞が打ち破られ、とりこになっている者が解放されますよう に。どうか私たちの偽りに満ちた自己を祭壇で焼き尽くし、聖なるキリストの住まい、神の宮にふさわしい者として、私たちを整えて下さい。主が私たちを最後 まで得られて満足されますように。
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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