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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストと共なる十字架の死

主にある一人の姉妹へ

ハレルヤ! 主の栄光の御名を誉めたたえます! 喜びが心に溢れる出来事がありましたので、ご報告しますね。現在、直面しているあれやこれやの困難につい て思いめぐらしていた時のことです。最近、私の新しい隣人となって下さった遠方の友より、「一週間をたった3000円で過ごさねばならない」という便りが 来たのです。

一瞬、これは大変だ、と思ったのですが、まず祈るべきだと心に感じました。そこで、すべてを主の御前に持って行き、心のすべてをさらけ出して、へりくだっ て神様の御前に出て、必要を申し上げてください、改めるべきところは全て改めますから、どうか私を正しい道へ導いて下さいと、祈ってみてはどうかと申し上 げたのです。

主は私たちと夫婦のように親しい交わりを結びたいと願っておられるので、主を信じる者にとって、全ての困難は主に通じる道です。主イエスは「羊に命を与え るために、しかも、豊かに与えるために地上に来られた」方であること、「義人は信仰によって生きる」こと、「主により頼む者は失望に終わることがない」な ど、御言葉を宣言しました。そうです、私たちの死ぬべき身体も、主のよみがえりの命によって生かされ、愛する御子の信仰によって「生きる」のです。

彼女からは早速、主の御前に出てくださったという喜びに満ちたお返事がやって来ました。神の御前にへりくだるってこういうことなんだねと、喜んでおられる様子でした。主はどんな風に彼女に応えて下さるでしょうか。(食料備蓄などは十分あるそうです。念のため。)

けれども、話はここからです。この隣人の苦境の話が、私をハッとさせ、重要なことを思い出させました。かつて主を知る以前、信仰を離れて生きていた頃、私 はどんなに貧しい生活を送っていたかを思い出したのです。それはまるで死の陰の谷の淵を歩くような生活でした。教会の友達と共に最も安いファミリー・レス トランで昼食を取るときでさえ、清水の舞台から飛び降りるような決意をせねばならなかったのです。ついにその生活は保てなくなり、しがみついていた全ての ものが私から剥ぎ取られました。私は自分で自分を支えようとする全ての努力をやめて、主の御前に自分を投げ出して降伏宣言をし、心のすべてをさらけ出し て、ただ神に向かって祈り始めたのでした。

生活は完全に失われ、そこから、長い長い悔い改めの期間が始まりました。そのような悔い改めと待ち望みの期間は、約一年間ほど続きました。窮乏という言葉 では表しきれない、まさに私が牢に閉じ込められ、死んで墓に葬られたかのような真っ暗闇の期間。主以外の希望が全て閉ざされた期間。どの扉を叩いても、何 一つ、開かれず、地上の最後の居場所も奪われたような期間。もはや自己の努力によっては何一つ成しえないことが分かり、ただひたすら主の解決を待ち望むし かありませんでした。

それが主による閉じ込めであり、キリストと共なる十字架の死を実際に知るための準備期間だったということは、その頃は考えもしませんでしたし、知りもしま せんでした。ただ私は自己の力が尽き果てるまで、もがくだけでした。解決は、究極的な瞬間まで延期されました。ついに全ての希望がなくなり、信仰さえも絶 え果てるかに思われた時、主は私の心を訪れて下さり、私の上に十字架を実際として下さり、大いなる解放を成して、未だかつてなかった喜びと平安をもって、 私を深い暗闇の淵から引き上げてくださったのです。

それからどれほど私の生活は変わったでしょう。命が与えられました。自由が与えられました。暮らしが与えられました。隣人が与えられました。職が与えられ ました。家族が和解のうちに戻って来ました。確かに困難は尽きませんし、弱い器としての私は、痛みも苦しみもリアルに感じ、時には憤り、弱音をこぼし、涙 し、叫び声を上げそうになる時もあるのですが、それでも、主を知らなかった頃のあのような苦しみと絶望だけは、二度と味わうことがないという平安が心の中 に与えられているのです。

主を知ることの喜び! このことを思い出すとき、地上での苦しみがいかに取るに足りないかが分かるのです。人が私に何をできましょう? これは決して人が 私に何もしえないという意味ではありません。人は私を苦しめることができます。追いつめることができます。失望させることができます。非難することができ ます。居場所を奪うことができます。あらゆる方法で迫害し、圧迫することができます。しかし、そのどれも主が私になした裁きには遠く及ばないのです!

