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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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神の義 対 人間の行いによる義

これからしばらく、キリスト対セルフという問題を集中して扱いたいと思います。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(Ⅱコリント4:18)

かねてから、私たちはキリスト教界からのエクソダスを呼びかけて来ましたが、それも最終段階に入ったように思います。少し前に耳にした沈没船の幻の話を私は今、思い出しています。

今しも沈もうとしている大きな船があります。それは、日本丸を指すのでしょうか? これを日本丸もしくは、キリスト教界の霊的状態と考えて、私的解釈を述べてみたいと思います。

この船の中には、すし詰めになっている沢山のクリスチャンがいます。船は暗闇に覆われ、真理の光を見失っています。そして、攻撃されても、防衛能力がな く、安全感覚が失われているため、沈没寸前です。信徒たちは、てんでばらばらに自分勝手な願望を抱き、神に聞き届けられることのない自分勝手な祈りを捧げ ています。乗客の間には何の一致協力もなく、相争っているような始末ですので、この船がどこへ向かっているのか誰にも分かりません。船の中では、風が止 まっていますが、それは人の思いに妨げられて、御霊の働く余地が全くなくなっていることを意味します。空中には人々の捧げた身勝手な祈りがゴミとなって浮 いており、空気は淀み、船は窒息状態です。人々は脱出先を探しますが、どこへエクソダスすればよいのか分かりません。

混乱に乗じて、偽りの「救い」を提供する様々な救助船がやって来ます。耳に心地よく、甘い理想を唱える、偽りの福音が解かれます。十字架を抜きにした異端 の教えが流入します。あの教会、この教会、あの集会、この集会、あの先生、この先生、あのメッセージ、このメッセージ、様々な船が救助を申し出ます…。

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」(Ⅱテモテ4:3-4)

救助を申し出た船は、自分たちの組織に信徒を取り込もうと、言葉巧みに語りかけます。惑わされる人々が大勢出ます。ですが、ある人々は強烈な違和感を覚 え、救いはそのように目に見える組織や、人の自己を甘やかす教えの中にはないと気づきます。そして、脱出先は、ただ主の御名の中へ、血潮の中へ、十字架の 中へしかないと気づきます。そうして彼らは他の人々が空中に投げ捨てた十字架をしっかりと掴んで、上へと引き上げられて行きます…。

この幻の解釈はともかくとして、今、主ご自身が、御名の中へエクソダスする人々を集めておられるのではないかと私は思います。恐らく、エクソダスした人々 は、主の御名だけを頼りに、御霊の導きだけを頼りに、御言葉なるキリストにとどまり、まことの命なるお方と共に、誰も歩んだことのない道を歩むことになる のではないでしょうか。そして、終末の時代に、この道を歩むためには、ある程度、覚悟が要るのではないでしょうか。なぜなら、そこには人にやさしいレール や手すりはないからです。

主イエスは言われました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」( ヨハネ14:6)。 私たちはこの道であられる方を通ってしか、父なる神の御許へ召されることはできません。さて、この道を歩むことが、人間に快楽や、地上での栄誉を約束して くれるという記述は、聖書には見当たりません。むしろ、この道は、人間にとって苦労の多い、厄介なものとなるでしょう。

「それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった…」(使徒9:2)
「ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので…」(使徒19:9)
「そのころ、この道について容易ならぬ騒動が起った。 」(使徒19:3)
「そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。 」(使徒22:4)


この道を行く者は、悪し様に言われ、騒動の中心となり、迫害され、拘束され、投獄され、ついには死にさえ至るかも知れません。これは大袈裟でしょうか? いいえ、主ご自身が次のように言われたのです。

「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々 がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。 」(ヨハネ15:20)

特にこの時代、もしも真に主イエスの僕であるならば、好むと好まざるとに関わらず、キリストの苦しみにあずかる者とされることを避けられないように思いま す。それはこの地上でキリストの御身体全体が豊かにされるためであり、かつ、やがて来るべき時代に主と共に栄光にあずかるためです。

「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」(コロサイ1:24)

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」(Ⅰペテロ4:13)


