忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

やもめの地境を守られる主

ある遠方の友が言った。夫を持ち、多くの子供を持ち、家庭の女主人となって、働かなくても暮らしていけるようになった主婦の女性たちと、寄る辺ない独り身の女性との間では、一般的に相互理解がどれほど難しいことだろうと。

その時、私は思い出した。弱さというものを私が本当に知るためには、それまでにより頼んできた若さや、強さや、様々な長所を打ち砕かれて、低められること がどうしても必要であった。もしも主が、木や草やわらの上に建てられた私の人生を根こそぎ焼き尽くされるということがなければ、聖書にはどうしてやもめや ら、産まず女やら、低められた女性たちが数多く登場するのか、身をもって理解することは決してできなかっただろうと思う。

「その聖なるすまいにおられる神は みなしごの父、やもめの保護者である。」(詩篇68:5)
「主は寄留の他国人を守り、みなしごと、やもめとをささえられる。しかし、悪しき者の道を滅びに至らせられる。」〔詩篇146:9)
「主は高ぶる者の家を滅ぼし、やもめの地境を定められる。」(箴言15:25)
「あなたのみなしごを残せ、わたしがそれを生きながらえさせる。あなたのやもめには、わたしに寄り頼ませよ」(エレミヤ49:11)
「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブ1:27)


みなしごとやもめ、その言葉だけでも、これほどまでに繰り返されている。両者ともこの社会では生存を脅かされている者たちである。しかし、神は常にこのような寄る辺ない者たちに目を留め、すすんで彼らの保護者になりたいと願って下さる。

主イエスは、賽銭箱にレブタ二枚を入れたやもめに目を留められた。また、一人息子に死なれたやもめの悲しみに目を留められた。五人の夫と別れ、六人目の男 性と暮らしているサマリヤの女に声をかけられた。七つの悪霊につかれていたマグダラのマリヤを助けられた。姦淫の現場で捕らえられて人前に引きずり出され て来た女を死から救われた。誰をとっても、この地上で人の目に全うに不自由のない生活を送っている果報者の女性たちではなかった…。

旧約聖書では、神は実に長い間、サラの胎を閉ざされ、彼女をうまずめの一人のようにされた。預言者エリヤはやもめの家に宿った。子供のなかったハンナはい じめられて悲しみ、神に叫んで祈りを聞き届けられた。夫に死に別れ、異邦人であったルツの信仰を見て、神は彼女を助けられた。

神の目は常に人の目に取るに足りないものとみなされ、誤解され、罪定めされている、孤独で、貧しく、心砕かれた者たちに注がれている。なぜ神はこのような 者たちをそれほどまでに愛され、心に留められるのか。なぜ人の目に見捨てられた者たちが主の憐みを受けるのか? なぜ配偶者を持たない者が、むしろ配偶者 ある者よりも、主の御心に留められるのか? 

それは、まことの配偶者とはただキリストのみを指すからである。妻の誇りは夫であるが、主によって召し出された人の栄光は、ただキリストによってのみ与え られるべきだからである。神は、一切人の力によらず、ただご自分の力だけによって、人が(主とともに)栄光にあずかる者となることを願っておられる。従っ て、パウロが勧めているように、本当は、私たちはこの地上において、むしろ配偶者を持たない方が良いのかも知れない。それは誰にでも出来ることではないと はいえ、神が最も望んでおられるのは、花嫁が花婿だけによって栄光を受けること、すなわち、まことの花婿であられるキリストだけを待ち望んで、聖徒たちが この世においては、自分は無に甘んじて主に心を捧げつくして生きることなのだ。

だからこそ、地上においてすでに幸せに飽き足りてしまった者たちは、神によって満たされるべき欠乏を持たない者として、むしろ退けられる。そして自らの欠乏ゆえに、主に向かって叫び求めずにいられない者が、かえって神によって願いを聞き届けられ、高くされる。

「飽き足りた者は食のために雇われ、飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、多くの子をもつ女は孤独となる。」(サムエル記上2:5)

「『子を産まなかったうまずめよ、歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い』と主は言われる。」(イザヤ54:1)


まことの配偶者はキリスト、命はただキリストによってのみ与えられるべきである。肉によって生み出されたものは肉に過ぎず、この世の権勢は人の真の栄光と はならない。地上で自らの幸福を高らかに誇り、私は幸せだ、私は孤独ではない、私には夫も子供たちもいて不自由はなく、やもめではないのだから悲しみとは 無縁である、と言っている「女」が、むしろ、神の御前に忌むべき象徴として退けられているのもそのためである。

「彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。 」(黙示録18:7)

だから友よ、私たちはいかに寄る辺ない者であったとしても、私たちは寄留者なのですから、むしろ地上では何も誇るべきものなど持たない方が良いのです。主 が私たちを恵んで下さった時にも、まるで必要なものをすでに得てしまったかのように、目に見えるものを誇らないようにしたいと思うのです。

なぜなら、御言葉はこう言っているからです、「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。 時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、 世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。」(Ⅰコリント7:29-31)

友よ、時折、弱さのゆえに、あまりにも心が圧迫され、誤解や、罪定めの声に負けてしまいそうな時があったとしても、それでも、忍耐しましょう、心高ぶることに比べて、心砕かれることの方がどれほど幸いでしょうか。

主は私たちの孤独も、涙も、全て知っておられます。ふさわしい時に、必ず主が私たちを引き上げて下さり、私たちの涙を自ら拭い取って下さり、私たちの名誉 を守って下さいます。私たちを悩みの中から助け出して下さるのはキリストです。地上の何ものでもなく、ただ主ご自身によって満たされること、それにまさる 栄誉があるでしょうか? 信じましょう、私たちの主は全ての欠乏を補って余りあるお方なのだと…。
PR

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー