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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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霊と魂の切り分けについて(2)

第一テサロニケの手紙にはこうあります、「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」(5:23)

このように、聖書ははっきりと、人は霊、魂、肉体の三部分から成っていることを告げています。

さらに、御言葉は言います、「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いと意図を素早く識別します。」(ヘブル4:12、改訂訳)

神の言葉は人の魂と霊を切り分けることができると聖書は告げています。にも関わらず、今日、クリスチャンに、霊と魂とは切り分けできないものだと思い込ませるか、もしくは、この問題を曖昧なままやり過ごさせようとする惑わしの力が強く働いています。

なぜ私達の霊と魂は切り離されなければならないのでしょうか。なぜその問題がクリスチャンにとってそれほど重要なのでしょうか。

それは、私達の生まれながらの魂は、アダムの命(プシュケー、古き命、魂の命、動物的な命)の支配下にあり、肉の支配を受けて、罪に支配されているため、 その状態が、私達クリスチャンが御霊に従って生きる妨げとなっているからです。生まれながらの人は、肉体だけでなく、魂もまた、罪の下に売られているので す。たとえ救われて信者となっても、私達の魂は依然として、日々、十字架に立ち帰り、御霊によって新しくされる必要があります。それだけでなく、私達の霊 は魂から切り離され、魂は霊によって治められるようになる必要があるのです。

キリストにあって、私達が受けたものは、永遠の命(ゾーエー)であり、私達が生まれながらにして持っていたアダムの命、魂の命、動物的命(プシュケー)と は異なります。しかし、主イエスを救い主として信じて受け入れ、永遠の命を得た後でも、もしもキリストの十字架の御業をより深く実際として経験することが ないならば、私達の魂は、罪に汚染されたアダムの動物的な命、肉の強い影響下に置かれたままなのであり、つまり、私達の魂はサタンの作業場となってしまい かねない危険性を持っているのです。

今日、クリスチャンの間では、人の生まれながらの肉体が堕落しており、罪と死の法則に支配されていることは一般的に知られていますが、私達の生まれながら の魂も、もしも十字架、聖霊、御言葉によって取り扱いを受けないならば、古き人の一部として御霊の導きに逆らい、邪悪な勢力の働く要塞となりかねないこと は、ほとんどかえりみられていません。

人の肉とは、ただ肉体のみを指すだけでなく、アダムの動物的な古い命によって支配される人間の機能の総称とも言えます。私達の魂の機能も、御霊の導きの下にないならば、堕落した肉の支配下にあるのです。

たとえば、人の魂は、御霊の喜びや平安で満たされることができるだけでなく、御霊の支配下にない時には、さまざまな地的な思い、邪悪な想像や、悪意や、疑 いや、激しい怒りや、憎しみや、恐れや、絶望、嘲笑、蔑み、敵意、驕り、妬みなど…に占領され得ます。人の魂は悪しき思いに支配され得るだけでなく、肉体 を通してやって来るさまざまな感覚にも左右されます。

人の生まれながらの魂は、まるで錨のない船のように、絶えず肉体や環境の条件の影響を受けています。そのため、たとえ私達のうちに御霊が住んで下さってい たとしても、私達が自分の生まれながらの魂を主人として生きているうちは、純粋に御霊の導きに従うことは、とても難しいのです。なぜなら、私達の魂から出 てくるさまざまな思いや計画や感情が、御霊の導きを邪魔するか、それに逆らい、私達が霊のうちに感じる御霊の声を、すっかりかき消してしまいかねないから です。

さらに、魂は自己の座です。私達の魂は、生まれながらの特徴として、自己を喜ばせることを願い、神に従うことを願いません。自己はいくらでも自分を実際以 上に良く見えるように、演技したり、フリをすることが出来ますが、そのような演技は神の御前に腐敗しています。人は悪意を善意に見せかけたり、自分を有利 にするために駆け引きをし、ずるく嘘をついて立ち回ることができます。自分が得をするために、神を利用することさえします。さらに言うならば、人は自分の 心が何を願っているのか、自分でも正確に把握できずに、自分の心に欺かれて生きていることがしょっちゅうあります。それほどまでに人の心の欺きは深いので す。

聖書はこのような人の心について言います、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9)

私達クリスチャンは、人の心が邪悪である事実を知っていますし、自分の心の中に、神に従うことの妨げとなるものが満ちている現実に直面しています。生まれ ながらの人の肉体が、人を罪に引きずっていく力を持っているように、人の生まれながらの魂(もしくは自己)もまた、クリスチャンに御霊の導きを見失わせた り、憎むべき罪の方へと引きずって行く力を持つのです。エバが蛇により誘惑を受けたのは、彼女の肉体に対してではなく、まず、彼女の魂に対してだったこと を思い出すならば、肉体の堕落よりも、魂の堕落の方が、より一層、人を罪の支配下にとどめる強力な力を持っているとも言えます。

パウロはうめきを持って言いました、わたしは自分のしていることが、分からない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。<…>そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」(ローマ7:15-18)

私達も自分の魂の腐敗に直面する時、同じようにうめきます。私達は自分の偽りに満ちた心を主君とし、自分の魂に導かれて生きるのでは、決して、神を満足させることはできない事実を知ります。

「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって作られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22-23)

このように、御言葉は、私達のアダムの命に支配されて生きる古き人が、日々、十字架によって死に渡され、私達の魂も、キリストの十字架の御業により、深み まで、御霊によって新たにされて、真に神にかたどって作られたキリストを着せられて生きる必要があること、それが可能であるばかりか、主の御旨であること を示しています。このことは、私達の魂が消失することを意味せず、私達の魂が御霊に明け渡されて、御霊に服し、自己に対してでなく、神に対して生きるよう になることを意味します。

逆に言うならば、もしもクリスチャンが自分の魂のうちに潜む罪を認めず、自分の生まれながらの腐敗した魂を主人とし、自分の肉体と魂が、絶えずキリストの 十字架の死に渡され、御霊に服するものとなる必要を認めず、キリストと共なる十字架の死のうちにとどまる必要を否定して、そこから離れてしまうならば、そ のことが、その人が己の魂を神とし、自己(セルフ)に導かれて生きる者となってしまう危険に道を開くのです。

私達は血潮や十字架を拒んで、自分の魂がサタンの作業場となることに同意して生きるのでしょうか? それとも、私達の魂に対して、主が十字架を日々実際と して下さることを願い、信じるでしょうか? 終わりの時代には、特に、キリストかセルフかの選択は、クリスチャンにとってとても厳しいふるいわけとなるよ うに感じています。

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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