この先、目に見えるものの偽りはますます深まり、迫害は、クリスチャンを名乗る人々から最も激しくやって来ると予想されます。それはちょうど、主が肉体を 取って地上にこられた時に、まことの命の君をユダヤ教徒が受け入れず、憎んだのと同様の構図です。その当時、既存の宗教界がまことの命の君を受け入れな かったのは、当時の宗教が、神による義ではなく、人の行いによる義を追い求めていたからです。

律法学者、パリサイ人たちは、自分の行いによって自分の正しさを獲得しようとし、自らの義により頼んでいました。彼らは神に対してとても熱心ではありまし たが、生まれながらのアダムの命によって(肉の努力によって)、神に義とされ、御国に受け入れられることは不可能であることを認めませんでした。

主イエスは人が律法を守るという行いによっては、決して義とされることはないという事実を示されました。そして、十字架上で、私たち全てのアダムの命が例 外なく、神により死の刑罰に定められていることをお示しになられ、ご自分の肉体を通して、全てのアダムを死に渡されました。神は主イエス・キリストの十字 架を通して、全てのアダム(肉、魂の命)に対して、死の宣告を下され、万物が十字架で死に定められたのです。

私たちは一人ひとりが信仰によって、このキリストと共なる十字架の死を実際のものとして受け取る必要があります(それは自動的に私たちのものになるのでは なく、信仰に基づいて実現します)。キリストと共なる十字架を通して、私たちはアダムの古き命に死んで、肉に死んで、自己に死に(これは自己が消失するこ とを意味しません)、この世に対して死んで、主と共によみがえらされることにより、もはや罪に汚染されたアダムの種族としてではなく、キリストに属する新 しい種族として、神の新しい命の領域を生きることが可能になるのです。

「すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。」(ローマ9:8)
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」(ローマ8:14)


アダムの命によっては、誰も御国に入ることはできません。水と霊によって新しく生まれた者が、御国にふさわしい神の子供たちなのであり、私たちは再生した後も、肉に従って歩まず、御霊に従って歩むことを継続的に学ぶ必要があります。

「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。」(ローマ8:7-8)

しかし、今日、多くのクリスチャンが肉の努力によっては神の義に達することができないという事実を見ず、かえって肉の努力に励み、神の義ではなく、己の義を打ちたてようと努力しています。

肉による努力は、神を喜ばせることはできません! しかし、キリスト教界では、キリストが十字架の贖いによって達成した神の義を退けてまで、人が行いによ る義を再び打ちたてているのです。日曜礼拝、祈祷会、十一献金、各種の集会や運動への参加…等がほとんど義務のように課され、信徒は熱心にそれを守ること によって、人の目に義と認められようと努力しています。多くの信徒が、指導者や他の信徒から罪定めされることを恐れて、人の言いなりになり、神の目に義と されることでなく、人の目に義と認められることを追い求め、恐れによって連帯し、不信に目をくらまされ、自由を奪われています。

これは今日的な文脈での、クリスチャンの律法による義への逆戻りです。しかし、このような誘惑はキリスト教界だけにつきものなのではありません。私たち自 身も、もし自己に従って生きるなら、同じように欺かれるでしょう。どんなに熱心に御言葉を宣べ伝えても、どんなに霊的な教えを学んでも、どんな苦難を耐え たとしても、もしも私たちが行いによって義を打ちたてるならば、それは御霊の思いには反するのであり、神の義に届くことは決してないのです。

「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜ なら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の 終りとなられたのである。」(ローマ10:2-4)

さて、神の義とは何でしょうか。それは人が自分の行いによって義と認められようとすることではなく、恵みによって、キリスト・イエスの十字架の贖いを信じることによって、代価なしに義とされることです。

「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:21-28)


このように、私たちが義とされるのは、全て信仰により、恵みによります。私たちの自己の内に何らの誇るべきものもありません。私たちの自己の内にはただ不 義しかなく、私たちの自己から出て来る最善の努力も、最善の理想も、神の御前に義と認められるものは一つもありません。たとえ善行を行ったとしても、それ を私たちが誇りにすることは虚しいのです。

