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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

主の囚人

主の囚人―オースチンスパークス著から引用(段落の順序は変えてあります。)

エペソ人への手紙3章1節、4章1節;テモテへの第二の手紙2章9節、1章8節

<…>啓示を委ねられる人は、「私はあなたのしるしです」と 言えるくらい、その啓示を自分の存在と生涯の中に造り込まれなければならないということ、これがまさに神のエコノミーの一つの原則であると思われま す。<…>一つの節を見ると、パウロの生涯の晩年は縮小と制限の過程を辿っていたことがわかります。それは一つには「大きな堕落」のためであり、またもう 一つには、彼が代表していた証しを一般を対象とするものから特定の人を対象とするものに狭めなければならなかったためです。

これはまさに、「終末」の状況について正確に予言されていることです。最後の手紙の中のテモテへの預言的な言葉の中でこれが特に述べられているのは、意味のないことではありません。ですから、後期の手紙に出てくる「主の囚人」というこの句には、預言的な意味がありますし、主の主権の最後の道をみごとに説明しています。


これを読むと、特に終末の時代、主から啓示を委ねられた人は、特別な閉じ込めと制限の中に置かれなければならないことが予想されます。その 閉じ込めは、人の思惑によっては様々な解釈が可能でしょうし、しばしば人災のように見えることもあるでしょう。しかし、その閉じ込めには、主の主権が及ん でいるのであり、啓示が、真理がその人のうちに作りこまれ、その人自身が生きた真理の証となるために避けて通れない過程なのです。

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ19:24)という原則は、ただ救われることを指して言われたのではなく、主に従うことについて言われたのであると私は解釈しています。

主に従うために、私たちはしばしば、純粋な動機の妨げとなっている多くのものを剥ぎ取られなければなりません。福音を自分が豊かになる手段として利用したい思いや、信仰生活を通して、人に受け入れられ、喜ばれたいと願う動機も取り扱われねばならなくなるでしょう。

十字架の閉じ込めは、周囲からの理解を失わせます。最も身近で親しかったクリスチャンでさえ、その人を非難したり、誤解したりして、去って行くかも知れま せん。そこには何かしら教会の堕落という問題が関係しています。教会は地的なものに関心を奪われすぎました。多くの人々は真理を求めていると言いながら、 実際には、自己をさらに富ませることを追い求め、信じることで自分の義を立てるか、もしくは自分を楽しませることを求めているだけの場合がほとんどです。 上にあるものを求めている人はほとんどいません。

そこで、閉じ込めによってクリスチャンが練られ、ふるい分けられることになります。自分だけの恵みを求めたいと願う多くの人は去って行くでしょうし、本人 も、不自由、拘束、圧迫に苦しみ、しばらくその状況に何の意味も見出せないかも知れません。何よりつらいのは、今まで交わりの中で得ていた慰めや理解を失 うことかも知れません。

しかし、それは、私たちの自己に属するものがろ過されて、純粋に神を求める動機だけが残されるために必要な過程でもあります。今まで良き達成と見えていた さまざまなものを失い、活動が極端な縮小や制限をこうむっても、主を知ることを切に追い求める民はどこにいるのでしょうか。誤解や恥や非難をこうむり、徹 底的に低められ、身近な友を失って、世間から全く誤解されても、なお神を信頼し、主に従っていく人々はどこにいるのでしょうか。

閉じ込めや制限は、神の民をふるいわけるための主の方法の一つなのです。閉じ込められた人がますます主だけへ向かうなら、そこで何か人知を超えたことがその人の上になされ、さらに光が与えられるでしょう。

また、それは御身体全体に益を もたらすための主の方法でもあります。一人のクリスチャンが、主によって究極的な閉じ込めの中に置かれ、視界の遮られた小さな苗床の中に置かれることが、 なぜ御身体全体の益になるのか、人知によって説明することは難しいですが、実際にそうなのです。

ですから、私たちはたとえ牢獄のような環境に閉じ込められている時にも、信仰を持ってそれを主の囚人であることとして受け入れ、主のご計画を見たいと願い ます。その時に、私たちの苦しみは自分の苦しみではなく、真にキリストの苦しみにあずかるものとなり、私たちの思いをはるかに越えて、御身体のために豊か な実を結ぶことにつながるでしょう。


<…>たとえその出来事が人間的に解釈されてきたとしても、そのすべての出来事の中には神の主権的支配があったのです。また、彼が牢獄にいたのは皇帝の囚人としてではなく、主の囚人としてだったのです

<…>彼はついに、主の道として急速に明らかになりつつあったことを完全に受け入れました。「この道はキリストのからだにとって最大の益になる」ということが、ますます彼に明らかになりました。<…>

