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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

上にあるものを求めなさい

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)

終わりの時代には、あたかも神の裁きがすでに臨んでいるかのように、クリスチャンの間で厳しいふるいわけが起こるでしょう。私たちの信仰は試さ れ、私たちは自分が蒔いた種の厳しいまでの刈り取りを行わされるでしょう。これまでにはクリスチャンが肉に従って歩んだとしても、すぐに大きな代償を要求 されることはなかったかも知れません。しかし、時は縮まっています、ふるいわけが厳しくなる時、ひとつひとつの選択の重さ厳しさを、私たちは否応なしに思 い知らされることになるでしょう。

先に引用したエペソ六章12節の御言葉からも分かるように、私たちは望むと望まざるとに関わらず、真理と虚偽との戦いの最中に置かれています。戦いは私た ちの内側から始まっています。肉に従って歩むのか、それとも、御霊に従って歩むのか? 十字架の死に服するのか、それとも自己を建て上げるのか? 私たち は神の武具で武装し、火のような試練が降りかかっても、十字架にとどまることを学ばなければなりません。同時に、世でも戦いは起こっています。もしも欺か れるならば、必ず、それには厳しい代償が伴います。

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 …真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」(Ⅱテモテ4:3-4)

ここで言う人々とはクリスチャンです。すでに多くのクリスチャンが地上のものに心惹かれ、自己(セルフ)を喜ばせる耳ざわりの良い教えに逸れ て、真理を捨てていきました。ある人々はついに、十字架も、血潮も、御言葉も退けて、生まれながらの全ての人のうちには(聖なる)光が宿っており、生まれ ながらの全ての人のうちに神(キリストが)がおられる、という反キリストの教え、異端グノーシス主義の教えを奉じるに至りました。

異端の教えの最後は必ずこのグノーシス主義、人の肉を栄化し、人が神のようになるという主張に至りつきます。しかし、異端の教えの始まりには、人を喜ばせ る甘さがあり、それはあたかも謙遜なものに聞こえるでしょう。その入り口は広くて入りやすく、人に親切なので、欺かれてそこから入っていく者が多いので す。それに対し、十字架は狭き門です。なぜなら、十字架は生まれながらの人に対する罪の宣告であり、人の肉を否定している、生まれながらの人間にとっては 耳ざわりの良くない教えだからです。

今日、十字架によらずとも、生まれながらの全ての人は救われているとか、クリスチャンは悪人も罪人もひっくるめてどんな人でも愛して赦して親しく交わるべ きであるとか、クリスチャンは異端の識別などという偏狭な作業はやめて、福音をゆがめ十字架に敵対する者たちとも無条件に融和して愛し合うべきであるとか いった類の偽りの教えが、教会の中にまで、まことしやかに広まっています。それは、人の耳にはとても心地よく響くため、十字架以外には救いがないと言っ て、真理にとどまっている人々が、かえって偏狭で頑なな人間として罪定めされる傾向にあります。

私たちは真理に踏みとどまり、十字架以外に救いがないと主張する時、心を疑われ、誤解され、罪定めされるかも知れません。しかし、それは神の動かせない事 実であり、真理なのですから、人の歓心を失うことを恐れて、真理に関して妥協することはできません。むしろ、何でも愛して赦して式の見境のない教えは、人 間本位であるがゆえに、人には好感を持たれるかも知れませんが、その本質は偶像崇拝であり、神の御前には忌み嫌われる姦淫の霊、偽りの霊による欺きがそこ にあるのです。

「…民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現われるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。」(Ⅱペテロ2:1-3)

はっきりと言いますが、福音を曲げる異端とは、決して言葉や概念だけの問題ではありません。それは私たちクリスチャンの命に関わる根本問題なのです。偽り の教えは、人の人格を狂わせて、神への反逆の道を歩ませ、人生を破滅させてしまいます。聖書ははっきりと私たちが偽りの教えを識別し、そこから分離して、 真理だけを選択して身を守るよう教えています、「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。」(Ⅱテサロニケ5:21-22) 「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。」(テトス3:10)

人は欺かれる時、その甘さや心地よさのために、偽りに伴う代償の重さを考えないかも知れません。しかし、神は聖なる焼き尽くす火であられ、キリスト以外の 土台に建てられたもの、人の肉(木、草、わら、おがくず、等々)の上に建てられた全てのものは必ず焼き尽くされます。神の裁きは峻厳です。救いそのものは 変わらないかも知れませんが、今生の人生においても、私たちは自分の肉に蒔いたがために、肉から滅びを刈り取り、来るべき永遠においても、神から受けられ るべきであった永遠の報いを失ってしまうことがありうるのです。

