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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例―異端グノーシス主義の構造(1)

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:7-8)

当初の予定を廃して、以前からの予定であった内容を書こう。

神は侮られるような方ではない。従って、私たちが望むと望むまいと、人は自分のまいたものを必ず刈り取らねばならない。肉にまく者は肉から滅びを刈り取り、霊にまく者だけが、永遠に朽ちない報いを得る。

もう一度言うが、神は決して人に侮られるような方ではない。従って、たとえ人がどのような言い分を述べようとも、私たちは神の裁きの峻厳さを、畏れをもって思いみるべきである。肉なる者はすべて神の御前に静まり、膝をかがめ、ただ主の御名のみが讃えられますように。

聖書を見れば、人が神よりも自己を高く掲げ、己が罪を見ようとせず、子羊の贖いの血潮を否定し、十字架を否定し、己を神として生きるならば、その者が神から受ける裁きはまことに厳しいことが分かるだろう。十字架に敵対する者が受ける報いは滅びである。

神はすべてを見ておられ、不正を行う者、神の御言葉を曲げる者は、神の裁きの前に立ちおおせることはできない。たとえ虐げられた者がほふり場にひかれて行 く子羊のように沈黙を守ったとしても、まことの裁き主であられ、正しい報復を行われる方は、アベルの血が天に向かって叫ぶように、絶えず天に届いている無 実の人々の訴えに耳を貸して、悪しき者たちに向かって、必ず正しい裁きを行われる。私たちの罪からの救いは、ただ子羊の贖いの血潮にある。

昔、クリスチャンの大迫害が起こった時には、神の言葉を守り、あかしの言葉を守ったがゆえに、殉教したクリスチャンたちが大勢出た。今そのような時代が、 再び、間近に迫って来ている兆候が見られるように思う。しかも、悪いことには、背教に陥った自称(偽)クリスチャンがまことのクリスチャンを迫害するとい う構図がすでに見られる。

背教の根幹とは、すでに述べたように、キリストの贖いの十字架を否定し、アダムの罪を認めず、罪に汚染された人の生まれながらのアダムの命を聖なるものと して、神にまで祭り上げようとすること、すなわち、人が自分を神とすることである。反カルト運動に注目すれば分かるように、クリスチャンを名乗っている者 たちの中からでさえ、神の義を退けて、己の義を主張する者たちが現われたが、このようにして神の義を退けるなら、その者は己を神とするまでの高ぶりに陥 り、十字架を否定して、真理に逆らい、神に敵対する者となるという結果を、私たちは目のあたりに見ている。

自己を神とするという高ぶりに陥ることが、どれほどその人の人格と生き方を狂わせるかという実例は枚挙に暇がない。自分自身には愛がないのに、他人に厚か ましく愛を要求し、自分自身はへりくだることを全く知らないのに、他人には屈従を要求し、自己を義として、自分の一切の過ちを認めず、自己のために最大限 の要求を当たり前のように他人に突きつけ、しかも、同胞を次々と無慈悲に裁いて、無実の者までも容赦なく踏みにじり、神の言葉を忠実に守り、証の言葉を 守っている兄弟姉妹たちを次々と迫害して、数え切れない人々を苦難に陥れるに至った人たちを見れば、それは明らかである。このような時代の有様から、私た ちは来たるべき時の迫害の様相を読み取ることができるであろう。

「小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、 祭壇の下にいるのを、わたしは見た。彼らは大声で叫んで言った、『聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対 して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか』。

すると、彼らの ひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、『彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と言い渡された。」(黙示録6:9-11)


これから終末にかけて、クリスチャンの間に背教がはびこるであろうから、これから起こって来る偽りの教えについて、予め警告しないわけにはいかない。かつ て聖霊派の異端を分析しているうちに、私はキリスト教の背教が、最終的にはほとんど、グノーシス主義に集約されていくことに気づいた。グノーシス主義は、 霊と魂の切り分けを否定し、人の生まれながらのアダムの魂を神とし(すなわち肉を神とし)、キリストの十字架の贖いを否定して、アダムを神とする教えであ る。

