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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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私の杯――十字架の閉じ込め(3)

最後に、ソビエトの裁判で無罪とされて故国に帰ることを願っていたのに、スパイ罪で有罪とされ、シベリアでの懲役二十五年の判決を言い渡された直後、生きる 希望を失って、獄中で死を願った益田泉さんが、意識を取り戻した後に祈った場面を抜粋します。それは彼女が真っ暗闇の中でも、ただ神と共に生きるというこ とを、自ら選び取った瞬間でした。(『私の杯』、益田泉著、いのちのことば社、pp.81-83.)

目ざめ

「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」(ヨハネ一三・七)のみことばがふとわたしを呼びさました。そしてその声がだんだんと大きくなり、わたしの全身を震わせた。

「生きていた!」 驚いて、あたりを見回したが、だれもいない。四メートルぐらい高い壁の一角の、小さな小さな明かり窓が、鉄ごうしの向こうの、朝の光を天上に反射していた。

 今響いて来た声を反復してみた。
「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。「おお主よ。あなたでしたか。主よ!」

 わたしは板の床に座して、主の臨在に涙して、しばしことばもなかった。入獄第一夜の自らの姿を、絶え入る思いでざんげした。
「主よ。生かして下さいましたことを、感謝いたします。あなたが与えたもうた命をかってに絶とうといたしましたわたしの罪を、主よ、おゆるし下さい。十字 架の血潮をもって、わたしの罪をきよめて下さい。主イエスよ! わたしには生きる資格も、力もありません。しかし主よ! この暗い道を通ることが、あなた のわたしに対するご計画でしたら、お従いいたします。

 主よ。わたしは全くの孤独です。あなたなしでは、生きていかれません。愛する母のことも、おいやめいたちのことも、いっさい御手にゆだねます。どうぞ主よ、わたしに生きる力と、あなたによる慰めをお与え下さい」
 すわっていた床は、涙にぬれていた。寂しさと悲しさとの中からささげるざんげとせつなる祈りを、主は受け入れて下さった。
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ四一・一〇)。

 主は泣きじゃくっているわたしの魂に、みことばをもって語りたもうた。夕立のあとに見る虹のように、暗黒の独房に、栄光の輝きを拝し、主のおんいたわりをしみじみと感じた。

 主よみ手もて ひかせたまえ
 ただわが主の 道をあゆまん
 いかに暗く けわしくとも
 みむねならば われいとわじ

 ちからたのみ 知恵にまかせ
 われと道を えらびとらじ
 ゆくてはただ 主のまにまに
 ゆだねまつり 正しくゆかん
 
 主よ飲むべき わがさかずき
 えらびとりて さずけたまえ
 よろこびをも かなしみをも
 みたしたもう ままにぞ受けん
        (賛美歌二八五番)

 暗黒の中に立っていたもう主に、心の底から賛美をささげた。わたしの生涯の大いなる日であった。歌っているときも、涙はあとからあとからと、ほおを伝 う。悲しみや苦しみの涙ではなく神のふところにある者のみが知る安らぎと喜びの甘い甘い涙であった。わたしの獄中生活で幾度この歌がくり返されたことか。


 望みの全てが絶え果てていく時、絶望の中に一人置き去りにされる時、それまで信仰を持っていたつもりでも、キリスト者にとって、ただ生きるという単純な ことが、どれほど困難になるでしょうか。ただ生きているだけで、信仰が試されるのです。けれども、そんな時、ガイオン夫人を含め、キリスト者は皆、同じよ うに言ったのです、私の十字架の苦しみは、私にとって甘いと。

 ああ、主よ、どうぞ、この力ない、頼りない、ふがいない私をも勇気づけて、試練の日に、受くべき杯を、最後まで、勇気を持って受けることができるように 整えて下さい。十字架の閉じ込めの中にある時、あなたの臨在の甘さを知る幸いにあずからせて下さい。あなたの御名をたたえます。

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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