完全な啓示にどれほど迫れるかは、つねに相応の代価によりました証しのための僕はみな、疑いや非難の下に置かれてきました。その度合いは、主に対する価値の度合いに応じていました。そしてこれは、彼らは人間的にそれくらい制限されていたことを意味します。

多くの人が後退し、堕落し、遠ざかり、疑い、恐れ、問いを発しました。しかし、「あなたたちのための私の艱難、それはあなたたちの栄光なのです」(エペソ人への手紙3章13節) 「あなたたち異邦人のためのキリスト・イエスの囚人」(エペソ人への手紙3章1節) とパウロが言うことができたように、主にあって受ける制約の度合いが彼の民を富ませる度合いなのです。

啓示が豊かであればあるほど、理解する人は少なくなり、遠ざかる人の数は増えます。啓示が来るのは、ただ艱難と制限によります経験的に啓示を得ることは、何らかの方法で代価にあずかることを意味しますしかしこれこそ、神がご自身のために霊的な苗床を確保される方法なのです。<…>

<…>このような方法で主は御民をふるいにかけ、誰が本当に完全に彼ご自身と彼の証しの味方なのか、誰が他の思惑や興味によって多少なりとも動かされているのか、見破られます。ですから、大衆から拒絶されるというこの立場にあるその僕は、本当に必要を抱えている人や動機の純粋な人を探し出すための主の手段なのです。彼らはその僕を探し出し、その僕は彼らの必要に応じます。<…>

そこからわかるように、イエス・キリストの啓示の究極的最大事、個人的救いを超えた事柄、救われることを遙かに超えた永遠の時の前からの神の御旨に関する事柄に、主の民が導かれて直面する時、縮小、閉鎖、制限がなされなければならないのです。それまでは多くの活動が行われてきましたし、それはみな物事を特定の場所や状況にもたらすうえで極めて適切なものでした。しかし今や、それらを推進することはやみ、もっと強烈なものが必要になります。

神の究極的御旨を最も完全に証しするもの、そしてそれに最も近い証しを示すものは、次に、準備段階では必要だった神からの多くの良いものを剥ぎ取られ、究極的なものの中に閉じ込められなければなりません。この閉じ込めは真理の理解のためでも、教理の受け入れのためでもありません。

啓示に続く経験と、経験を解き明かす啓示により、存在のまさに繊維中にそれを造り込まれるためです。これは信奉されている解釈のために戦うことではありません。それはその僕たちの命そのものであり、その僕はまさにその化身なのです。そうなることを望むかどうかの問題ではなく、囚人になるしかないのです。神の主権がそうしたのです。<…>


「ですから私たちの主の証しを、また彼の囚人である私のことを、恥じてはなりません」(テモテへの第二の手紙1章8節)

「彼は自分で借りた住まいに満二年滞在して、自分を訪ねてくるすべての人を受け入れ(中略)主イエスに関する事柄を教えた」(使徒の働き28章30節)

「どうか主がオネシポロの家にあわれみを賜わりますように。なぜなら、彼はしばしば私を新鮮にしてくれましたし、私の鎖を恥とも思わないで、ローマに来た時、熱心に私を捜し回り、見つけ出してくれたからです」(テモテへの第二の手紙1章16節)





コメント

アーメン

こ の記事、隅からスミまで、アーメンと言いたいです。このような事柄は、理解する人と、まったく理解できない人とに分かれるものと想像します。また、理解し た人でも、いざ、それが現実となった時、信仰が動ずる人と、信仰にかたく立つ人とに分かれるだろうと思います。しかし主は、かならず教会のためにかたく立 つ一団の群れを、ご存じのはずです。主の重い御手に屈する人は幸いです。
【2010/10/08 10:38】 NAME[sasuke] WEBLINK[] EDIT[〼]

Re:アーメン

Sasukeさん

あなたの発言にアーメンです。十字架についてどんなに学んでいても、いざ十字架がやって来ると、横に飛んで逃げたくなるのが人間の心なのですね。 私もそうです。けれども、心から主に従いたいと願うならば、必ず、主がふさわしい時に私たちを十字架のうちに閉じ込めて下さる。その時、退路はない。主の 御手は重く思われますが、閉じ込められること自体が恵みです。

「主は、かならず教会のためにかたく立つ一団の群れを、ご存じのはずです。主の重い御手に屈する人は幸いです。」

終わりの時代に備えて、今、このような一団を主がまさに必要としておられるのでしょう。そのために試練を通して訓練を受けるなら、まことに幸いだ と思います。どうか主よ、私たちが主の御手の中で練られた金のようになるまで、試練を通して私たちを訓練して下さいますように。
【2010/10/09 10:42】
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