グノーシス主義の専門的な文献は今は置いておくとして、グノーシス主義とは何であるのか、ウィキペディアの説明を引用して簡単に説明しよう。

1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によればグノーシス主義は、以下の点をふまえた神話を創作することが一般であると考えられている。
  1. 反宇宙的二元論: この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。
  2. 人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信: 人間は、劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が閉じこめられている。
  3. 人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在: 以上のことを知らない人間に対して、至高者の下からそれを知らせる使いがやって来て、認識を促す。
一言で言うならば、この教えは、堕落した人の生まれながらのアダムの命が、罪のゆえに神によって滅びに定められたことを認めず、むしろ、アダムの全ての命 の中に「聖なる要素(神的火花)」が宿っているとして、アダムの命を聖なるものとして祭り上げ、アダムの復権を目指して、人の自己(セルフ)を神とし、肉 を神として、神の永遠のご計画をひっくり返そうとするものである。この教えにおいては、人が救われるために、キリストの贖いの十字架を信じる必要性は否定 され、キリストの名が語られている場合にも、彼はただ啓示を伝えるための存在に格下げされている。そして、人は何らかの「啓示」もしくは「覚醒」の体験に よって、自分が本来的に持っている聖なる要素に目覚めて、「本来的自己」に復帰することができ、それにより、悟りに達することができると教えるのである。

グノーシス主義の世界観においては、神とルシファーとの関係は完全に逆転されている。この教えにおいては、この世界を創造した創造主は悪神であったという ことになり、造物主の悪のために世界が堕落したことになっている。こうして、天地万物の創造主をおとしめた上に、さらに、造物主の上には、もっと別な善な る至高者がいるのだと教える。世界を創造した神よりも、もっと高い、真の善なる知恵を持った「神」が存在するというわけである。そして、人は本来的自己に 回帰して、悟りに達することにより、世の堕落の真の原因を知り、「真の至高者」の存在を知るというのである。

このような筋書きは、まさに神になりたかった者の願いを言い表している。蛇は善悪の知識(悟りを得られること)によってエバを誘惑した。「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)蛇はこうして、神は不当に何らかの知識を人間の目から隠しており、人はそれを知ることによって、神のようになれると思わせたのである。

グノーシス主義は、今日でも、人が悟りによって奥義的な知識を手に入れることができるとして、人の魂を誘惑(啓発)し、一定の方法で、人の自己を刺激する ことによって、アダムの命の中に眠っている何らかの魂の力(それは聖なるものではありえず、堕落によってこの世の君へと渡された悪しき力である)を超自然 的に覚醒させ、人に自分を神のような者と思い込ませることによって、人を高慢にし、創造主に対する反逆へと駆り立てているのである。

グノーシス主義は様々に形を変えて、色々な宗教の教えの中に入り込んでいるが、これはこの時代の霊そのものであり、キリスト教の異端にも、この霊の影響が 見られる。たとえその教えの中でキリストや使徒たちの名が用いられていたとしても、このような異端の根幹が、事実上のキリストの十字架の否定であることは 明白である。

私たちは、聖書を通じて、生まれながらの人のうちに義人は一人もいないことを知っている。アダムの命の中にどんな聖なる火花もあろうはずがない。アダムの 罪に汚染された命には何の救いもなく、改善の余地が全くないからこそ、神はキリストを十字架にかけて、そこで全てのアダムの命を滅びに定められた。ただ御 子の贖いの十字架を信じ、水とキリストの御霊によって生まれた者だけが、滅びから救い出され、永遠の命を得て、神の国へと入れられる。