にも関わらず、多くのクリスチャンは自分たちの教会の建物を立派にしたり、奉仕者を増やして教会の規模を拡大したり、伝道に力を注ぎ、立派な礼拝を作り上 げ、各種の行事に専心し、それが「神の栄光」のためであると思い込んでいます。しかし、そのような努力に対しては、主なる神はこう仰せになるだけでしょ う。

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。」(使徒17:24-25)

人は自分の力によって神を喜ばせたり、神の義に達しようとするせわしない努力をやめるべきなのです! 私たち自身からは、何の良いものも生まれないことを 認めるべきなのです! 自分の理想によって神に届くことは出来ないと認めるべきなのです! しかし、肉に従って歩む者、アダムの命を義としようとする者に は、この事実がどうしても理解できません。

生まれながらの人間の知恵は、自分の最善の努力や知恵や理想さえ神の御前には忌まわしく、自分が徹底的に罪に汚れており、ただ死の刑罰にしか値しないなど とは、決して認めません。生まれながらの人は、自分の罪が御子を十字架につけたのだとは決して認めようとしません。生まれながらの人間の知恵は、神の義を 受け入れず、神の知恵に逆らってでも、何とかして自分が義であることを自分で証明したいのです。

人の肉は数々の善行を行うことができ、麗しい理想を考え出すことさえします。そしてその見せかけの美しさの中に自己の腐敗を隠そうとします。私たちは大 抵、口では自分が罪人であることを認めていますが、心の中では、あの人よりはまし、この人よりはまし、などと思って、自己を高く評価しているのです。自分 が神の御前で絶対的に腐敗しており、自分の古き人の努力によっては神を喜ばせることはできず、自分の生まれながらの命が主と共に十字架の死に渡されること だけが神の御心にかなうことなのだということを、生まれながらの人はどうしても認めることができないのです。

このように、人の生まれながらの命から出て来る思いは、自己の絶望性を認めず、神の御思いに常に対立・敵対します。私たちの中にも、まだ多分に、この自己 というものが生きています。もしも御霊によって、神ご自身が、私たちに自己の腐敗を知らせて下さり、私たちの自己を十字架でより一層、深く対処して下さら ないならば(このことは私たちの努力によっては実現できず、ただ私たちの信仰に応じて主が上から十字架を実際として下さることによります)、たとえ神を信 じているつもりでも、私たちの自己は増長し、神の義を否定して己の義を築き上げようとし、神をさえ、自己の栄光を築き上げるための手段としようとするで しょう。人の自己とは本来、そのようなものです。

全ての異端は、人の生まれながらの自己保存の思いに基づき、キリストが十字架で全てのアダム(肉、自己、魂の命)を終わらせたことを否定して、むしろ、ア ダムを延命させ、アダムの命を栄光化し、アダムを神の位置にさえ置き、それを教義体系として確立します。異端の教えの根幹は、アダムが堕落したために、人 の生まれながらの命は徹底的に罪によって腐敗し、もはや死にしか値しなくなってしまったという事実を認めず、キリストの十字架におけるアダムの死の必要性 を退けて(あるいは十字架の概念を骨抜きにして)、生まれながらの人間を義とし、生まれながらの人間を高く掲げ、生まれながらの人間を神の子(もしくは 神)にまで祭り上げようとするところにあります。これまでに様々な自己改善、自己啓発、自己覚醒、ユートピア主義的な人間改造の試みが存在して来ました が、その中心は、キリストの十字架を退け、アダムを肥大化させて神に至らしめようとすることであり、アダムを神とすることが全ての異端の共通の特徴なので す。

しかし、まことのクリスチャンは、アダムの命には何の希望もないことを知っています! もしも私たちが自己に従い、肉に従い、生まれながらの命に従って歩 むなら、そこには、ただ罪以外の何も見つけることはできません。私たちは日々、真に十字架を経て、古き命を死に渡し、キリストにある新しい人としていただ くことを神に願い続けるのです。

本来、神の教会とは、キリストと共なる十字架の死とよみがえりの命と、子羊の血による一体性の上に初めて建て上げられる、目に見えない霊的な建物のことで す。ですから、人手によらずに切り出された岩なるキリストの命の上に建てられた教会と、人手によって切り出され、人の肉の努力によって建て上げられた人工 的な建造物とは、決して一致しません。このような意味で、十字架の死を経ることを拒み、神よりもセルフを高く掲げているクリスチャンと、主と共なる十字架 の死を土台とし、自己を否んでキリストのまことの命に生きるクリスチャンは、今後、ますます明確にふるい分けられ、その相違と対立がはっきりするでしょ う。

終末には、十字架に敵対し、セルフの死を拒む人々の一群が、一大勢力として結集し、キリストの十字架の死と復活を証する真理を、再び、世から取り除こうと することが予想されます。終末の迫害には、第二のアダムなるキリストの十字架の御業を否定しようとする第一のアダムに属する人々からの激しい挑戦、キリス トのまことの命に対抗して人の生まれながらの自己を延命させようとする勢力の死に物狂いの抵抗がこめられるでしょう。

しかし、神の永遠のご計画は、アダムの堕落によって神から隔絶し、サタンの陣営に渡されてしまった人間を含め、万物をキリストの十字架の和解を通して、一 つに帰することです。万物の相続者は御子です。万物はいずれ御子の支配に完全に服するようになります。このことはさまざまな形で御言葉に明記されていま す。(ヘブル1:2)(ピリピ3:21)(エペソ1:22)(ローマ11:36)

万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」(コロサイ1:16)

「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」(コロサイ1:20)

「そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(Ⅰコリント15:28)


このように、キリストを通して、キリストの血によって、万物が一つとされることが神のご計画なのです。しかし、生まれながらの人の自己は、これに逆らい、 自らの罪を認めず、血潮の必要性を認めず、キリストの十字架による和解を退けて、キリストのまことの命に対抗して、生まれながらの自己の力によって、万物 を一つにしようと考えるのです。すでにそのような計画が見られますが、生まれながらの人間は、人知によって作り出された理想を持ち出して、一致を唱え、融 和を唱え、再び、未曾有の規模で、天にまで届く建造物を建て上げようとするでしょう。

「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」(創世記11:4)

さて、私たちはどちらの道を選ぶのでしょうか。セルフの力を結集させて、己を義とし、己の威信を誇るために、果てしない努力を積んで、自分の理想によっ て、神の義に達しようとするのでしょうか? それとも、「義人は信仰によって生きる」ことを信じて、自分で自分を救おうとする無意味な努力をやめて、自ら 罪人として十字架の前に頭を垂れて、子羊の贖いの血潮の恵みにすがって義とされるのでしょうか?

最後に、オースチンスパークス著、「キリストのからだなる教会」第二章から。

ルターは任務を帯びてローマに遣わされました。彼はその都と特別な懺悔の場所を訪問することを熱望していました。それは、その階段を手と膝でのぼることにより、特別な恩恵と罪の赦しなどを得るためでした。

この恐ろしい苦行を自分に課せば、義とされて安息を得るだろう」と彼は考えました。彼はのぼり始めました。のぼるのが大変になってきた時、何かが「義人は信仰によって生きる」と言いました。

彼はふたたび進みました。すると、あの声がふたたび、「義人は信仰によって生きる」と言いました。彼はさらに階段をのぼりました。すると、また声がして、一つの単語を強調しました、「義人は信仰によって生きる(ハバクク書2章4節、ローマ人への手紙1章17節、ガラテヤ人への手紙3章11節、ヘブル人への手紙10章38節)。これが彼を回心に導き、行いによる義というローマの体系全体を放棄するよう彼を導いたのです。

「義人は信仰によって生きる」。大事なのは私たちの信仰そのものではなく、私たちの信仰の対象である主イエスの御業です。私たちは自分の信仰の度量をあまりにも重んじますが、大切なのは私たちの信仰の対象です。私たちが安息の中に入るのは、キリストと、私たちのための彼の完全な御業という対象の上に、自分の信仰を据える時です私たちはもはや、手と膝で石段をのぼりません

これは主の民の団体生活にとって基本的なことです。不安、発酵、不満足の要素は出て行きます。そして、私たちは神との平和を持ちます。調和を得ます。なぜ なら、調和は平和の別の言葉にすぎないからです。これが安息です。聖書の中の平和は、何らかの雰囲気ではなく、完全な調和の内に全ての要素が互いに適切に 調整されていることです。」


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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