さらに、主イエスは門から入って来ない者はみな強盗であると言われました。門とは十字架の子羊であり、御言葉なる主イエスご自身を指します。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。」(ヨハネ10:10) 十字架を骨抜きにし、キリストの十字架以外に救いがあるかのように教え、生まれながらの人を高く掲げる教えを信じてしまうなら、私たちの人生は盗まれ、食い尽くされて、滅ぼされてしまいます。

キリストの十字架の贖いを捨て去り、セルフを甘やかすことを選んだ人々には、必ず、自己の異常なまでの肥大化という悲惨な結果がつきまといます。これは自 覚を伴わない一つの恐ろしい病気のようなものであり、初めはすぐにそれと気づかないかもしれませんが、時間とともにその経過が周囲にも分かるようにはっき り現われ、その人自身の人格が著しく損なわれ、人生が失われたことが分かるのです。

神は聖なる方であられるがゆえに、ご自分の民にも聖別を要求されます。私たちの神は、決して聖なるものと汚れたものとが混じり合うことをお許しになりませ ん。神の愛は「妬む愛」であり、排他的で独占的な愛です。妻が夫だけを忠実に愛するように、クリスチャンは神のみを礼拝する民として選び出され、この世か ら分かたれたのですから、神以外の霊に身をささげるべきではないのです。聖書における姦淫とは、霊的には偶像崇拝を指しており、人が神以外の霊と親しく交 わることや、偽りの教えを信じて受け入れることがそれに当たります。それは神に忌み嫌われ、神の怒りを招く行為なのです。神は罪人に対して忍耐しておられ ますが、だからといって、不義や罪に対する神の裁きの峻厳さは動かせません。神を侮ってはなりません、私たちは必ず自分の蒔いたものを必ず刈り取らなくて はならなくなります。

ですから、たとえ私たちは人の歓心を失ったとしても、真理に敵対するものをきっぱりと退け、神に対する貞潔さを守ることをやめてはならないのです。御言葉 は幾度となく、クリスチャンが偶像礼拝から遠ざかること、汚れたものと交わらないこと、神以外の霊と交わらず、神の怒りを招く汚れた一切のものから分離す る必要性を訴えています。

「不信者とつりあわないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあ るか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮であ る。神がこう仰せになっている、

『わたしたちは彼らの間に住み、
かつ出入りをするであろう。
そして、わたしたちは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう』。

だから、『彼らの間から出て行き、
彼らと分離せよ、と主は言われる。
そして、汚れたものに触れてはならない。
触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
そしてわたしは、あなたがたの父となり、
あなたがたは、
わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
全能の主が、こう言われる』。

愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)


もしも真理に従いたいならば、偶像礼拝者、真理に敵対する者との間には、霊的には常に明確な一線が引かれなければなりません。たとえ人がそれを偏狭さやか たくなさと誤解して罪定めしたとしても、キリストというただ一人の花婿に仕えるために、他の「夫」と交わらないことは、花嫁として当然のつつしみであり、 それは断じて罪などではありません。むしろ人に優しい態度を維持しようとして、どんな教えでも愛し、どんな教えを奉じる人でも、見境なしに受け入れて交わ ることの方が、神に対して貞淑さを失うこと、すなわち霊的姦淫を意味するのです。

残念ながら、すでにクリスチャンと呼ばれている人々の多くが偶像礼拝者となり、異端や背教に逸れていきましたが、このように意図的に神の義を退けて、己の義を打ちたてようとして、真理を否定する人々からはただ遠ざかるしかありません。

「『終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう』。彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。」(ユダ1:18-19)

「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も 知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。だから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、また知性が腐って、真理にそむき、信心を利 得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。」(Ⅰテモテ6:3-5)

「終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ 者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する 者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろうこうした人々を避けなさい。<…>

彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。」(Ⅱテモテ3:1-9)

「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリント4:4)


これが真理を喜ばず、不義を喜ぶ者たちに対する御言葉の厳しい宣告です。不義を喜ぶ者たちの最後は滅びなのです。もしも私たちが、不義の教 えを奉じる人々を喜んで受け入れるならば、私たちはその背後にある偽りの霊と交わることになり、それによって、真理から逸れていくことになるでしょう。繰 り返しますが、聖書はクリスチャンが異端と親しく交わるようには教えていません。

特に、黙示録に登場する淫婦バビロンとは、世の終わりに、偽りの姦淫の霊に支配される霊的な一大共同体を指します(恐らくはそれには神の教会の名がついて いることでしょう)。真理を曲げる異端に対しては昔から容赦のない裁きが行われて来たことはすでに述べたとおりですが、「彼女」に対する裁きがどんなに厳 しいものであるかを思えば、誰もあえて彼女の説く偽りの教えに近寄ろうとは思わないでしょう。

わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。 彼女の罪は積もり積もって天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて二倍に報復をし、彼 女が混ぜて入れた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ。彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを 味わわせてやれ。

彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。それゆえ、さまざまの災害が、死と 悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである。彼女と姦淫を行い、ぜ いたくをほしいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しみ、彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って 言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。」(黙示録 18:4-10)


バビロンはこの世との結婚によって、世を夫として富める者となり、自らの栄華を誇るようになりました。バビロンは「私はやもめではないので、悲しみを知ら ない」と言っていますが、彼女に幸せをもたらしたその結婚は、本来、結婚と呼ばれるべきものではなく、むしろ姦淫と呼ばれるにふさわしい関係です。

彼女は、ただ一人の花婿キリストを待ち望む純潔の花嫁という道から逸れてしまい、自分の手っ取り早い幸せを追い求めて、キリスト以外のものでも、何でも夫 として受け入れ、世と妥協し、罪を大目に見て、この世にしっかりと座を据えてしまいました。彼女はキリストを待ち望んで、この世においてはつつましい寄留 者として、十字架の苦難と貧しさに甘んじることをやめて、むしろ世との交渉によって世に固定的な居場所を手に入れ、誰にでも愛想を振りまき、自分の手腕と 美によって、女王のような権力と富を持つに至ったのです。

ある人がいみじくも、このような世との結婚は、ノアとロトの時代に人々が娶ったり嫁いだりしていたのと、本質的に同じ現象であると指摘しています。神の民 が神ご自身から目を離し、自分だけの幸せを求めて、世との交渉によって世に座を据え、世に深入りし、定着してしまう時、その堕落によって汚染された「婚 姻」は、人には一見、幸せをもたらすように思われても、神の目には正しい婚姻としては認められず、ある日突然、滅ぼされてしまうのです。

「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぐなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄が降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様であろう。

その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへ戻るな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。」(ルカ17:26-33)


この文脈において、もう一度、次の御言葉を見てみると、娶ったり嫁いだり、売り買いしたりすることが、この世の移ろいゆく有様に過ぎない事柄であり、たと えそれが神の恵みとして私たちに与えられたものであっても、私たちの目がそれに奪われてしまったり、そこに座を据えたりすることは、神の御心に反している ことが分かるでしょう。

「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののよう に、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきで ある。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。」(Ⅰコリント7:29-31)

「その日」は突然やって来ます。その時、私たちが心の中で最も大事にしていたものは何であったかが、私たちの行動にはっきりと表れます。私 たちが愛していたものは、何だったのでしょうか? 私たちの目は本当に見えない神ご自身だけを単一に見つめていたのでしょうか? 私たちはどれくらい地上 的な幸せを誇り、この世の成功をよすがに生きていたのでしょうか? 私たちが追い求めていたのは、自分自身を養うことだったのでしょうか? それとも、人 からの愛や賛同だったのでしょうか? 家庭的幸福や、仕事での成功、社会的地位、もしくはクリスチャンの間での評判だったのでしょうか?

その日、私たちが世に対して、人に対して、持ち物に対して、見えるもの全てに対してどれくらいはりつけにされていたのか、それとも、むしろ、心惹かれてい たのかが、私たちの「振り返る」という行動になって表われないように願います。その日、私たちの目は、それまで自分が最も心を砕いて追い求めて来た何か に、自然とひきつけられるでしょう。たとえ敬虔そうな行いの実であっても、目に見える産物、地上的なことがら、この世の移ろいゆく有様に重点を置いて生き ていた人は、何か未曾有の事態が起こって、見える世界が足元から揺るがされる時に、上にある事柄、すなわち、目に見えない神の来るべき御業をまっすぐに見 つめるのでなく、自然と、下にある事柄、これまでに熱心に築き上げて来た地上的な安定を取り戻そうとして、後ろを振り返り、後戻りすることになるでしょ う。

この世を振り返る、たったそれだけの行為が、人の心の中にあるものを全て暴露してしまうのです。その人が最も愛していたものは何であったか、その人が最も 執着していたものは何であったかを、たった一つの行為が物語り、それが主の御前で私たちを決定的に罪定めするかも知れないのです。私たちはこのような厳し いふるい分けがなされる時代へ向かって歩いています。だからと言って恐れすぎる必要はありませんが、目に見えるものの偽りがますます深まる中、クリスチャ ンが真に見えないお方のみに望みを置いて、目に見えない都を目指し、地上のものを頼りとすることなく、人を頼りとするのでもなく、ただ岩なるお方のみを錨 とし、やぐらとして生きるべく、今から一つ一つの選択を慎重に求められていると私は感じています。

「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘 れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと務めているのである。」(ピリピ2:13-14)

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ3:1-2)


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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