だが、恐るべきことに、御子の十字架による救いを否定し、造り主なるお方をおとしめ、人の自己を啓発し、アダムの生まれながらの命を神としようとする異端 は、巧妙にキリスト教に偽装して、クリスチャンの間にも、入り込んでいる。それはただ誤った教えとして広がっているだけでなく、この時代のアイオーンその ものでもあるため、もしも油断するならば、私たちも、たちまち肉を喜ばせる生き方、自己を高揚させる生き方へと逸れて行きかねない。試金石は十字架であ り、私たちは絶えずキリストと共に十字架の死にとどまる者であらねばならない。

さて、私たちの警戒しなければならない誤った教えの実例を挙げよう。たとえば、キリスト教の書物のごとく紹介されて、私が目を通したサンダー・シングの本 には、次のような驚くべきくだりがあった。それはこの書物がまさにグノーシス主義の影響に基づいて書かれていることを明らかに示している。

「火打ち石の中に火があるように、人の心の中にも神と交わることへの憧れがある。このような願いは罪と無知 という硬い火打ち石の下に隠れているかもしれないが、神の人と近づきになり、あるいは神の聖霊に触れられるときに、ちょうど火打石が鉄で打たれたときのよ うに、即座に火を放つ。」(サンダー・シング著、『聖なる導き インド 永遠の書』、徳間書店、1996、p.295)

「…人がどれほど悪く曲がった生き方をしていようとも、人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する。良心と霊的感覚が曇り動 かなくなったとしても、この聖なる火花は決して消えることはない。どんな極悪人にも多少の善がみられるのはこのためである。<…>この聖なる火花が不滅の ものであれば、どんな罪人にも絶望することはない。」(同上、p.296-297)


このようにして、サンダー・シングの書物は、人は火打石のようなものであって、火打石と火とは本来一つであり、どんな罪人であれ、人間の中には本来的に聖 なる火花が宿っていると主張する。キリストの贖いによらずして、生まれながらの罪人の中に聖なる要素があると主張するこの教えは異端である。

さらに、驚くべきことに、表向きにはそれとは全く何の共通点もないように思われる別の著書にも、これとほぼ全く同様の記述が見られる。こちらは火打石と火が本来的に一つだったのではなく、後から一つになるという主張である。

すでに述べたように、福音書房から出版されているウォッチマン・ニー全集には、ニーが言わなかったはずの発言が付け加えられ、改ざんされているとの危険性が多くの兄弟姉妹によって指摘されている。その一冊には次のようなくだりがある。

「さらに完全な結合

神はすでにわたしたちをキリストの中に包含されました。わたしたちは今どのようにしてキリストがわたしたちの中へと造り込まれるのかを見なければなりませ ん。キリストが わたしたちの中におられる時だけ、わたしたちの結合は実際であり、完全であり得ます。そして、その時はじめて、キリストが持っておられた あらゆるものが、わたしたちの中へと造り込まれます。このキリストとの関係こそ、その究極的で最高の意味での結合です。

ある日、わたしは鍛冶師が作業しているのをじっと見ていました。彼が大きな一塊の鉄を火の中に投じ、炎を燃え立たせてから、その赤くなった金属を鉄槌で打 ち始めました。脇に立っていた一人の弟子が火を得ようとしていました。彼は一枚の紙を巻き、それを火に突っ込むことをしないで、その端を赤くなった鉄に触 れました。たちまちその紙に火がつきました。わたしは火が鉄から出て来たのを見て非常に驚きました。この一塊の鉄は、今は他のすべての鉄とは違っていまし た。あなたはそれを鉄であったと言うかもしれません。しかし、またそれを一つの火の球と考えることもできます。火は鉄の中に、また鉄は火の中にあったので す。それは鉄の性質と鉄の様相とを持っていました。あなたがそれに一枚の紙を置くと、その紙は燃え上がりました。