私はキリストと共に十字架で死んだのです! この意味がお分かりでしょうか。神が私に最も重い刑罰を下したのです。今日も、私は主と共に、あの木にかけら れて、最も重い刑罰を受け続けているのです! この十字架の死に同意なさるでしょうか? カルバリにおいて、我が肉体は我が罪のために、永遠に釘付けら れ、裂かれてさらし者とされ、我が魂は苦しみのうちに最後まで注ぎ出され、キリストと共に木にかけられて死んでいるのです。この事実に同意するでしょう か。

人のどんな圧迫も、神が私に下したこの刑罰には及ぶべくもありません。この世のどんな呪いも、非難も、圧迫も、何を合わせても、この十字架の死以上のもの にはなりません。しかも、そこにあるのは永遠の死です。十字架の死、それは私たちの自己の総決算であり、神が私に下された正しい裁きであり、宣告なので す! 私は裁かれました! 神ご自身が、私のアダムの命には生きる価値がないと宣告されて、私を死に至らしめられたのです! 

この世はあらん限りの方法で私を罪定めすることができるでしょうが、私たちはすでに死んでいます。十字架という最も重い奴隷め刑罰を、私たちは今日も、信 仰によって、主と共に受け続けているのです。私たちの命は絶たれ、キリストにあって、神のうちに隠されています。ですから、世が私たちに対して何をなしう るのでしょう。ただこの十字架を通して、私たちはアダムの命に死に、この世との結びつきに対しても死にます。この世から怒号のようにやって来る全ての嵐に 立ち向かう術はただ一つ、このカルバリの死にしかありません。

主の死を思う時、ただその前に深く頭を垂れるのです。主が私たちの罪の身代わりに、十字架で全ての痛みを負って下さり、その打ち傷を通して、私たちを自由 とし、平安を与えて下さったことを思い、はかりしれない厳粛な感謝が心にやって来るのです。あの恐ろしい生活から助け出されたこと、あの苦しみから助け出 されたこと、今やなくてはならぬ全てのものが上から与えられ、神によって養われているその恵みを思うのです。

こうして今、自由とされた私の前には、主が与えて下さった数々の恵みが置かれています。平凡で穏やかな生活、友との親しき交わり、何という甘さがそこにあ ることでしょう。しかし、それでも、目に見える宝は、もはや私の心を引かないのです。パウロが言ったように、日々、キリストの死と復活を知ることを追い求 めたいと願います。どうか私が道を間違えることがありませんように。この世が私を歓迎せず、この世が私の居場所とならなかったことを心から感謝します。主 が私を日々、より一層、カルバリの死にあずかる者として下さり、キリストにあって神のうちに隠して下さり、愛する御子の信仰によって生かして下さいますよ うに。

友へ:時には、私たちの財布には一週間分で3000円以下しかないかも知れませんが、それでも、義人は信仰によって「生きる」のです。



コメント

無題

ビオラさんへ♪

姉妹の喜びがこちらまで伝わってきて、とても嬉しくなりました!

>イエスは「羊に命を与えるために、しかも、豊かに与えるために地上に来られた」方であること、「義人は信仰によって生きる」こと、「主により頼む者は失望に終わることがない」

アーメン!宣言された御言葉のとおり、窮地の中にある姉妹に、主が栄光の富を持って一切の必要を備えてくださいますように!

 
【2010/10/09 19:43】 NAME[candy] WEBLINK[] EDIT[〼]

Re:無題

candyさん

今きっと礼拝中ですね。姉妹と良いひと時を過ごしておられる頃と思います。
こちらはすっかり後回しになってしまった遅い夏休みを取って、じっくりと田舎で過ごしています。

コスモスが海のように満開ですよ。景色はのどかで空気もきれいです。何でも祭の最中だとかで、駅にはひとだかりができていました。駅に降り立つま では、関東の空気を振るい落とせませんでしたが、不思議なことに、一歩、大地に足を踏み出すと、気分はすでに地元民に戻っていました。しばらく親族とゆっ くり時を過ごし、まだ人に慣れていない愛犬にしっかりと家族として私を覚えてもらう予定です。

来る洗礼式に向けて祈ります。「バクテスマ」なんて書いて来られる初々しいメールが可笑しくて…(バクテリアじゃない?)どうか主がこのバプテスマの只中におられ、御霊を豊かに注いで下さるように祈ります。

のどかなひと時が過ぎて行きます・・・。
【2010/10/10 10:48】
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