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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

霊と魂の切り分けについて(1)

主にある一人の姉妹へ

ゆっくりと田舎でくつろぎのひと時を過ごすのは良いものですね。静かな夜が過ぎていきます。主が我が家になして下さった十字架の御業は、ゆるぎないものでした。家族みんなで和やかに食卓を囲み、心安らぐひと時を過ごしています。

この土地では人々の舌が肥えているためか、食べ物屋さんがとても繁盛しているのです。ディスカントストアでは新鮮な海の幸が安く、姉妹の大好きな渡り蟹も、わずか240円、380円という値段です。昨日はいつものごとく美観地区を散歩して過ごしました。

さて、姉妹、洗礼を受けようとしている私たちの姉妹から、「雨になると教会に行けないため、17日に雨が降らないよう祈って下さい」とのメールをいただきました。

返信を書きながら、とても厳粛な喜びに打たれました。もはや、雨が降らないように…、なんて次元の話ではないのではないだろうかと思いました(それも重要 なのはわかっていますが)。姉妹が洗礼を受けること自体が、私達にとって、いや、全世界にとって、いや、天にとって、どれほど奇跡のようにはかりしれない 喜びであるでしょか…。

世から見れば、生きる希望が見出せないほどの耐え難い苦しみの中に、たった一人取り残されていた小さな魂に、主は目を留めて下さり、彼女を救いへと導いて下さいました。

福音は私達のような弱く愚かな人間の手に委ねられていますが、一人の魂が救われること、それはまさに主がなさるのでなければ、決して起こり得ない奇跡であ ることを実感します。主の愛は今、真に砕かれた魂の上に、豊かに注がれているのでしょう。畑は色づいており、刈り入れを待っているのです。そして、主は御 心にかなう働き人をずっと探しておられるのです…。

「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。』」(ヨハネ3:5-8)

神は霊であり、神と交わるためには、私達にも霊がなければなりません。しかし、人の生まれながらの霊は、罪の堕落によって死んだ状態にあり、神に対して閉 ざされているため、私達は生まれながらの罪深い姿のままで、御国に入ることはできません。救われて、神と和解し、御国の住人となるためには、人はキリスト の十字架の贖いを信じて受け入れ、神の霊によって生まれ、新しく生かされる必要があります。

水は死を象徴します。バプテスマを通して、私達はこの罪なる肉、アダムの古い命に対して象徴的に死にます。主イエスも人となって地上に来られた時、私達の 模範として、バプテスマを受けられました。私達は、主イエスを救い主として受け入れ、バプテスマを受け、神の霊によって新しく生まれます。

人が再生することは、それだけで奇跡のような喜びですが、悲しいことに、多くのクリスチャンはそれだけで終わりだと思い込まされてしまっています。けれど も、実際には、私達は、日々、キリストの十字架をより深く知ることにより、自分の肉でもなく、魂でもなく、御霊に導かれて生きる、キリストにある新しい人 とされることができるはずなのです。

バプテスマに向けて、主がどうぞ姉妹たちをふさわしく整えて下さいますように。

あなたの姉妹ビオラより
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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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