神はわたしたちとキリストとの結合がその鉄と火の結合のように親密なものであることを願われます。神はわたしたちのすべての罪を赦されました。そして、わ たしたちの古い人をキリストの中で終わらせました。しかし、神はそこで終わりにされませんでした。鉄と火が一つであったように、神はわたしたちがキリスト と完全に一つであることを欲しておられます。鉄のあらゆる分子は火と混ざり合い、その火のあらゆる性質は鉄の中で現されました。神はこの程度にまでキリス トをわたしたちの中に造り込むことを欲しておられるのです。」(ウォッチマン・ニー全集(第二期 第二七巻、正常なキリスト者の信仰、日本福音書房、 1997、p.200-201)


この文章は、ローカル・チャーチの教えにおける「神と人とが混ざり合う」という主張に合致する。このような主張が誤りであることは次の論稿「神性と人性の混じり合い」「人が神になる」に詳しく指摘されている通りである。

「<…>これから理解できる通り、"人の神化"はまさにこのキリスト・イエスにおける"人性と神性の混ざり合い (mingling) "を根拠として導き出される"啓示"である。リーは1コリント12:12を根拠に、キリストの体である教会が"団体のキリスト"としてキリストご自身でもあると結論し、この延長線上に「父、子、御霊、そして教会は四で一である」とし、ついには「神と人が混ざり合って人(教会)が神化する」となるわけである。リーの"啓示"の導出過程は、たとえば"三一性"についても見られる通り、ある聖句を"文脈から切り離して"解釈を与え、それを根拠にして、あたかも点を線でつなぐようにして、一つの体系を組み立てるわけである。この究極、あるいは底流にはつねに「人が神になる」という"啓示"が頑固に留保されており、すべてはここに至るように組み立てられている。この際のキーワードはまさに"混ざり合い "にある。」

「ウイットネス・リーの晩年(90年代)の言葉("啓示")を紹介します。神の最高にして究極の目的が「人が神になることである」と明快に説いております。初期のうちからすでに「教会が神化する」という"啓示"が見られていたが、特に89年の分裂以降、イエスマンばかりが残ったために、その主張が露骨となった。しかしながら"God begets gods."となると、ついに来るところまで来たという印象すらあります。ここで指摘しておくべきは「あなたがたは神のようになる」と最初に口にした存在は、創世記3:5におけるヘビ=サタンでした。サタンは自分が神になりたかったのですが、それを阻止され、以後彼のすべての誘惑の動機はここにあり続けるのです。なお、ここの文章は、私による英語版からの直接訳ですので、日本福音書房から出版されているものとは用語などが一部異なることがあります。」


鉄と火は本来全く別のものであり、火打石と火も別物である。人の肉と、神の霊とは全く相容れない。私たちは この世の物質世界における肉の事柄と、霊的な事柄を決して混同することはできない。ところが、前述した(紫色の引用文の)文章には、霊の事柄と肉の事柄の 著しい混同が見られるのである。

私たちは、神の霊と交わることができるのは、人の霊だけであり、人の肉は神と交わることはできないし、まして、人の肉と神の霊とが混じり合うことなど不可 能であることを知っている。神は私たちキリスト者の霊のうちを訪れられ、霊のうちにお住まいになることはあっても、神の霊が人の肉の上に注がれることは不 可能であり、まして、神のご性質が人の堕落した肉に混じり合うことはあり得ない。ところが、前述の文章では、霊の事柄と肉の事柄との著しい混同が行われて おり、神が人と共に住まうということが、人のアダム来の生まれながらの肉にまで、後天的に、神の性質が混じり合う(もしくは本来的に含まれている)ことで あるとされ、それが人とキリストとの結合であるとの主張がなされているのである。

このような霊と魂(肉)の事柄を混同した主張は、霊と魂との切り分けを否定する(事実上、霊と魂とを混同する)グノーシス主義の主張と相通じるものであ り、明らかにこの世の霊による教えである。このような荒唐無稽な教えは、現在、様々なキリスト教の異端の教えの中に入り込んでいるが、いずれにしても、そ こには「人が神のようになれる」と教えて、人間を誘惑した神になりたかったあの者の主張が巧みに隠されているのを見て取れる。私たちはこのような教えを偽 りとして断固、警戒し、退けるものである。
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